「 夏の色は 」(3)例えるならイエロー
私には、大学2年の夏からこの夏までの間、付き合っていた人がいた。
付き合ってから3年目のその日、これからどうやら別れ話になるんだと、その人の顔を見てすぐに分かった。
他に好きな人が出来てしまったんだと、正直に告げられて、私の口からポツリと出た言葉は「そっか。」という一言だけだった。
人の恋愛感情というものを、私にコントロールすることは出来ない。
怒りや喪失感が湧かない自分自身を、どこか俯瞰して見ていた。
正直で嘘をつけない、そういうところがこの人の誠実さだと思っていた。
そういうところに恋をしていた。
人が同じ人に恋をする期間は、2〜3年と言われているらしい。
いわゆる恋愛寿命が終わるギリギリまでは、きっと私を、恋愛対象として好きでいようとしてくれていた。
そう思ったら、抗う気にもなれなかった。
これからは良い友達でいたいなんて言われた時は、それは出来ないとはっきりと伝えた。
良い友達でいようと、ここで答えたとしても、そんな約束、私はきっとすぐに破ってしまう。
付き合ってから3年ぴったりのその日、私はまだその人のことを好きだった。
その翌日から、線を引いたようにして、恋愛感情から友情関係になるなんて難しいと思った。
恋愛寿命にも例外はきっとあるだろうと思う。
恋愛寿命があるのなら、友達に戻れるまでの期間とか、新しい人間関係を築けるまでの目安期間というものも、あるのかもしれない。
それでもきっと、少なくとも数日では変われないとないと思う。
「その好きな人とうまくいくといいね。」そんなフレーズが浮かんだけれど、口に出しては言えなかった。
言わないのが、私なりのせめてもの抵抗だった。
「今までありがとう。とっても楽しかったよ。」本当にそう思えたその言葉だけを伝えて、3年間よりももっと好きだったよと胸にそっとしまって、喧嘩が下手な二人は、ある意味スムーズな別れ話となった。
こんな時に、次に彼女になるかもしれない誰かに変に遠慮して、自分の荷物はこの部屋に残したくなかった。
3年付き合った彼氏の部屋には、思ったよりも自分の荷物は少なくて、荷物を取りに来るのを言い訳に、もう一度この部屋に来るなんてこともなさそうだった。
それが寂しいようで、きっと引きずらずに済むから、それで良かったんだ。
駅まで送ると言ってくれたのを断り、部屋を出て自分の手で玄関の扉を開けた。
決して明るいとは言えない2人の空気に反して、外の陽射しは必要以上に眩しい。
申し訳なさそうなその人の表情は、この夏の眩しい陽射しには似合わなかった。
扉を開けたまま、見送ってくれているのを背中で感じながらも、振り向いたらどんな顔をしたら良いのか分からなくて、もう扉を閉じられていても悲しいから、振り向けなかった。
最後くらい笑顔で手を振る、そんな強い女性には、まだなれそうにはない。
別れというのを実感するのには、どのくらいかかるのだろうと、ぼんやりと考えながら、駅まで歩いた。
いつかは離れることが決まっていた二人なのかもしれないと思った。
紙袋1枚で済んだ重過ぎない手元の荷物で、妙に納得していた。
相手のせいにして嫌いになって、何かのせいにして自分を守って、人はまた新たな恋をする。
それでも私は、最後まで自分なりの誠実さを貫いてくれた人を、嫌いになんてなれそうにはない。
その人の未来に私が居てもいなくても、幸せではいて欲しい。
私を故意に傷つけようだなんて、思ったわけではないと分かっているから。
あっさり別れたくせに、何が正解かなんて分からなかった。
そういう時でも、彼は私の質問にあっさりと答えてくれた。
高校生のあの夏も、今年の夏も、同じ質問に同じように返してくれた。
同じ答えを期待していたわけではないし、彼を試そうとしたわけでもない。
それでも確かに、私の煮詰まってどうしようもない頭の中を、彼の答えがいつもクリアにしてくれていた。
先日ギャラリーで見たあの絵画は、まるで自分の心情を表してくれているかのように見えた。
心地よく感じた理由は、それだけではなかった。
私を受け入れてくれた、境目のない曖昧な色彩は、どこか彼といる時のような感覚を思い出させてくれたんだ。
