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小さな卵の、革新|第2部

■ 第3話 できない理由

2回目の打ち合わせは、8月だった。

大川が持ってきた資料は、前回より厚かった。エッグストリーム計画の詳細。市場分析。競合調査。想定する商品ラインナップの概要。ターゲット像。クラウドファンディングによる初期需要の検証。池田は、資料を受け取りながら、重さを感じた。紙の重さではなかった。この男は、本気だ。そう思わせる重さだった。

会議室には、今日から田中も加わっていた。開発課長として、商品化の可否を判断する立場での参加だった。田中は資料を受け取り、無言でページをめくり始めた。あおいは、その横顔を見ながら思った。田中は、簡単に「できる」とは言わない。そして、できない理由を見つけるのが早い。

大川が話し始めた。

「前回お伝えした三つの軸を踏まえて、具体的な商品イメージを持ってきました」

スライドが切り替わった。うずら卵を主役にした、大川が描く新商品のイメージが語られていた。小さなパッケージ。スタンディングパウチ。中身は、うずら卵と、タンパク質が取れる具材を含む色とりどりの野菜をふんだんに使った和風出汁のジュレ。使う具材は、10種前後を想定している。

罪悪感なく食べられる。ジムやヨガの帰りに。オフィスの昼食に。少し満たしたいときに選べるもの。コンセプトは、分かった。でも、それがどんな顔をした商品なのかは、まだ見えなかった。

あおいは、スライドの説明を聞きながら、商品を思い描いてみた。今まで見たことがない。でも、欲しいと思った。それだけは、はっきりしていた。

田中が、ページをめくる手を止めた。

「ジュレ、というのは」

「ゼラチンベースの、半固形のスープです。具材をそのまま閉じ込められる」

「加熱殺菌が必要になりますね」

田中の声は、静かだった。だが、あおいには分かった。田中の中では、もう計算が始まっている。温度。pH。粘度。具材の比重。ゲル化剤。殺菌条件。充填機。歩留まり。原価。料理として美しいかどうかではない。工場で作れるかどうか。安定して出せるかどうか。クレームなく売れるかどうか。田中は、そこから見ている。

「レトルト対応のパウチと殺菌設備——御社には、当然ありますよね?」

大川が確認するように言った。田中が、大川を見た。初めて、正面から見た。

「設備はあります」

「では」

「ただ」

田中は、資料に目を戻した。「当社のラインは、量産を前提に設計されています。初回製造のロットが大きい。売れるかどうか分からない段階で、それだけの量を作るリスクを、会社として負えるかどうか。それだけではありません」田中が、スライドのジュレの画面を指した。「10種類もの具材を均等に、一定量ずつ投入する。手詰めならできる。でも現状の量産ラインでは、個体差が出る。品質が安定しません」

あおいは、田中の横顔を見た。田中は、意地悪を言っているわけではない。できないと言いたいのではなく、事故を防ごうとしている。失敗を防ごうとしている。現場を混乱させないようにしている。それが、田中の誠実さだった。大川は、反論しなかった。ただ、じっと聞いていた。

あおいには分かった。大川は当然できると思っている。設備はある。技術もある。食品会社である名星食品なら、きっと形にできるはずだと。でも、田中が言っているのは設備の有無ではなかった。量産の論理と、この商品の仕様が、根本的にかみ合わないという話だった。

池田は、資料に目を落としたまま黙っていた。

頭の中に、東京時代の上司、佐藤の声が聞こえていた。3年前、名古屋への転勤を打診してくれた人だった。「名古屋に戻れ。お前の居場所は、そっちだ」——それだけ言って、佐藤は笑った。池田は泣かなかった。けれど、ありがたくて、泣きそうだった。あの恩義を、まだ返せていない。だから今、この会議室で腕を組んでいる。乗るべきか。乗らざるべきか。失敗すれば、誰が責任を取るのか。

