日本に完全帰国そして介護
前回は、23年半にわたる海外生活について書きました。
2015年、またまた夫の所属していた研究室が閉じることになりました。
これに伴い、ドイツ5年半アメリカ18年の海外生活を終え、
夫婦で日本に完全帰国することになったのです。
帰国を決めた3つの要因
当時息子はまだ大学2年に上がるところ。
私は小学校事務の仕事にやりがいを感じ
ダラスでの生活を謳歌していた頃。
帰国したいという気持ちが1ミリもなかった、にもかかわらず、日本に帰ることに決めたのです。
それには、大きな要因が3つありました。
①研究者としての生活はとても不安定で、夫もいい歳になり、
疲労感が出てきた
②義母と私の両親がどんどん高齢に 特に義母は独居だった
③私の右股関節痛がいよいよ末期症状で、置換手術が必要だった
さらに、老後までアメリカに住んだらどうなるか?
「お腹すいたね、ほな、マック行こか?」
と年をとった私たちは絶対言わない、と気づいたことも大きかったのです。
「やっぱり行くならおうどん屋さんよね...」となった日、
帰国する決心がついたのかな(笑)。

アメリカの家の売却を一人で奮闘
帰国を決め、主人の職が決まりました。
一旦、2人で日本にもどって新しい生活の立ち上げを完了。
でも、大きな課題が残っていたのです。
それは、2002年から住んでいたダラスの家を売る、ということ。
これまでずっとお世話になっていた不動産屋さんからは、
「しっかり手を入れればちゃんと売れる」
とアドバイスいただきました。
そうして夫の日本での仕事がはじまってから、
私は一人でダラスにもどったのです。
友人に手伝ってもらって、家の前の花壇をきれいに手直し。
業者さんを見つけて、家中の絨毯をひっぺがしてフローリングに。
この友人と不動産屋さんとの協力があって、
なんとか売りに出すところまでこぎつけました。
友人の開催するガレージセールでモノを売ったり、
譲ったりもしました。
台所の工事の間は、冷蔵庫も撤去されていたんですよね。
業者の入って来ないベッドルームにアイスボックスを持ち込んで、
ソロキャンプ状態で過ごしたりしました。
やることは山積でしたが、初めてのことで、オモシロかったです。
ただ、右股関節の痛みは、ふえることはあっても減りはしません。
びっこをひきひき、ごみを捨てに行ってたなぁ。
途中で、大学から息子が帰ってきて手伝ってくれたり。
家を出る最後の週には、娘が日本の会社をお休みしてダラスに飛んできてくれたり。
私一人では捨てきれなかった様々な思い出グッズを、
若い力で整理してもらい、とってもありがたかったです。
2015年の9月下旬には家を明け渡すという約束で
不動産屋さんと動いていました。
9月の最後に、13年住んだわが家にサヨナラして友人夫妻に見送られ、
私と娘でダラスを発った日のことは忘れません。
がんばって手を入れた家は、私たちが日本にもどってからになるのですが、不動産屋さんのおかげできちんとした値段で売却することができました。
模様替えなどの投資をしてよかったなぁ、とホッとしました。
「ホントウに帰国するの?なんで?なんで??」
とダラスの友人知人に惜しまれつつ、23年半の海外生活が幕を閉じたのです。

山の京都での孤独感「ドイツより孤独だった」
そして、10月下旬には、右股関節全置換の手術からのリハビリで
約1か月の入院がまっていました。
引っ越した京都府北部の家に住む間もほとんどありませんでした。
退院してから、ようやく夫の新しい職場のある町に住み始めます。
夫も私も引っ越しの当日まで訪れたことがなかった町で、
夫婦2人だけの生活が始まりました。
私もこれまでの人生で一度も訪れたことのない町。
夫と違い私は、その町には全く知り合いがおりません。
ドイツに初めて住んだ時よりも、さらに孤独感や疎外感が強かった。
だれ一人知り合いのいない町で、近所のスーパーに買い物に行っても
独りぼっちだ、というさみしさで胸がいっぱいになりました。
まるで自分が透明人間になったような気分でした。
その頃、だれにも言わなかったのですが、過呼吸の発作を経験しました。
ねむる前に心臓がバクバクすることもあったのです。
帰国してから1〜2年のあいだ、股関節全置換の入院の他に
自分はいったい何をしていたのだろう?と今では不思議に思います。

