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キャリバンと魔女/シルヴィア・フェデリーチ

ここ数年来、仕事で「少子化」をテーマにしたプロジェクトに関わることが増えている。
議論のはじまりは、こんな問いからはじまる(いや、フォーカスをどこに充てるかを定めるため、そこからはじめている)。
少子化そのものを食い止めるべく出生率を上げるべきか。あるいは、それはひとまず置いておいて目の前の年金不足や労働人口の減少といった「影響」のほうにフォーカスするべきか。はたまたフォーカスを絞って若年層が結婚や出産をためらう経済的・社会的な障壁を取り除くことから始めるべきか。それともそれとも、成功事例とされるフランスの家族政策にでも学ぶべきか。論点は多岐にわたり、それぞれがもっともらしく響くので、この議論を着地させるのはそれなりの工夫がいる(工夫の仕方は企業秘密だ)。

しかし、こうした議論の応酬のなかで、僕はいつも、より根源的な、そしてそれゆえに厄介な問いへと引き戻されてしまう。
「そもそも、なぜ少子化は問題とされるのだろうか?」と。
この問いに、実はそう簡単には答えられない。この数年、僕がジョルジョ・アガンベンらの「生政治」をめぐる本を読み解き、国家が個人の「生」そのものを統治の対象とするあり方や、そこに必然的に結びつくジェンダーギャップといった問題に思考を巡らせてきたからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
国家が人口を管理し、その増減を経済の指標とすることの自明性を、僕たちはあまりにも疑わずに受け入れすぎてはいないだろうか。この視点に立つと、少子化という現象を単に「解決すべき問題」としてシンプルに扱うことは、ひどく困難に思えてくるのだ。


『キャリバンと魔女』が暴く資本主義と生政治の血塗られた起源

シルヴィア・フェデリーチの『キャリバンと魔女』。
この困難さ、この違和感の正体を、これほどまでに鮮烈に、そして容赦のない筆致で暴き出した本を、僕は他に知らない。

『キャリバンと魔女』

本書が突きつけるのは、僕たちが「問題」として語るその前提自体が、近代資本主義の黎明期、すなわちマルクスが「本源的蓄積」と呼んだ時代に、血塗られた暴力のなかで、極めて意図的に構築されたものであるという、戦慄すべき事実である。「魔女」という言葉を含むタイトルは、その過程が僕たちの生ぬるい想像をはるかに超える規模のジェノサイド――とりわけ女性に対する――を伴っていたことを、静かに、しかし雄弁に物語っている。

本書の冒頭、フェデリーチは核心的な問いを突きつける。

本書が取り組むもっとも重要な歴史的問いとは、近代の端緒における何十万もの「魔女」の処刑をどのように説明できるのか、そして資本主義の出現が女性に対する戦争と同時期であったのはなぜかをどう解釈するのか、ということだ。

『キャリバンと魔女』

この問いは、500年前のヨーロッパで起きた悲劇を解明する、単なる歴史研究ではない。それは、現代に生きる私たち自身の足元を揺るがす、鋭利な刃物のような問いだ。
なぜ国家は人口を管理しようとするのか。
なぜ女性の労働は「無償」とされるのか。
なぜ共同体は失われ、私たちは孤立した個人として生きるのか。

これらの問いの根源を探る旅は、必然的に、この血塗られた歴史の深淵を覗き込むことから始めなければならない。『キャリバンと魔女』は、そのための、痛みを伴うが不可欠な導き手となるだろう。

失われたコモンズと、資本に従属する身体の誕生

フェデリーチの思索は、1980年代のナイジェリアでの経験から始まる。彼女がそこで目撃したのは、IMFと世界銀行が主導する「構造調整」という名の、現代版「本源的蓄積」だった。共有地が破壊され、人々が生存の基盤を奪われ、そしてその政策が「無規律との闘い」と名付けられた女性の身体と生活様式への激烈な攻撃を伴っていた。この光景は、彼女に16〜17世紀ヨーロッパの「魔女狩り」を想起させた。歴史は繰り返す。ただし、まったく同じ形ではなく、装いを変えて。

この気づきから、フェデリーチの筆は資本主義が世界を覆い尽くす以前の、失われた世界の姿を丹念に浮かび上がらせていく。それは、ノスタルジックな楽園としてではない。搾取もあれば苦難もある、しかし、現代とは根本的に異なる論理で動いていた世界としてだ。その世界の中心にあったのが、「共有地(コモンズ)」の存在である