「田中さん」

大川が言った。

「設備が合わないなら、外部を使えばいいと思っています。製造を委託できる工場を探しています。少量多品種に対応できる、小回りの利く工場です」

田中の眉が、動いた。あおいには、田中が飲み込んだ言葉が分かった。それは、メーカーのやることではない。田中の中には、きっとそういう感覚がある。自社で設計して、自社で作る。自社の設備で、自社の品質を出す。それがメーカーの矜持だった。外部に委託するのは、自分たちにできないことを認めることだった。

「消費者は、どこで作ったかより、何が食べられるかを見ています。御社の設備でできることを起点に商品を考えるのではなく、消費者が欲しいものを起点に、作り方を考えたい」

田中が、資料を閉じた。しばらく黙った。

「消費者が欲しいものを起点に、とおっしゃいますが、消費者は、自分が欲しいものを、本当に分かっているんですか」

大川が、少し間を置いた。

「どういう意味ですか」

「消費者にアンケートを取っても、消費者は今あるものの中から選ぶことしかできない。まだ存在しない商品を、欲しいとは言えない。だから私たちメーカーが、持てる技術を駆使して、先に形にして見せる必要がある。それが、ものづくりの仕事だと思っています」

あおいは、田中を見た。田中が、こんなに長く話すのを、初めて聞いた気がした。大川も、田中を見ていた。少し、表情が変わった。

「おっしゃる通りです」

田中が、わずかに眉を動かした。

「消費者は、欲しいものを言葉にできない。だから私たちは400件のアンケートを取り、40回のインタビューをしました。言葉の裏にある感覚を、探るために」

「それで、ジュレという答えが出たんですか」

「ジュレは、まだ答えではありません。仮説です。仮説を、一緒に検証してほしいんです。御社の技術と知識があれば、私たちだけでは辿り着けない答えに、近づけると思っています」

会議室が、また静かになった。エアコンの音だけが聞こえた。池田は、資料から目を上げ、田中の横顔を見た。田中は、テーブルの一点を見ていた。何かを考えている顔だった。「難しいですね」という結論に向かう顔ではなかった。

田中は動くかもしれない。そう思った瞬間、池田の胸の奥で何かが動いた。在庫の数字が、頭をよぎった。毎朝確認する、あの数字を。積み上がり続ける、あの数字を。この話に乗らなければ、何も変わらない。自分が動かなければ、誰も動かない。

田中が、大川を見た。

「やってみます」

短い言葉だった。池田は、それを聞いた瞬間、決めた。怖かった。失敗すれば、責任を取るのは自分だ。社内を説得するのも、費用を通すのも、売れなかったときに説明するのも、自分だ。それでも、ここで腹をくくるしかなかった。

池田は、田中を見た。

「社内の稟議は、俺が通す」

田中が、池田を見た。少しの間、黙っていた。それだけで、分かった。任せる。責任は取る。あとは頼む。言葉にはならなかったが、池田の覚悟が、田中には届いた。

また、沈黙があった。あおいは、ノートに一行書いた。

——仮説を、検証する。

書いて、ペンを置いた。窓の外で、名古屋の夏が、まだ終わっていなかった。


■ 第4話 透明な答え

三度作り直しても、田中の試作品は届かなかった。
技術者としての誇りが、静かに削られていく。
その先に待っていたのは、透明なジュレに閉じ込められた、ひとつの答えだった。

最初の試作品が上がってきたのは、9月の終わりだった。

田中が、会議室にサンプルを持ってきた。小さなパウチに入った、うずら卵と具材のジュレ。大川が描いたイメージに、田中なりに近づけようとした一品だった。田中の手には、いつもの自信がなかった。けれど、手を抜いたものでもなかった。開発室で何度も試し、ゲル化剤を選び、加熱条件を調整し、現場で再現できる範囲に落とし込んだものだった。

大川が、パウチを手に取った。透かして、見た。中身が、よく見えなかった。ジュレは少し濁っていた。具材の輪郭も滲んでいた。うずら卵の白も、赤い具材も、緑の具材も、曖昧な膜の向こうに沈んでいるように見えた。大川は、すぐには何も言わなかった。開封し、スプーンで掬い、口に入れた。田中は、大川の顔を見ていた。