帰省中に彼と過ごした海では、気まずい時間に耐えられなくて、また会社で会おうだなんて、冷静な振りをしてその場を去ってしまった。
私は今まで、大事な時こそ誤魔化してきてばかりだったように思う。
彼が私に歩み寄ってくれているのを、見ないふりをしてきてしまった。
今日になってようやく気がつくなんて、ため息が出る。
彼の好きなことを知る時間は、高校生の頃から好きだったけれど、私は彼に自分のことを知ってもらおうだなんて、思ってもいなかった。
それが不調和を招いてしまうことだってあるんだ。
あの絵画が寄り添ってくれたと感じられたのも、作り手側の表現があってこそだった。
母が伝えてくれた言葉の意味がようやく分かった気がする。
明日、会社で会うよりも前に、少しだけでも良いから彼に会いたい。
自分の感情が素直に湧いてくるのを感じた。
大通りから横道へ抜けて路地裏に入ると、車が一台通れる程の道沿いに、民家がいくつか並んでいた。
スマホでマップを確認しながら歩いていると、一軒だけ少し奥まった場所に建つ、小さな民家にたどり着いた。
門の奥、玄関の軒先で傘をすぼめる彼女が見えた。
彼女は傘を綺麗にまとめて顔をあげると、すぐにこちらに気がついて、微笑みながら手招きをしてくれた。
彼女に呼ばれてたどり着いたこの場所は、本屋だった。
玄関に『本屋』とだけ書かれた小さな看板が、表札代わりに下げてあった。
会社からもそう遠くはないけれど、今まで気がつかなかった。
この路地裏に入るのも初めてだった。
「こんなところに本屋さんがあったんだね。」
「秘密基地みたいでしょ? 私にとっては、本当に秘密基地なんだ。」
温かみのある照明と、優しく穏やかなBGM、店主が腰を掛けられる程のお会計スペースに、少しの観葉植物。
本屋にしては決して広いとは言えない、8帖ほどの古民家の一室は、ジャンルこどにスペースが分けられ、それぞれに本が綺麗に並べられている。
どれも一冊ずつ並べられた本は、店主が自らセレクトしているそうだ。
ここは彼女のお気に入りの場所のひとつだと教えてくれた。
「時々ここに来て、その日の気分で1冊の本を選ぶの。小説だったり、エッセイだったり、絵本を選ぶこともある。 自分が探している情報や、その日の自分に寄り添ってくれるような本が見つかるんだ。」
「今まで来たことのないような本屋さんだ。 素敵な本屋さんだね。」
しばらく本を眺めたり、手に取りめくってみたり、この本面白そうだねとか、小さい時に読んだことあるなんて話しながら、穏やかな時間を過ごした。
彼女は、考え事を整理するために少し遠回りをして歩いていた途中で、この本屋さんを偶然見つけたと話してくれた。
それ以来、時々ここに来ては『今日の一冊』を選ぶらしい。
ゆったりとしているけれど、ただ長すぎる時間とは違う、この時間がやっぱり好きだった。
彼女は少し迷った後に、雨の日に似合いそうな、『今日の一冊』を決めたようだった。
「私は小さな頃からずっとそばに本があってね、こういう場所とか、こういう本が好きなんだなって知ってもらえたら、少しだけ近づいてもらえるんじゃないかなんて、そんなふうに思ったんだ。」
嬉しかった。
本棚のほうを見ながら、言葉を丁寧に選びながら、ゆっくりと話す彼女は、聡明だ。
本当はこの言葉以上に考えを巡らせていただろう。
店を出て、まだ雨が降る空に向かって傘を広げた。
彼女は横を向いて、優しくそっと傘を開いた。
歩きながら彼女と話すのは久しぶりな気がした。
彼女は、地元の海で過ごした日のことを振り返る代わりに、この時間を用意してくれた。
あの日から今日までの数日間は、あまりにも長かった。
それでも、今日の時間を再び過ごせるのなら、何度だってあの時間へ巻き戻しても良いと思った。
いつもならリラックス出来るはずの彼女の隣は、この日ばかりは妙に緊張してしまって、互いの傘が、二人の距離感を決めてくれていることに、少しだけ救われた。
好きな人に好きだと言うように、言葉一つで距離を近づけられることもあるけれど、僕と彼女の場合は少し違う。
