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前回は、引っ込み事案だった私が演劇と出会ったこと、結婚してドイツに行くまでの話を書きました。

今回は、ドイツそしてアメリカへ移住し、23年半にわたる海外生活についてまとめてみました。


ドイツへ(1991年・30歳)→ドイツ語の壁、専業主婦として5年半

いつか海外で研究をしたいと言っていた夫。
ようやく職を見つけた研究室はドイツにありました。

ちょうど湾岸戦争が始まった頃で、アメリカでは雇ってもらえなかったそう。

そんな折に、ドイツの教授が受け入れてくれるという話になったのです。

ドイツに行くのは、晴天の霹靂でした。
しかも初めて耳にする、マールブルグという町に行くことに。
1991年、私が30歳の時でした。

私は付帯家族のビザですから、仕事を持つことはできません。
大学1年の時に習ったはずのドイツ語は、ほぼまったく役に立たなくて…。
市場(マルクト)に行っても買いたいものを伝えられず、
情けない思いをしました。

「これではいけない!」と、まずは、娘を預けるところを探し、ドイツ語の勉強に通いました。
ヨーロッパ各国からドイツ語を学びに来た若者たちに混じって、ドイツ語の授業をドイツ語で受けます。
30代にして、学生のような生活がはじまりました。

私たちの渡独は、東西ドイツが統一された翌年のこと。

旧東ドイツから来た夫の同僚の女性は、英語が堪能な方で、
夫ともどもものすごくお世話になりました。
「東からきている、というだけで、外科医のご主人の仕事がない」と寂しそうにしておられたのが印象的でした。

それでも、10代のお子さんたちはのびのびと育っておられ、
娘をかわいがってくれて、よく一緒にあそんでくれたものです。

右も左もわからず、2歳の子どもと暮らしはじめた私たちを、心から歓迎して、気づかってくださったご一家の存在のおかげで、なんとかやっていけるようになったのです。

そのご家族とは、今でもクリスマスカードのやり取りが続いており、
「今度はいつ訪ねてくるんだ?」とずっと聞かれています(汗)。

最初は「2年で日本に帰る」と言っていた夫の研究ですが、
2年が3年になり、教授についてハイデルベルグに引っ越し、最終的にドイツ滞在は5年半になりました。

その間に、私は市場でも買いたいものを注文することができるように成長?しました。
日本人の方々と知り合えて、子育ても楽しめるようになってきたのです。

2歳だった娘がハイデルベルグで6歳になった頃、
待望の第二子をさずかりました。
ドイツでの出産は、日本のお産に似ていて自然派?
フツウの分娩でしたが、本当に、ドイツ語を勉強しておいてよかったです。

4人家族になって、娘が小学校に入学して半年、
なんと、教授が退官され「研究室がなくなる」ということが判明!
すわ、失職!?となりました。

でも、ここで、「一度はアメリカでもやってみたい」との夫のたっての望みが再燃し、アメリカの研究所に応募を始めました。

そして幸いなことに、受け入れ先が見つかり、日本で職を得ないまま、
横滑りでアメリカ移動することになりました。

アメリカへ移住(1997年・35歳) 18年間暮らす

アメリカでの夫の研究生活は、ヒートアップして、研究室にこもる時間は長くなる一方でした。
家庭のことに割く時間がほとんどありません。

アメリカはテキサスでも、やっぱり人とのご縁に助けられました。
日本人のご家庭のアメリカ滞在の先輩方がたくさんおられ、
細かにあれこれ助けていただいて。
中には、本当に家族のように親しくしていただいた方もいました。
こうした方々に出会えたおかげで、アメリカでも何とか生活していくことができたのです。

遠くの親戚より近くの隣人…。
テキサスで出会ったたくさんのご縁、今でも感謝しかありません。

不動産屋さんの女性には、最初に住むところを見つける時も、5年後に思い切って家を買った時も、そして、日本に本帰国することになって家を売る時も、お世話になりました。
私たちのアメリカ生活の最初から最後までお世話になったのです。


私は、というと、アメリカでも、渡米当初は仕事につけるビザではありませんでした。

専業主婦で時間があったので、娘が小2から通い始めた現地校小学校のボランティアに入り浸り。
娘が小学2年生から始まってずっと5年生まで、イベントがあると手伝いに行き、日本語を教えているクラスの手伝いもしていました。