「味は、悪くないと思います」

田中が言った。自分で言いながら、その言葉が少し弱いことに気づいていた。味は、悪くない。それは、褒め言葉ではなかった。少なくとも、大川が求めている答えではなかった。

大川が、スプーンを置いた。

「見た目が、違います」

短い言葉だった。会議室の空気が、少しだけ硬くなった。田中の表情は変わらなかった。けれど、あおいには分かった。その一言は、田中に届いている。届いて、刺さっている。

「ジュレの透明度は、ゲル化剤の種類と加熱条件で変わります。レトルト殺菌をかけると、どうしても濁りが出る。これが現状の限界です」

田中は、できるだけ淡々と言った。言い訳ではない。事実だった。食品を常温流通させるためには、殺菌が必要になる。加熱すれば、素材は変わる。色も、香りも、食感も、最初の理想から遠ざかる。それをどこまで制御するかが、加工食品の開発だった。田中は、その世界で20年以上やってきた。

「限界、ですか」

大川が言った。責める声ではなかった。けれど、その一言は田中の胸に残った。

「技術的な限界です」

田中は、そう答えた。大川が、自分のノートを開いた。そこには、イメージスケッチがあった。透き通ったジュレの中に、うずら卵と色とりどりの具材が浮かんでいる。白。赤。緑。黄色。小さな器の中に、宝石箱を閉じ込めたような鮮やかさがあった。

田中は、そのスケッチを見た。一瞬、何かが表情に出そうになった。これは、無理だ。そう思った。料理としてなら、分かる。写真としてなら、美しい。デザインとしてなら、正しいのかもしれない。でも、加工食品として量産するなら話は別だった。

大川が、サンプルのパウチを指した。

「具材が、4種類しか入っていません」

「はい。現状の設備では、多種の具材を均等に、一定量ずつ投入するのは難しい。間違いなく個体差が出ます。品質を安定させるために、まず4種で試作しました」

「10種前後、とお伝えしました」

「段階的に増やしていくつもりでいます」

田中の言葉は、間違っていなかった。少なくとも、これまでの名星食品なら、そう判断した。できる範囲で、品質を安定させる。無理な仕様は削る。現場に落とし込める形にする。それが、メーカーの仕事だった。

大川が、スケッチを閉じた。

「再考をお願いできますか」

「どこを、ですか」

「全部です」

その言葉で、田中の中の何かが、静かに軋んだ。怒りではなかった。すぐに怒れるほど、単純ではなかった。自分が考え、試し、調整し、現場に落とし込める形にして持ってきたものを、「全部」と言われた。味も。透明度も。具材も。見せ方も。すべてが、まだ違うと言われた。田中は、何も返さなかった。

池田は、その場で黙っていた。田中は間違っていない、と池田は思った。技術的な制約は事実だった。設備と現場オペレーションの限界も事実だった。でも、大川も間違っていなかった。消費者は、妥協した商品を選ばない。開けた瞬間に「きれい」と思えない商品は、最初の一口まで届かない。二人の間に挟まれて、池田は黙っていた。稟議を通すと言った。責任を取ると決めた。でも、その答えが、まだ見えなかった。

2回目の試作が上がってきたのは、10月だった。田中は、ゲル化剤を変えた。加熱条件を調整した。透明度は、少し上がった。具材は6種類に増えた。だが、大川のスケッチにはまだ遠かった。大川は、また首を縦に振らなかった。

「もう一度、お願いできますか」

田中は、唇を少し結んだ。あおいには見えた。田中が怒っているのではないことが。傷ついていることが。

3回目が上がってきたのは、11月の入り口だった。この一か月、開発室には何度も遅くまで灯りがついていた。あおいは、帰り際にその前を通ることがあった。白い蛍光灯の下で、田中が一人、サンプルを透かして見ている。その背中を、何度も見た。声はかけなかった。田中が、何かと戦っているのが分かったからだった。

3回目のサンプルを、大川が手に取った。前より、透明度は上がっていた。具材は7種類になっていた。田中が、できる限りのことをしたのは、誰の目にも明らかだった。大川が開封し、スプーンで掬い、口に入れた。沈黙があった。

