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【僕って何】芥川賞読んでいく:45冊目【1977年受賞作】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
背伸びせず、今持っている力でまとめていきますので冗長になります。計画性なしの見切り発車で書いていきます。
今回は、第77回(1977年)芥川賞受賞作。

私にとって45冊目の芥川賞受賞作です。これまでまとめてきたものは下のページにまとめています(随時更新)。

もし読んでくれる人があるなら「ここの解釈はおかしいんじゃない?」とか「私はこう思うよ」とか「いいね」とか些細なものでもコメントしてくれたら嬉しいです。では、まとめていきます。


【僕って何】を読んで思ったこと

いったい今までの自分は、何のために、何を求めて生きてきたのだろう

山田はだんだん早口になってきた。僕はB派の理論については何も知らないし、山田が話すことがだんだん一般論を離れてB派の理論に近づいてきているのかどうかもわからない。田舎の高校で受験勉強ばかりしていたので、社会や、政治や、学生運動に関する知識が自分でも情けないと思うほど如している。”英文解釈例題集”と〃オリジナル数学問題集”の話しかしないクラスメート、わざとらしく父親の見ているテレビの音量をしぼったり、頃合いを見はからって夜食を運んできたりして、無言で受験勉強を強要する母親。これが僕の知っている世界のすべてだ。いったい今までの自分は、何のために、何を求めて生きてきたのだろうー。

「いったい今までの自分は、何のために、何を求めて生きてきたのだろう」と自分に問いかけた経験は誰しもあるんじゃないか。小説では大学のため上京し、一人暮らしを始めた青年が、自分の将来に向けて目を向け始めるところから始まる。
これから自分は何を求めていけばいいんだろう、いや、そもそも過去の自分は何を求めていたのだろう。いい大学に入るために受験勉強を頑張った。こうして今大学に入ったとき、自分は次に何を目指せばいいんだろう。たいていの人間は日々過ごしているうちに生活に慣れてきて、こうした問い自体も問わなくなっていく
人を含め動物は新しい環境における脳の活動は異なるし、それをストレスなどで実感もする。ただ、具体的にどうして急に新しい環境で将来を憂いたりするのだろう?
ひとつの脳科学的な説明としては、新しい環境にくると脳ではノルアドレナリンが積極的に出るようになる。この物質は新たな環境で注意力を高めたり、記憶力を上げたり新しい環境に適応する応答を高めるが、その一方でストレスを身体にかける要因ともなる。そんなこと誰でも経験的にも知っていることだと思うが、面白いのはノルアドレナリンは前頭皮質に作用して脳を悩ませるモードに切り替える機能をもったいたりすることだ。悩ませるモードというのは行動決定にかける時間が長引くなどで顕在化してくる。たとえば、新しい教室などで新しい人と話すとスムーズに話が出てこないなどもそのせいだと思われる。ただ、慣れてくるとこの傾向も収まっていくのである。

普通はそうして「自分はいったい何を求めて生きていくのだろう」と問わなくなるのであるが、一部の人間は問い続けるものである。それで問わない人間を卑下したり、逆に思考を紡いでいけない自分を嫌になったりするのだけど、芥川賞はそうした苦労を抱えながら生きていく人間を題材にした小説が多い気がする。そして、僕自身もそういう小説を読むのが好きではある。

生きる意味を問うたとき、なぜか人の思考は意志決定に流れるらしい。最近まとめた二つの芥川賞受賞作も、意思決定あるいは自由意志についてが主題だったと思う。

他にも『ニムロッド』も同じような主題がストーリーを進めていく原動力になっていたと思うし、近いうちにそれもまとめたいと思う。

もっとなまなましい憎悪に似た感情によって結ばれ、ひとつにとけあったような感じにうたれる

その荒い息で、誰もがせいいっぱいの声をふりしぼってスローガンを叫んでいる。その声はりに似た異様な響きになって周囲の建物に跳ね返り、まるでキャンパス全体が一つの音の坩堝になったようだ。この熱気。胸を押しつぶすようなシュプレヒコールの響き。自分がデモ隊列の中にいる。それはつい半時間前には考えられもしなかったことだ。だがいま僕はここにいて、このデモ隊列全体を包んだ奮と熱気の中にぴったりととけこんでいる。僕は涙がこぼれそうになる。

