見出し画像

152.必要なのは「 理解 」ではなく「 氣づき 」。


自我さんが一生をかけて埋めようとする「 不足 」。

自我の不足とは、幼少期、親に望んでも叶えられなかった「 もっとこうしてほしかった 」( 愛してほしかった、認めてほしかった、など )という思いのこと。


これを小さくするには( 前回からの続きです🍎 )


最近の【 Ness 】では、祖父母の代から継承されてきた「 存在欲求をハズす 」というのがトレンドだが、もちろんそれもひとつの選択だと思う。


けれど


私が実感しているのは、それだけでは不十分、というか、もっと体感をともなった「 感じる 」と言う部分にフォーカスした方が本質的なように感じていて。


なぜなら、「 存在欲求をハズす 」だけでは理解で終わってしまうからだ。


「 理解 」というのは、自我の過去の因果「 1+1=2 」といったように、「 こうなったらああなる 」という


予測できる範囲内においての理屈での把握。


それだと「 不足を小さくするには存在欲求をハズす 」という知識は身についても、それ以上のことは起きないように思うのだ。


そこに必要なのは


「 理解 」ではなく「 氣づき 」。



「 氣づき 」とは「 理解 」を超えた先にあるもの。


因果や理屈で把握できるものではなく、意味や理由もなく「 本質 」に目覚めること。


別の表現をするなら


私たちの中に眠っている「 叡智 」につながったとき、


理由や因果関係なく「 あぁそういうことだったんだ 」という思いとしてやってくるのが「 氣づき 」ではないかと。



ではどのような選択が「 氣づき 」につながるのかと言えば



Bodyを感じる、心臓の鼓動を感じる、


といった身体に意識を向ける。

『 氣づきにつながる選択 』/【 Ness 】


「 理解 」には限界がある。


それは頭の中だけの世界だから。

でも自我さんは「 理解できたら何かが変わる 」「 知識を積めば変化が起こる 」と思っている。


果たしてそれは真実だろうか?


そうやって様々な本を読み、情報にふれ、学びを経験してきているにも関わらず


いまだに「 ただ生きているだけで満たされている 」という安堵感を得られていないのはなぜだろう?


そこに「 味わい 」がないからではないだろうか。


りんごの本質を知るには、りんごとは赤くて、甘味と酸味のある果物で、旬の時期はいついつで。。。


という知識でりんごを知ったと思っているのは自我の世界線での「 理解 」に過ぎない。


けれど


りんごにかぶりついて、硬い皮やシャリシャリという果肉の歯ざわり、口の中に広がる果汁を味わって初めて


あぁ! りんごってこういうものだったんだ!


という、「 りんごそのもの 」を感じることができる。


この「 味わい 」が「 氣づき 」ではないかと。


そう考えると、いくら自我の構造を知ったとて、存在欲求をハズしたとて


それは頭の中だけで自我さんが「 わかった! 」となっているだけで、進化にはつながらない。


ホントの意味での無条件の幸福を望むなら

「 理解 」を手放して、「 味わい 」の世界へ。

「 五感を感じる 」「 鼓動を感じる 」という「 味わい 」を通して、ようやく「 理解 」を超えたものを受けとれるんだろうなぁと。

じわじわ “ 感じている ” 今日この頃である🍎


【 関連記事 】




いいなと思ったら応援しよう!