「惜しいと思います」

田中が、大川を見た。

「惜しい、というのは」

「近づいています。でも、まだ違う」

田中の顎が、わずかに動いた。あおいは、その瞬間を見ていた。今度は、田中の中で何かがはっきりと揺れた。20年、開発一筋でやってきた。品質には誰よりも厳しくやってきた。自分の口で「できた」と言えるものしか、社内に出してこなかった。その田中が、三回続けて「まだ違う」と言われている。プロとしての誇りが、少しずつ削られていた。

「大川さん」

池田が、口を開いた。全員が池田を見た。

「率直に聞かせてください。田中が3回作り直した。あなたが求めるものと、どこが、どう違うのか。具体的に教えてもらえますか」

大川は、ノートを開いた。スケッチを、テーブルに置いた。

「これです」

透き通ったジュレの中に、色とりどりの具材が浮かんでいる。うずら卵の白。カニカマの赤。枝豆の緑。赤パプリカの鮮やかさ。ヤングコーンの黄。その断面が、宝石のように見えた。

「パウチを開けた瞬間に、きれいだと思ってほしい。食べる前から、気分が上がってほしい。それが、ギルトフリーという体験の入口です」

田中は、スケッチを見ていた。長い間、見ていた。

「このジュレの透明度は」

「澄み切っています」

「レトルト殺菌をかけて、これを実現するには」

田中は、言葉を切った。自分の中で、いくつもの条件が並んでいた。ゲル化剤。殺菌温度。pH。具材の水分。色移り。作業性。歩留まり。ロット。原価。賞味期限。その全部を並べても、答えは同じだった。

いまの名星食品のやり方では、届かない。田中は、認めたくなかった。自分の技術が足りないのではない。設備の問題だ。条件の問題だ。量産の問題だ。そう言うことはできた。けれど、それでも、届いていないことだけは分かった。

「当社の設備と技術では、難しいかもしれない」

会議室が、静かになった。それは、いつもの「難しいですね」ではなかった。「当社では、難しいかもしれない」だった。その一言の重さを、あおいは受け取った。池田も、受け取った。大川も、受け取った。田中が、自分の外に答えがある可能性を、初めて認めた瞬間だった。

大川が、静かに言った。

「一軒、心当たりがあります」


岐阜県大垣市まで、車で一時間かかった。11月の中旬。池田が運転し、田中が助手席に座った。後部座席に、あおいと大川が並んだ。四人は、ほとんど喋らなかった。田中は、窓の外を見ていた。3回作り直して、3回「まだ違う」と言われた男が、今日、外部の料理人に会いに行く。その重さが、車内に漂っていた。

キッチン北原は、大垣の住宅街の中にあった。暖簾をくぐると、カウンターと八席だけの小さな店だった。昼の営業が終わったあとの時間を、大川が借りていた。オーナーの北原まことが、厨房から出てきた。40代後半。がっしりした体格。白い調理服。無口そうな男だった。大川と短く挨拶を交わすと、すぐに厨房へ戻った。

「始めましょうか」

大川が言った。

北原が、作り始めた。だし昆布と鰹節で、丁寧に出汁を引く。湯気と一緒に、香りが狭い店内へ広がった。田中の鼻が、わずかに動いた。うずら卵を、低温でゆっくり加熱する。黄身がとろりと残る、絶妙な火入れだった。カニカマ。厚揚げ。ヤングコーン。枝豆。マッシュルーム。赤パプリカ。もち麦。柚子の果皮。8種の具材を、それぞれ丁寧に下処理していく。切り方も、火の入れ方も、味の含ませ方も、すべてが細かい。

田中は、黙って見ていた。手順を見ていた。温度を見ていた。食材の扱いを見ていた。それが量産に乗るかどうかを、無意識に考えていた。乗らない。すぐに分かった。これは、ラインの仕事ではない。料理人の仕事だった。

北原は、ゼラチンを使ったジュレを作った。出汁の旨みを閉じ込めた、透き通った液体だった。小さなガラスの器に、具材を1種類ずつ、手で丁寧に並べる。中心に、うずら卵を置く。透明なジュレを、静かに流し込む。冷蔵庫で30分。誰も、余計なことを言わなかった。

