父の認知症進行~看取り その間の出来事
1991年から2015年、23年半の海外生活が終わり、日本に住み始めた私たち夫婦。
私の父が認知症だと気づいたのは、2017〜2018年ごろでした。
なんだか、父との会話が嚙み合わなくなってきたのです。
どんどん宇宙人になっていく父 (2018年頃から)
私が相手で、自宅にいるにもかかわらず、父が仕事中のような話しをするようになってきました。
「認知症の始まり?」と気づいたのは、それがきっかけでした。
母が一人在宅で看ているうちに、今度は父の行動が加速度的におかしくなっていきます。
一人でふっとご近所に出かけてしまったり、家の中を模様替えしたり。
本人はどうも仕事をしているつもり、らしいのです。
一人で外出した父が帰ってこれなくなり、母は大慌てで探しに行きます。
実家にいる間に、私たちも父親探しに走ったことがありました。
その時まだ使っていたコタツを布団も櫓もばらして、真夜中なのにキチンとたたんで、部屋の隅に片付け、澄ましていたことも!
母が情けなくなるようなことも多発するようになりました。
父をお風呂に入れたら、今度は出られなったことも。
父は母と協力して何かする、ということがもうできなくなっていました。
この時は、母一人ではいかんともしがたく、夜中の救急訪問看護師さんをお願いました。
お風呂桶の中にいる父に母が毛布などを掛けて、看護師さんの到着を2人で待ったそう。
そんな緊急事態も少しずつ頻回になり、私たちもどんどん心配になってきました。
父の認知症の症状が少しずつ進みつつ、デイサービスにあちこち通ったのち、小規模多機能に毎日通い始めました。
その頃の私は、平日も週末も、京都北部から瀬戸内側の義実家や神戸の実家を行ったり来たり。
当時は妹も関東からよく帰ってくれていました。
兄も名古屋から。兄妹で、順番に実家に帰っていたのです。
父が実家でよく転ぶようになって、気がついたら額から血を流していたり、腕に擦り傷をつくっていたり。
もう一日中、目が離せなくなってきました。
母を筆頭に、家族全員がクタクタになる、
母が倒れるんじゃないか?ーというそのギリギリのタイミングで、
父が特別養護老人ホームに入れることになったのです。
家にいても、ディサービスに行っても
「お、次はここか?」
という反応の父でした。
家族との別れを惜しむでもなく、サッサと入所していっちゃった父でした(涙)。

2020年コロナ禍での父の施設入所
ただ、父の老人ホーム入所は、ちょうどコロナの真っただ中。
直接会うことは全くできませんでした。
施設まで行ってもロビーの部屋と、父のいるフロアのPCでオンライン面会しかできません。
私たちが画面の父の顔を見て、一生懸命話しかけても、
父は、テレビを見ているような感じで、知らん顔。
父のお誕生日には、母と妹と、画面の父に向かってお祝の歌をうたいましたが、残念ながら反応なし…、というなかなか切ない訪問でした。
結局、父の部屋がどんなふうなのか、家族全員まったく知らないまま。
言葉は悪いですが、完全に父を人質に取られている状態です。
父が着ているものを見て、「え?誰の服??」となったこともありましたっけ。

面会制限の中での葛藤 2022年11月、父を見送る
2022年になると、コロナが落ち着いてきて、対面でも面会ができるようになってきました。
私たちが面会に行くと、父が1階のロビーまで来てくれたことが 2、3回あります。
おやつを差し入れたり話したり、母が背中をさすったり。
父は、母のことは分かるようでしたが、私たちのことが分かっていたかどうかは、ちょっと謎です。
その年の9月後半に父の熱が下がらず、近くの病院の終末病棟のある病院に移りました。
病院は面会の規則がさらに厳しく、コロナ自粛の雰囲気がまだまだ残っていた時期です。
母を伴って面会に行ってもたった10分という時間制限がありました。
父は、見舞いに来ているのが誰か、ということもわかっていないな、という状態。
そして病院に入院して2か月足らず、2022年11月、92歳と4か月で亡くなったのでした。
男性では長寿な方でしょうか。
家族全員「もう十分がんばってくれたよね」という感じでした。
実は、同年12月には姪(妹の娘)の結婚式が予定されていました。
「父の病状次第でどうすればいいだろう?」と母と心配していたのですが、11月半ばに、それを見越したように父が逝ってしまった。
「ん、じゃ!俺は行くから、おあとはよろしいように」
なんて、父が空の上で言ってる気がしたものです。
いきなり父が逝ってしまったあと、しばらくは、
父の容態や、介護で母が疲弊してしまわないか、心配するクセが抜けませんでした。
「あ、もうケアマネさんとやり取りすることもなくなったんだなぁ」などと、ぼんやりした頭で考えていたのを覚えています。
認知症と折り合いつつの約5年。
思い返せば、「悔い」がいくらでも出てきます。
家族の方は見送る心構えができていたはずなのに、心の空白は大きく、「心に穴が開いたよう」な気持ちを初めて体験した私でした。