土地の使用とともに、牧草地、森林、湖、野生の放牧地といった「共有地」も使用されるようになった。それは農民経済にとって欠かせない資源をもたらし(燃料にする薪、建築資材、養魚池、動物の放牧地)、共同体の結束力と協同性を育んだ。

同上

コモンズは、単なる経済的資源ではなかった。それは、人々の自給自足の基盤であり、共同体の自治と連帯が育まれる、いわば社会的なインフラだった。領主の支配はあれど、人々はコモンズを通じて、貨幣を介さずに生きるための糧を得、互いに助け合う関係性を維持していた。この時代の女性の労働もまた、現代のそれとは大きく異なっていた。「生産労働」と「再生産労働」という、近代が生み出した奇妙な分断線はまだ存在しない料理も、育児も、糸紡ぎも、農作業も、すべてが家族と共同体の生存に不可欠な労働として、地続きに認識されていた

囲い込みにより引き剥がし

この、資本主義以前の世界は、いかにして解体されたのか。フェデリーチがマルクスの「本源的蓄積」の概念を拡張して描くのは、その過程が、経済法則による平和な移行などではなく、むき出しの暴力によって強行されたという事実である。その暴力の第一のターゲットこそが、コモンズだった。「囲い込み(エンクロージャー)」という名の暴力は、それまで共同で利用されてきた土地に生垣や柵を打ち込み、人々を生存の基盤から強制的に引き剥がした。

自給自足の経済基盤と、共同体の連帯というセーフティネットを同時に失った人々は、もはや自分の労働力を切り売りして賃金を得る以外に生きる術のない、孤立した存在――「プロレタリアート」へと転落していく。ここで思い起こされるのが、デヴィッド・グレーバーが『負債論』で論じた、貨幣経済が共同体を破壊するメカニズムだ。
グレーバーによれば、「人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくこれである。すなわち、奴隷とはじぶんたちを育てあげた共同体から剥奪された人びとのことである」。
贈与や相互扶助といった人間的な関係で結ばれていた共同体に貨幣が浸透すると、あらゆるものが計算可能な「負債」へと転換され、人間関係は非人格的なものへと変質する。囲い込みによって土地を追われ、都市へ流入し、賃金に依存せざるを得なくなった人々は、まさにこの共同体破壊の悲劇を体現している。彼らはもはや共同体の成員ではなく、資本に従属する、交換可能な労働力となったのだ。

女性の身体の囲い込み

そして、この本源的蓄積という名の暴力は、もう一つの、より深刻な「囲い込み」を伴っていた。それは、「女性の身体」の囲い込みである。

新たな貨幣体制では、市場のための生産のみが価値を創造する活動と定義されたのに対し、労働者の再生産は経済的観点からは無価値なものとして考えられるようになり、労働とさえみなされなくなった。「再生産労働は……女性にとっての生まれついての天職として神秘化され、「女の労働」とレッテルを貼られて、その経済的重要性と資本蓄積における役割は隠蔽された。

同上

資本主義は、労働力を再生産する(つまり、新たな労働者を生み、育て、ケアする)という、それ自体が価値創造の根幹であるはずの営みを、「労働」のカテゴリーから切り離し、家庭という私的領域へと押し込め、それを女性の無償の「愛」や「天職」として神秘化した。このイデオロギー的な操作によって、資本は、労働力の再生産コストを支払うことなく、その恩恵だけを享受できるという、驚くべき搾取のシステムを構築したのである。

トリン・T・ミンハが『ここのなかの何処かへ』で喝破した、権力による境界設定の暴力――名付け、分類し、境界線を引くという行為が、いかに他者を周縁化し、支配を正当化するか――が、ここに見事に見て取れる。
ミンハが指摘するように、

権力は、いかなる徴づけもされずに動き回りながら、他者を徴づける権利は常に不当にわがものにしている。言い換えれば、動きの原理の中では、支配的な自己、つまり「普遍的な主体」は、柔軟で探究的で「無色」、かつ、何ものにも縛られることなく動ける者として自身を示す一方で、不動の周縁に閉じ込められた者たちは、「有色」で真正なるもの、つまり、位置づけやすく、慣習に縛られた存在として表わされる。常に他者の領域を画定するのに熱心な〈われわれ〉は、〈われわれ〉の利害が絡む時にだけわれわれ)のために、境界線を画定するというわけだ。