北原が、器を取り出してテーブルに置いた。

その瞬間、田中は言葉を失った。

透き通ったジュレの中に、9種の具材が浮かんでいた。カニカマの赤。枝豆の緑。赤パプリカの鮮やかさ。ヤングコーンの黄。厚揚げの淡い金色。マッシュルームの白。もち麦の粒。柚子の果皮の細い黄色。そして、白いうずら卵が、その中央に静かにあった。ほのかに、柚子の香りがした。

大川のスケッチが、目の前にあった。いや、スケッチよりも、強かった。絵ではない。料理だった。食べられる答えだった。

「食べてみてください」

北原が、静かに言った。

スプーンを入れる。ジュレが、きれいに崩れた。口に入れた瞬間、出汁の旨みが広がった。うずら卵の濃さが、その後からついてくる。具材の食感が、小さな口の中で重なった。柚子の香りが、最後に抜けた。

田中は、スプーンを置いた。何も言わなかった。あおいは、田中の横顔を見ていた。田中の目が、少し潤んでいた。悔しさなのか。驚きなのか。それとも、ようやく答えを見た安堵なのか。あおいには分からなかった。

「これを、加工食品にするには」

田中が、口を開いた。最初に口を開いたのが、田中だった。

「ゼラチンは、レトルト殺菌の熱で溶けます。保存がきかない」

北原が、頷いた。

「そこは、私の専門外です」

「具材の下処理も、手作業だ。量産ラインには乗らない」

「そうです」

田中が、器を見た。

「これは、料理だ。加工食品じゃない」

「はい」

「なのに」

田中は、言葉を切った。少しの間があった。

「なのに、これが正解だ」

北原が、田中を見た。大川が、田中を見た。池田が、田中を見た。あおいも、田中を見ていた。田中は、器を見ていた。

「消費者が欲しいのは、これだ。私が3回作ったものじゃない。これだ」

その言葉で、田中の中で何かが解けた。同時に、何かが始まった。あおいは、ペンを走らせた。


翌週、大空あかねが現れた。大川が連れてきた。50代前半。さっぱりした印象の女性だった。フードコーディネーターとして、日本全国の産業六次化プロジェクトに参画し、地方の農業と食品加工をつなぐ仕事で実績を上げてきた人物だという。大空は席に着くなり、資料を広げた。

「北原さんのレシピ、見せてもらいました。あれを、加工食品にしましょう」

あまりに簡単に言うので、田中は一瞬、返事に詰まった。

「ゼラチンは、レトルト殺菌で溶けます」

「知っています。ゼラチンは使いません」

「代替のゲル化剤は、加熱すると濁る。透明度が出ない」

「ゲル化剤の種類と配合で、透明度は変わります。うちの工場で試しましょう」

田中は、少し黙った。

「具材が9種あります。手詰めでないと、均等に入らない」

「手詰めでやります」

「量産ラインには——」

「乗せません」

田中が、大空を見た。

「乗せない、というのは」

「最初から量産を考えない、ということです。まず、消費者に届けたいものを作る。市場の反応を見てから、量産の方法を考える」

田中の眉が、動いた。大空は続けた。「主人の工場に、小さなテストプラントがあります。手詰めで、小ロットで、何度でも試せる。量産工場の十分の一以下の規模ですが、こういう試作には向いています」

田中は、黙った。長い沈黙だった。池田は、田中を見ていた。田中の頭の中で、何かが崩れていくのが分かった。量産ラインを前提にした計算が、音を立てずに崩れていく。

「量産と効率を、前提にしなければ」

田中が、ひとりごとのように言った。

「製品の仕様は、ここまで多様化させられる」

大空が、頷いた。「そういうことです」

田中は、テーブルを見た。あおいには、田中が何を見ているのか分かった。3回作り直したサンプルを見ていた。あの濁ったジュレを。4種類しか入れられなかった具材を。量産ラインに乗せることを前提に、削りに削った仕様を。あれは、限界ではなかった。自分が設けた制約だった。