父のことを見送るまでの間に起った劇的なこと
少し時間を巻き戻します:
2021年春、夫が軽い脳出血を起こしました。
「軽いけれども脳出血は脳出血」という脳外科の医師の言葉もあって、ものすごく心配しました。
それでも、2週間入院、2週間自宅療養ののち、体にマヒなどが出ず、幸いなことにそのまま勤務を続けられました。
しかしながら、とてもハードなストレスの多い現場で、翌年、転職の決心をするに至ります。
さらに、2021年の秋には、
妹から、すい臓ガンにかかったと告白されました。
セカンドオピニオンを聴きに病院につきそった日に、
私の娘から第一子妊娠報告がありました。
妹の病気のことは母や娘には内緒で、
夫の転職のことも先が決まらないでは誰にも言われず…。
明るいニュースは娘の妊娠報告だけ…。
ふりかえってみると、
嵐がどこから吹いてくるかわからないような感じ。
まるで、ゲリラ豪雨と台風が、ピンポイントで私の頭上だけで合流したのか?というような。
でも遠くの方には虹のような初孫の存在がある、という日々。
よくまぁ、なんとかのりこえてきたもんだなぁ、と感じます。

初孫誕生と姪の結婚式 並行して妹の膵臓がん闘病
初孫の誕生の時もコロナ禍で、面会は叶いませんでした。
初めて会いに行けたのは、生後2週間目。
産院から自宅に帰ってからでした。
まずとっても小さくて、オドロキました。
2週間産休をとった婿殿と娘が、仲睦まじく、Youtubeなどを参考にしながら、小さなBABYを世話する様子にも、オドロキました。
赤ちゃんというかけがえのない存在のありがたさ。
若い人たちのパワー。
それがなければ、この暴風雨の時期を乗り切るのは難しかった。
本当にそう思います。
2021年暮れから2022年にかけて、あの時期ほど頻繁に、
関西/関東移動を繰り返した期間はありません。
妹の病院を決める時、そして通院のための引っ越した時、
とにかく手伝いにいけるだけ通っていました。
辛い抗がん剤治療にも何度か同行しました。
夫が自分の進退、転職を決めたのもその頃のこと。
思いがけず人生13度目の引っ越しをすると決まったのもこの年でした。
そして、12月は姪の結婚式。
私は夫と母と上京しました。
妹は、新婦の母として気をはって終始笑顔で、ステキな留袖姿を見せてくれました。
華やかでとってもいいお式/披露宴でした。
母と私たち3人で撮った和装の写真が、私の宝物です。

元気なあの子が帰ってきた!
明けて2023年の夏には、妹の放射線治療の効果が出ているので手術を、となり、大きな手術ものりこえました。
妹の病気のことを母には伝えていなかったので、大手術から回復した2023年秋、本人から母に話しました。
その後の妹は、ずいぶん元気で活動的でした。
2024年春には、母と3人の長崎への旅を計画・手配、
そして引率してくれました。
私の娘宅を訪問して、孫を見てくれたり家を片付けてくれたり、とてもありがたかった。
夏ごろには、整理収納のアルバイトを始め、
さらに秋には、婿殿と旅に出て、ハンググライダーで空を飛んだり!
ずっと周りを驚かせつづけてくれました。
もともと活動的で、家族のため人のためにドシドシ動く性格の子でしたから、何気に楽しそうでした。
きっと多少なりともムリもしていたのかな、とは思います。
でも、やりたいことをどんどんやろう、という心の持ち方だったので、あのような充実した時間を持てたのでしょう。
また、元気なあの子が帰ってきた♡
あまりにもポジティブすぎるかもしれませんが、
私も母もそんな気持ちになっていました。
でも…… 。
つづく
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