トリン・T・ミンハ『ここのなかの何処かへ』

「女の労働」というカテゴリーを「発明」し、それを家庭という私的領域に封じ込めることは、まさにこの権力作用そのものだったのである。

魔女狩りというジェノサイド――身体と知の破壊

しかし、これほど巨大な社会変革が、抵抗なく進むはずがない。人々が何世紀にもわたって築き上げてきた生活様式や共同体の絆は、そう簡単には解体できない。そこで、この変革を強行し、抵抗の根を絶つために用いられたのが、究極の国家テロ――「魔女狩り」だった

フェデリーチは、魔女狩りを単なる前近代的な迷信や宗教的狂信の産物として片付ける見方を、断固として退ける。それは、勃興しつつある資本主義国家によって、極めて計画的に、そして冷徹に遂行された、政治的プロジェクトだったのだ。
その刃が向けられたのは、産婆、治療師、あるいは単にコミュニティのなかで知恵と信頼を集める年老いた女性たちだった。つまり、共同体の知の継承者であり、女性による再生産の自己管理能力を体現し、資本主義的な規律に従わない、自律した存在だった。

魔女狩りは、女性によるみずからの再生産機能の管理を破壊することを目論み、より抑圧的な家父長制的体制を発展させるための地ならしをしたということについては、概ね意見が一致している。

『キャリバンと魔女』

魔術という知識体系の根絶

彼女たちが持つ、ハーブや出産に関する知識、つまり「魔術」とされた知の体系は、自然と身体を分断し、それを機械として管理しようとする近代科学の視点とは相容れない。
魔女狩りは、この女性たちが担ってきた知の体系を「悪魔の業」として根絶やしにし、女性から身体のコントロールを奪うための、ジェノサイドに他ならなかった。拷問によって隣人が隣人を告発し、娘が母を売るよう仕向けられたそのプロセスは、女性コミュニティの信頼と連帯の絆を内部から破壊し、彼女たちを互いに監視し合う孤立した存在へと変える、悪魔的な心理戦でもあった

機械論的身体を生政治が管理する

この身体と知の破壊と並行して、人間の身体そのものの捉え方もまた、決定的な変容を遂げる。デカルトに象徴される機械論的自然観は、それまで魔術的な力を宿す小宇宙と見なされていた身体から魂を剥ぎ取り、それを物質的な法則に従う単なる「機械」へと変えた。

こうして身体は社会政策の最前面に飛び出した。身体は刺戟を与えなければ働かないのろまな獣としてだけでなく、労働力の器、生産手段、主要な労働機械として立ち現れたからである。

同上

身体が管理可能な「機械」となったとき、国家は新たな統治の領域を発見する。それが「人口」である。ミシェル・フーコーが「生権力」と呼んだ、人々の「生」そのものを統治の対象とする、近代国家の統治様式の誕生だ。
フェデリーチは、この生政治の起源が、フーコーが考えたよりも遥か以前、資本主義の勃興と人口危機に直面した16世紀にまで遡り、魔女狩りこそがその最初の、そして最も暴力的な発現であったことを示す。

ここまでの話をシステム思考のツールである因果ループ図で簡単に描くとこうなる。

『キャリバンと魔女』を元に作成した土地と女性の身体の「囲い込み」による変化を示したループ図

この文脈で、ジョルジョ・アガンベンの議論は決定的な意味を持つ。アガンベンが『ホモ・サケル』で暴いた、主権権力によって法的に保護されない「剥き出しの生」へと貶められた存在――魔女たちは、まさにその典型であった。彼女たちの身体は、もはや彼女たち自身のものではなく、資本によって「使用」され、拷問され、処刑される、完全に支配者の手に委ねられた「物」となったのだ。アガンベンが『身体の使用』で論じた、主人の意のままに「使用」される古代ローマの奴隷(「語る道具」)のアナロジーは、ここに鮮やかに重なる。

繰り返される暴力――新大陸から現代へ

そして、このヨーロッパで開発された暴力と支配のテクノロジー――囲い込み、身体の機械化、ジェノサイド――は、巨大な実験場を見出す。新大陸アメリカである。先住民の虐殺と土地の収奪、そしてアフリカから強制的に連行された人々の奴隷化。これらは、ヨーロッパにおける本源的蓄積の論理を、さらに大規模かつ残虐に適用したものに他ならなかった。

プランテーション制度は資本主義的発展のために非常に重要であったが、その理由は、それによって蓄積される莫大な量の剰余労働のためだけでなく、以来資本家階級の諸関係の範型となった労働管理、輸出志向型生産、そして経済統合と労働の国際分業といったモデルをつくったからである。