「やってみましょう」

田中が、大空に言った。大空が、初めて笑った。

大空の夫の工場は、春日井市にあった。日配の弁当会社が母体で、工場の一角に小さなプラントを持っていた。名星食品の設備の十分の一以下の規模だった。でも、小回りが利いた。田中と大空が、並んで立った。ゲル化剤を変えた。配合を変えた。加熱条件を変えた。1回試して、冷やして、透かして見た。また変えた。また試した。田中は、無口だった。でも、手が止まらなかった。

「これは」

5回目の試作を透かしながら、田中が言った。

「透明度が、出てきた」

大空が、隣で頷いた。「ゲル化剤の選定が、一番の肝でした。食品用のカラギーナンです。レトルト殺菌後も、透明度が保ちやすい」

田中は、また透かして見た。ジュレの中に、具材の色が透けていた。完全ではなかった。でも、北原のあの器に近づいていた。

「具材を入れてみましょう」

大空が言った。手詰めで、9種の具材を入れる。うずら卵を中心に置く。ジュレを流し込む。冷やす。取り出す。透かして、見た。田中は、しばらく何も言わなかった。

「できた」

小さな声だった。あおいは、その声を聞いた。できた、という言葉が、田中からこんなふうに出るのを初めて聞いた。達成感というより、驚きに近かった。自分でも信じられないものを見たような声だった。スプーンを入れた。口に入れた。北原の味が、そこにあった。完全ではなかった。けれど、確かにそこにあった。

田中は、スプーンを置いた。大空を見た。

「あなたがいなければ、できなかった」

大空は、首を振った。

「田中さんの技術があったからです。私は橋渡しをしただけです」

田中は、また前を向いた。工場の小さな窓から、春日井の空が見えた。冬の入り口の、薄い青だった。

帰り道、池田が助手席の田中に向かって、静かに言った。

「よかったな」

田中は、窓の外を見たまま答えた。「量産のことしか、考えていませんでした。作れるものを作る。それが正しいと思っていました。でも、違いました」田中は、少し間を置いた。「作りたいものが先にあっていいんですね」

池田は、すぐには答えなかった。ハンドルを握る手に、少しだけ力が入った。

「そうだな」

後部座席で、あおいは窓の外を見ていた。街灯が、ひとつずつ流れていく。膝の上には、試作品が入った保冷バッグがあった。まだ名前もない。まだ売り場もない。まだ量産も決まっていない。

でも、確かに形になった。あおいは、バッグの上にそっと手を置いた。小さな卵の、新しい居場所が、少しだけ見えた気がした。


■ 第5話 革新の種

冬が来た。

春日井の小さな工場で生まれた試作品は、何度も調整を重ねた。ゲル化剤の配合を変え、出汁の濃さを変え、具材の大きさを変え、ジュレの硬さを変えた。透き通りすぎると、味が弱く見える。濁りすぎると、商品の顔が消える。柔らかすぎると、崩れる。硬すぎると、料理ではなくなる。田中は、その狭い幅の中で、何度も手を動かした。

大空は、隣で現場の手順を見た。大川は、写真にしたときの見え方を見た。あおいは、食べる人の顔を想像した。池田は、数字と社内の空気を見ていた。誰も、同じものを見ていなかった。けれど、目指している場所だけは、同じだった。うずら卵を、もう一度、消費者の前に出す。業務用の箱の中ではなく、給食の献立の中でもなく、誰かの買い物かごの中へ。誰かの昼食へ。誰かの小さな楽しみへ。そのための商品だった。

ブランド名は、UZU-HABIに決まった。大川が持ってきた名前だった。うずら卵の「うず」。ハビットの「HABI」。うずら卵を食べることを、日常の習慣にしたい。その意味が、そこにあった。

最初、池田は少し照れくさいと思った。名星食品の社内で使われてきた商品名とは違う。業務用の品番とも、規格名とも違う。少し軽い。少し若い。どこか、自分たちの会社の言葉ではない気がした。けれど、あおいは違った。