そんな孤独感を抱えた青年は学生運動に巻き込まれていく。

B派の理論について僕は何も知らない。政治についても、社会の動きについても恥ずかしくなるほど無知だ。だがこうして腕をしっかりと組みあわせ、おたがいの肌のぬくもりが感じられるほど身体と身体を寄せあいながら、汗にまみれ同じひとつのスローガンをくりかえし叫び続けていると、何かこのデモに参加している百人、あるいはそれ以上の人間たちのすべてが、現実の社会体制に対する否定的な認識、というよりももっとなまなましい憎悪に似た感情によって結ばれ、ひとつにとけあったような感じにうたれる。

なんのために集まり、なんのために闘争をしているかもわからぬまま、ただ何かに向けて集まっている群れの中で涙を流しそうになりなる。「もっとなまなましい憎悪に似た感情」というのはなんだろう。現実問題について知らなくても、感動し、集団化し、ひとつに溶け合う感じにうたれてしまうのはなぜだろう。
動物には、孤立するとストレスにつながる仕組みが内在しているらしい。そして、集団に復帰することでストレスが解消される。孤立したくない気持ち、群れたい気持ちというのは進化の中で自然選択されてきた脳のメカニズムであるらしい。

実際、人との触れ合いによって孤独感が消失していくものなのだろう。

自分自身でものを考えるということは、人間関係以上に大切なことだとは思わないか

B派の中には自治会の役員をはじめ、数多くの活動家がいるが、委員長はそうした活動家たちとはどこか違っている。他の活動家たちは、やたらと激昂しとめどなく理論をこねまわす割には、どの人間も同じょうな顔つきで同じようなことを喋るだけで、個性が感じられない。委員長には何か人間くさい、自分をカッコよく見せようとする野心が感じられて、それが親しみやすさをかもしだしている。と同時にまた、ぎょっとするような凄味を感じさせることがある。

青年が所属するB派には理論をこねくり回すだけの活動かもいるが、凄味を持った委員長もいる。B派で活動していくうちに彼女もでき、集団に取り込まれていく。思想を十分理解することもできず、かといって容易にやめることはできないまま青年の大学生活は続いていく。
そんな中で全共闘を率いる男と話をする。

「それはそうだろう。人間関係というのは大切だからな。でも、自分自身でものを考えるということは、人間関係以上に大切なことだとは思わないか。自分の思想を貫くためには、親や兄弟とだって対立することもある。ましてB派での君の人間関係というのは、たかだか三カ月ちょっとのつきあいなんだろう?」

何を求めて生きていけばいいのだろう、に対する答えはB派では得られず、青年は全共闘に乗り換える。

もうどこへも行くところがない

それはA派やB派が「野合集団”と言っているような、複数のセクトの寄り集まりではなくて、主体的な問題意識をもったひとりひとりの個としての人間が、自分自身の闘いとして積極的に問題をつきつめ、その個々の闘いの総和を結集したひとつの運動体として、俺たちは”全共闘”運動を提起しているわけだ。

人はどういう問題意識を持って行動していくのだろう。そういう問いを絶えず投げかけてくる作品ではある。結局、全共闘とB派を含む激しい戦闘になり、B派はほぼ解体、全共闘も主権を取れず、青年はまた孤立する。

いま、こうして僕は、ただひとり、行くあてもなく街路をさまよい歩いている。ここに自分が存在しているということ自体が僕にとってはやりきれない重荷だ。B派の中にも、全共闘の中にも、僕は自分の居場所を見つけだすことができなかった。この荷やっかいな”僕”というものを、いったいどこに運んでいけばいいのだろう。
僕は歩きはじめる。もうどこへも行くところがない

青年はバスに乗り自分の知らない場所へと向かう。そこで変な男に絡まれ、酒を飲みにいって挙句のはてにボコされて腕時計まで取られる。金は一銭もなく、時間をかけて歩いてアパートまで帰る。帰ると彼女と、学生紛争の騒ぎを聞いて田舎からやってきた母親がいる。
小説としては、何を求めて生きていけばいいのか、について明確に語られることなくエンド。少し奇妙な終わり方ではあるけども。


発散的に書かれた個人的なもの

いきなり記事として走り出す前に、準備運動で体を温めることが必要なのです(なんて不経済な人間)。上の記事にする前に書いたメモも残します。
コーヒー奢って下さい。(駄文なので、読みたくねえと思ったら気軽に返金要求して下さい。本当はお菓子も欲しいけど)

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