異国での戦闘モード~心身への負担の蓄積
日本に本帰国した後で、しみじみ感じたことがあります。
海外で暮らすというのは、ある意味私にとっての「戦い」だった、
ということ。
自分の身体のいろんなところが、無理をしながらガンバっていたのだと思うのです。
日本に帰国する、と決めただけで体中が「ホッ」とした。
それまで1ミリも帰国したいと思っていなかったのに!
あの感覚は今でもおぼえています。
飛行機に乗ってアメリカにもどることになると、なんとなく
スイッチ、パチン!
「戦闘モード」に切り替えて、「よし!」と思ってから乗る感じ。
安全大国日本が、どんなに暮らしやすいかを実感する日々でもありました。
海外って、特に危険な場所に住んでいるのでなくても、
「ぼーっとしていたらダメだよ」というような生活ですから。

ヒプノセラピーとの出会い→自分と向き合う時間
京都府北部の町で「自分は、ものすごく孤独」だと感じた頃、
ステキなヒプノセラピストさんと出会いました。
彼女と出会えたのは、ダラス時代の友人からのご縁。
それまで、潜在意識だの、集合的無意識だののことは全く知らず、関わりのない生活をしていました。
この淡路島在住のセラピストさんのブログを拝見し、人間的にとっても魅力のある方だと感じました。
彼女に会ってみたくて、話しをしてみたくて、ヒプノセラピーを受ける決心をしました。
生まれて初めて人の意識の成り立ちを学び、
ヒプノセラピーを受けたのです。
それは、ものすごく深く自分と向き合う時間。
例えば母との関係や、幼少期に引っ込み思案だったことなど、いろんなことの原因を少しずつ紐解いていくような感覚がありました。
これまでのトラウマや思考のくせが、腑に落ちていき、
自分と向き合うことができた。
とても、とてもありがたい時間でした。
さらに、ヒプノセラピー好きが高じて、ヒプノセラピスト養成講座を受けはじめました。
その講座の最初の頃に、スプーン曲げ実習があります。
「物質は何でも分子でできてるんだから、
人は力をつかわなくても曲げられるんだよ」と言われ、
「ふーん、そうなの?」みたいな感じでしたが、
「あ、曲がった!」となって目がテンに!(笑)
最初は、「知らない人に会って、よくわからないことを学んでいる妻」だけど「壺などは売りつけられていない様子??」なんてと思っていた夫も、
私が曲げたスプーンを見てからは、
「もしかしたら超能力者かもしれない妻」
と思ってくれたかも?
とにかく、そのスプーンのおかげで、夫は、私が学んでいることの内容を少しずつ理解してくれるようになってきたのはオモシロい展開でした。

両親と義母の間を行き来する日々
もともと、一人暮らししていた義理の母が心配だからということで日本に帰国した私たち。
週末になると、毎週2時間近くドライブして、義実家に通っていました。
私は、平日に自分の実家を訪ね、週末になると夫と義実家へ。
実家義実家は、どちらも瀬戸内側の町でした。
京都府北部から高速道路をつかっても、1時間半から2時間かかります。
とにかく遠かった。
また、海外生活23年半、ほとんどなかった「義理のつきあい」は、
日本に帰ってきて孤独を感じたことと同じくらい、ストレスでした。
ストレスの多い日本での生活再開の時期に、風穴を開けてくれていたのが、先のヒプノセラピーだったのです。
そこからさらに、チャネリングやレイキヒーリングを学び、言葉や意識の使い方や自分をリラックスさせる方法を身につけました。
これは本当に幸運だったと、今でも思っています。
そして、様々な学びを深めながら向き合うことになるのが、
認知症を発症した父の介護でした。
しばらくは実家で母が独り奮闘していましたが、
このままいくと母が先に倒れてしまいそうな状態になってしまったのです。
そのころ私はどうしていたのか?
父がデイサービス~老人ホームへ、
夫の脳出血~入院、
妹のすい臓がん発覚、
娘が第一子出産
これでもか!というほどイベントフルな年が始まるのです。
つづく
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