「習慣、ですか」

大川が頷いた。

「はい。特別な日だけじゃなくて、日常に入っていく商品にしたいんです」

あおいは、その言葉を聞いて、しばらく黙った。日常。その言葉が、胸に残った。うずら卵は、特別な食材ではなかった。子どもの頃、八宝菜の中で見つけると嬉しかったもの。おでんの中に入っていると、少し得をした気がしたもの。弁当のすみで、静かに味を含んでいるもの。本当は、ずっと日常の中にあった。ただ、その日常から消えかけていた。

「いいと思います」

あおいが言った。池田が、あおいを見た。

「君がそう言うなら、いいんだろうな」

「私が決めることじゃないです」

「いや」

池田は、少し笑った。

「消費者の顔を一番見ているのは、君だから」

あおいは、すぐには答えなかった。その言葉は、嬉しかった。けれど、少し重くもあった。見ているだけでは足りない。届けなければ、意味がない。

試作品の撮影が行われた。透明なパウチの中に、淡い琥珀色のジュレが光っている。中心には、白いうずら卵。周囲に、カニカマの赤、枝豆の緑、赤パプリカの鮮やかさ、ヤングコーンの黄色、厚揚げの淡い金色、マッシュルームの白、もち麦の粒、柚子の果皮の細い黄色。その断面は、たしかに宝石のように見えた。

大川は、撮影のライトを何度も動かした。

「もう少し、ジュレに光を入れたいです」

カメラマンが頷いた。

「パウチの反射、出すぎますか」

「出てもいいです。透明感が出るなら」

田中は、少し離れたところで見ていた。自分が作った商品が、光の中に置かれている。工場の蛍光灯の下で見ていたときとは、まるで違って見えた。

「きれいですね」

あおいが言った。田中は、少しだけ顔を横に向けた。

「味は、まだ調整できます」

「そうじゃなくて」

あおいは、商品を見たまま言った。

「食べる前に、欲しくなる感じがします」

田中は、黙った。その言葉は、以前の田中なら、少し苦手だったかもしれない。食べる前に欲しくなる。それは、味でも品質でもない。見た目の話だ。感覚の話だ。でも今は、分かった。食べる前に欲しくならなければ、食べてもらえない。その入口を、ずっと見落としていた。

「そうですね」

田中は、短く答えた。

「クラウドファンディングで出しましょう」

大川が、振り返った。池田が、顔を上げた。

「いきなりですか」

「はい。まず、消費者が本当に反応するかを見たい。大きなロットを作る前に、小さく試す。支援という形なら、背景も伝えられます」

池田は、腕を組んだ。クラウドファンディング。名星食品にとって、馴染みのある言葉ではなかった。業務用卸の世界では、商品は取引先に提案し、見積もりを出し、ロットを決め、納品する。消費者に向かって物語を語り、支援を募るという売り方は、まったく違う世界だった。

「売れるんですか」

池田が聞いた。大川は、少し考えてから答えた。

「分かりません」

池田の眉が動いた。

「分からないんですか」

「はい。だからやります。売れるかどうか分からないものを、いきなり量産する方が危険です。クラウドファンディングなら、消費者の反応を見られます。買う理由も、迷う理由も、コメントとして残る」

あおいは、その言葉を聞きながら、レビュー欄を思い出した。言葉が残る場所。それは、あおいがずっと見てきた場所だった。

「やりましょう」

あおいが言った。池田が、あおいを見る。田中も、大川も、あおいを見た。あおい自身も、少し驚いていた。でも、言葉はもう出ていた。

「消費者の声を、直接聞けるんですよね」

「はい」

「だったら、やった方がいいです」

池田は、少しの間、黙った。それから、息を吐いた。

「分かりました。社内は、俺が話します」

「お願いします」

大川が頭を下げた。池田は、苦笑した。

「最近、そればっかりだな」

でも、その声に嫌な響きはなかった。

12月。UZU-HABI DELIのクラウドファンディングが始まった。開始前夜、あおいは商品ページを何度も読み返した。タイトル。写真。本文。リターン内容。事故後の状況。うずら卵の現状。名星食品がなぜ、この商品に挑むのか。大川のチームが書いた文章は、きれいだった。けれど、ただ美しいだけではなかった。うずら卵の危機があり、産地の苦しさがあり、そこから新しい食べ方を作ろうとする意思があった。