しばらくして、夫のビザステイタスが変わり、私も仕事ができるようになったのですが、相変わらず、小学校のボランティアに励んでいました。

そんな時、息子が小学校1年生、担任の先生が産休になり、代行の先生が来られました。
50代のおばさまだったのですが、私ととても気が合ったのです。

「やっと仕事ができるようになったんだけど、何か私で出来そうなことあるかなぁ?」と私が質問したことがありました。
「あなたも代行教員になれば? 教員免許なくてもなれるのよ」と教えていただき、無謀にも研修を受けて資格を取ったのです。

そういうわけで、アメリカで一番最初についた仕事が代行教師なのでした。

忘れもしない、初めての代行の仕事は、小1の担任。
しかも午後から半日だけで、サクッと終わらせられる、と思い受けた代行の仕事でした。

がッ!!!

もうタイヘン。疲労困憊して終了しました。
詳細は、こちらのブログ記事に書いています。

補助教員として充実の日々

たまたまご縁があって始めた代行教員は、私にとってはとてもハードで、
長続きしませんでした。
「もう代行教員はムリ」と思っていた矢先に、今度は、小学校の年中さんのクラスの補助教員の枠が空くとのこと。
校長面接の末、採用していただきました。

この年中さんのクラス、コチラは、本当に楽しかったです。
毎日同じクラスに通うというのは、代行と全くちがっていて。
図画工作好きの私には、教材作りなど「たのしい・おもしろい」ことばかり。
生徒たちも、まだまだ無垢な4歳児でした

でも、3年目が終わったところで、学区内の制度が変わり、補助していた年中さんクラスがなくなってしまうのです(涙)。

中学校で事務の仕事をすることに!

このタイミングで、職を失うかと思いきや、中学校の事務に回されました。
本当にルーレットのような感じ。
いきなり学校事務って、そんな仕事できるのか?と思いつつも、自分より背の高い生徒がチラホラいる中学校の受付業務へ。

学校受付には、思春期真っ盛りの生徒たちが、いわれのない不機嫌な顔で
やてきます。
ヘルプが必要なのは彼らの方なのに、上からモノを言われるので(笑)なんだか偉そうに感じて、最初はコワかったです。
ここでしばらく鍛えられ、同僚となったアメリカ人女性がしていたように、生徒たちに「ヘイ、スイートハート?何の用?」なんて口をきけるようになってきました。

結局、2つの中学校で、受付業務と事務所のヘルプを2年ずつ経験させてもらいました。
そこでPCの使い方や、資料の作り方などで鍛えられたので、結果としては、とてもありがたかったのです。

しかしながら、今度は事務職が縮小になって弾き出されます。
「もう学校区勤めを辞めるタイミングなのか?」と思ったら…。

小学校の事務職として勤務する中、子どもたちも成長

なんと、4年前に補助教員をやっていた小学校の校長先生が引っ張ってくれて、懐かしの(?)小学校に事務職で出戻りすることができたのです。

本当にさまざまなご縁のおかげで、いろんなことをやらせていただきました。

そんなふうに続けて働けたのも、娘の大学進学が迫ってきて、夫がグリーンカード取得に動いてくれたから。
そのおかげで、晴れて私も仕事ができるようになった、というわけでした。

小学校は7:45amに始まりますから、事務職だった私は、夫よりも早く家を出て奮闘していました。

そうした中で、娘は大学を卒業し「住んだことのない国」日本は Tokyo で就職することに。
中学から吹奏楽マーチングバンドに目覚め、大学の音楽科に進んだ息子は、大学生活を謳歌していました。

娘は単身、日本に帰国したものの、私も息子も、1ミリも帰国したいと思っていませんでした。

毎日の生活、仕事、週末の時間が楽しくて。
たくさんの友人知人もできて、私たち、これからもテキサスで年をとっていくのかな?
くらいにボンヤリと思っていました。

ところが!

何度目かの青天の霹靂。
夫の研究室が閉じることになり、各自が次の職を探すことになりました。
アメリカは健康保険が個人負担で、バカ高いです。
大学の授業料は公立でも日本の私立級ですし、それに加えて寮費や生活費がかかります。

さて、
どうする?
どうする??
どうする???

つづく

今日も読みに来てくださってありがとう♡
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