同上

フェデリーチは、ヨーロッパの魔女狩りが17世紀後半に下火になった理由のひとつを、この大西洋奴隷貿易の「成功」に求めるという、衝撃的な視点を提示する。プランテーションにおける黒人奴隷という、より効率的で大規模な搾取のシステムが確立されたことで、ヨーロッパのプロレタリアートを直接的に暴力で支配する必要性が薄れたのだ。暴力は消えたのではなく、その舞台を大西洋の対岸へと移したのである。
こうして、ヨーロッパの女性は「家庭の天使」という新たな規範へと押し込められ、その一方で、アフリカの同胞たちは文字通り「物」として扱われるという、人種とジェンダーを横断する新たな国際分業体制が築き上げられていった

この「物」としての扱いは、まさにジョルジョ・アガンベンが論じる政治権力による「剥き出しの生」の創出に他ならない。
アガンベンは『身体の使用』で「主権者がそのつど決定する例外状態というのは、まさしく、通常の状況のなかでは多様な社会的生の形式に結び合わせ戻されているようにみえる剥き出しの生が、政治的権力を最終的に根拠づけるものであるかぎりで明示的に問いに付される状態のことにほかならない。都市から排除すると同時に都市のなかに包含することが問題となる究極的な主体は、つねに剥き出しの生なのだ」と書いている。
排除すると同時になかに包含する。この二重性が問題である。大西洋のプランテーションで収奪されたアフリカの人々、あるいは魔女狩りで社会から排除された女性たちは、法的な保護の外に置かれるかたちで排除されると同時に、たんなる生命として管理・処分される「剥き出しの生」として、この新たな資本主義的秩序の基盤に組み込まれた=包含されたのである。

この構造は、現代においても繰り返される。
フェデリーチ自身がナイジェリアで目撃したように、IMFや世界銀行が主導する「構造調整」は、現代の「囲い込み」として機能し、人々の共有財産を破壊し、女性たちを貧困と暴力に追い込んでいる。ここでもまた、経済的な論理が優先される中で、特定の人々が法的な保護や社会的な権利を剥奪され、生存そのものを脅かされる「剥き出しの生」の状況が生み出されている。
歴史は、終わった過去ではない。それは、今ここにある現実のなかに、姿を変えて生き続けているのだ。

私たちは、今どこに立っているのか?

『キャリバンと魔女』を読んだ後では、私たちが日々直面する問題が、まったく違った、そしてより深刻な風景として立ち現れてくる。僕たちが当たり前だと思っているこの社会の土台――私有財産、賃金労働、核家族、そして国家による生の管理――が、いかに最近の発明品であり、かつ、その成立のためにおびただしい血が流されたかを、フェデリーチは暴き出した。

私たちは、この血塗られた歴史を知らないまま、あるいは見て見ぬふりをしたまま、問題を語りすぎてはいないだろうか。共同体が破壊され、女性の労働が無償化され、身体が管理の対象となった、その根本的な構造に触れることなくて良いのだろうか。

この問いに、簡単な答えはない。『キャリバンと魔女』は、安易な希望を与えてはくれない。むしろ、私たちが立っている地面がいかに脆く、暴力的で、不正な歴史の上に成り立っているかを突きつけ、私たちを深く不安にさせる。

しかし、絶望だけではない。歴史を遡り、暴力の起源を突き止めることは、同時に、失われた別の可能性――共有地で育まれた共同性、生産と再生産が結びついた暮らし、自然と共振する身体――を再発見することでもある。それは、資本主義とは異なる世界のあり方を構想するための、重要な足がかりとなるはずだ。

そのためには、まず、この巨大で暴力的な構造を直視し、私たちがどのような歴史の地層の上に立っているのかを自覚することから始めなければならない。そして、その構造が今もなお、形を変えながら私たちの生を規定し続けているという事実から目を逸らさないことだ。根本にメスを入れるとは、そういうことだろう。

だが、そのメスを、私たちは一体どこに、どのように入れればよいのだろうか。
この問いこそが、本書を読み終えた私たちが、引き受けなければならない、重く、そして決定的に重要な課題なのだ。

『キャリバンと魔女』は、そのための、あまりにも痛みを伴うが、しかし現代を生きるすべての人にとって避けては通れない、必読の一冊である。
この本を読まずして、私たちの社会の根本問題を語ることは、もはや不可能だとさえ、僕は思うのだ。

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