彼女はというと、いつもよりも肩の力が抜けているようだった。
お気に入りの場所がそうさせたのか、彼女の中で何かあったのか分からないけれど、その温度差が余計に僕の心拍数を誇張させていた。
たった数日、なんとなく互いに気まずいままだったこの時間は、本の中に自分の一部を置いてきたまま本を閉じてしまったような、開き方も忘れてただ眺めているような、私にとってはそんな時間だった。
自分だけの本があって、自分が本の中身を選べるのなら、そこには君にもいて欲しいって思った。
このページを彩るのはいつも君だったんだよ。
そんなことを思いながら、口には出せなくて、なんて言ったら上手に伝わるかなんて分からなかった。
この本屋さんに一緒に来られたら、何か変わるんじゃないかって少しだけ期待して、彼を呼んだ。
私は、仕事の休憩以外でどこかに呼び出すなんて今までしてこなかったから、彼は戸惑っているようにも感じたけれど、すぐに行くよと返事をくれた。
普段はあまり本を読まないと言っていたけれど、私のお気に入りを知ってもらうことで、少しだけ私に、近づいてもらえるんじゃないかなんて思った。
もっと上手く話せたらなと思うけれど、何とか伝えた言葉に、彼は静かにありがとうと答えてくれた。
彼の真剣な眼差しを見たら、私の発した言葉の意味よりも、もっとそれ以上に受け取ってくれているのが伝わってきた。
「また仕事帰りに寄ってみようかな。」
最後に手に取った本を閉じながら彼がそう言った。
私には十分な言葉だった。
その言葉を合図のようにして、どちらからともなくお店を出た。
開いた傘の露先が、時々互いに優しく当たりながらも、私たちの間に程よい距離を保つ。
それが不思議と、ちょうど良い歩幅を探している最中の私たちを、焦らせないでいてくれた。
「その本、読み終えたら貸して欲しいんだ。 自分『今日の一冊』は決めきれなかったな。」
私の買った本に視線を向けながら彼は言った。
「読めるかどうかは分からないんだけどね。」
そう言って笑う彼は優しい。
傘に当たる雨音もまた、優しくて心地良かった。
連休明けの職場は慌ただしかった。
彼女も僕も、少しの間はそれぞれの仕事に集中した。
二人の関係性に特別大きな変化はないものの、同じプロジェクトを共にしたり、忙しい合間にも一緒に休憩を挟んだりと、仕事を通して同じ時間を過ごした。
少しずつ元のペースを取り戻して来た頃、久しぶりに彼女と一緒に休憩時間をゆっくりと過ごした。
「今日は休憩が遅くなっちゃったね。」
先に買っておいたアイスコーヒーを彼女に手渡した。
「この景色が見れる休憩時間も好きだよ。この時間は光る雲が見えるんだ。」
彼女はありがとうと言ってコーヒーを受け取ると、目を細めて空を仰いだ。
「今日一日が終わりに向かっている感じがするね。」
彼女の言う光る雲というのは、雲の隙間を縫うようにして溢れる、日の入り前の陽射しがそう見せているのだろう。
「この景色を見るために今日があったんだなぁって思える。」
彼女が大きく伸びをしながら見る視線の先に、ちょうど飛行機雲が下から上へと空高く伸びていった。
「もうすぐ夏が終わるね。」
「夏の始まりが随分遠くに感じるなぁ。 この冬きっと私は、アイスコーヒーの美味しい季節が待ち遠しくなると思う。」
手に持った、氷だけになったアイスコーヒーを見つめながら、名残惜しそうに言ったかと思えば、ホットコーヒーは何月から飲みたくなるかなぁ?なんて他愛もない会話になって、僕はこれから来る冬も好きになっていくだろうと思った。
そんなひと時を、西陽の強くなる眩しい太陽が少しずつ包み込んでいった。
「そうだ、またお気に入りのお店を見つけたよ。」
お気に入りの話をする彼女は、心が踊るのを隠せないでいる。
彼女のお気に入りと、僕のお気に入りは違うけれど、彼女のお気に入りを知る時間が好きだ。
僕のお気に入りをいつだって優しく受け入れてくれていた彼女は、こんな気持ちで聞いてくれていたのだろうか。
秋が近づき高くなる空には、まだ夏の色が残る。
夏の終わりの柔らかな青に、寄り添うような白。
この空はもう、彼女をきっと泣かせたりはしない。