あおいは、最後の一文を少し直した。

「うずら卵を、もう一度、あなたの日常へ」

公開ボタンが押された。

初日、目標の半分が集まった。2日目、支援者が増えた。3日目、目標を超えた。あおいのスマートフォンに通知が入るたび、胸の奥が小さく鳴った。知らない人が、買っている。まだ店頭に並んでいない商品を、知らない人が、写真と文章だけを見て、信じてくれている。

コメント欄には、見知らぬ人たちの言葉が並んだ。

「うずら卵、ずっと応援してました」

「給食の事故のニュースを見て、何かできないかと思っていた」

「きれいすぎて、食べるのがもったいない」

「タンパク質が取れて、罪悪感ゼロ。これを待ってた」

あおいは、そのコメントを何度も読んだ。消費者は、うずら卵を見捨てていなかった。ただ、買う場所がなかっただけだった。ずっと自分が感じていたこと。大川が最初から言っていたこと。それが、数字とコメントになって目の前に現れていた。

最終的に、目標比495パーセントを達成した。支援者、309名。

池田は、その数字を社長に報告した。社長は、頷きながら聞いていた。そして言った。

「よくやった」

池田には十分だった。会議室を出てから、廊下で少しだけ立ち止まった。佐藤に報告したかった。電話した。

「目標の495パーセントでした」

佐藤は、少しの間、黙っていた。

「そうか」

それだけだった。でも、池田には嬉しかった。

あおいは、自分の席で、支援者の一覧を見ていた。住所は、全国に散らばっていた。愛知だけではない。東京。大阪。福岡。北海道。沖縄。うずら卵の新しい居場所は、思っていたより広いのかもしれない。そう思った。

2025年3月。第2弾のクラウドファンディングが始まった。「#うずら革命」と銘打った。UZU-HABI SWEETS。みるくうずら。うずタル。豊橋大学の学生たちが名前をつけた二品が、UZU-HABIブランドとして世に出た。

DELIとは違う。SWEETSは、もっと軽く、もっと遊びがあった。うずら卵を「甘い」「おやつ」「かわいい」という方向から見せる商品だった。田中は、最後まで少し照れていた。

「本当に、甘いうずら卵が売れるんですかね」

あおいは笑った。

「前にも売れました」

「それは、おまけだったからでしょう」

「でも、また欲しいって言われました」

田中は、何も言い返さなかった。今の田中は、消費者の声を以前ほど軽く見なくなっていた。

第2弾も、反応はあった。支援者、217人。785,918円。第1弾ほどの爆発ではなかった。でも、確かな手応えだった。大川は、数字を見ながら言った。

「種は、撒けました」

池田が頷いた。

「革新の種、ですか」

「はい。でも、まだ種です」

あおいは、その言葉を聞いた。まだ、種。それは喜びを冷ます言葉ではなかった。むしろ、次へ進むための言葉だった。クラウドファンディングで売れた。けれど、クラウドファンディングは、毎日の売り場ではない。支援者は、買ってくれた。けれど、世の中の多くの人は、まだ知らない。名星食品は、ようやく一歩目を踏み出しただけだった。

あおいは、自分のノートに書いた。

——買える場所を、増やす。

その文字を見つめて、ペンを止めた。日常に戻すためには、まだ足りない。その予感は、もう始まっていた。

第6話に続く


## 前後の話はこちら

『小さな卵の、革新』は全3部構成です。

第2部では、「できない理由」と向き合いながら、うずら卵の新しい形を探す商品開発の現場を描きました。
続く第3部では、売れた場所と売れなかった場所を経て、小さな卵が本当に日常へ戻っていきます。

▶ 第1部はこちら
https://note.com/team_quail2026/n/n5afac2e5ba69

▶ 第3部はこちら
https://note.com/team_quail2026/n/nf61951ddc3f5

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