鬼死骸食堂|今日も、いる [#1 定食を出す]
この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)
本作品は、以下の作品との連作です。
<あらすじ>
鬼死骸食堂には、様々な人間がやってくる。
わざわざ山に登って、疲れて下山してくる人間。
毎日、晩酌しないとやっていけない人間。
帰りの新幹線で、一人で飲むために名店を回る人間。
休日に車を走らせ、知らない店の「絶品」を探し続ける人間。
村人には、みんな同じに見える。
何かから逃げている人たち。
言わない。
聞かない。
ただ、定食を出す。
定食を出す
第一話 水
まだ夕暮れには少し早い時間。
靴の裏に、まだ土が残っている。
乾きかけた泥が、
歩くたび、少しずつ剥がれていく。
アスファルトに、小さく落ちる。
女は、何度か足を止めた。
駅までは、あと四キロと少し。
下山してから、もう一時間は歩いている。
ザックが重い。
肩紐が食い込み、感覚が鈍くなっていた。
喉が渇いている。
水は、もう無い。
自販機も見当たらない。
「……まだか」
小さく呟き、また歩き出す。
灯りが見えたのは、その時だった。
道の脇。
木造の、古びた建物。
暖簾が、揺れている。
──食堂。
少しだけ迷った。
営業しているのか分からない。
人の気配も、よく分からない。
それでも足は止まった。
喉の渇きが、判断を先に決めていた。
暖簾をくぐると、
夕暮れの日差しの影が、カウンターで揺れていた。
油の匂い。
味噌の匂い。
煮込みの湯気。
奥で、鍋の蓋が鳴っている。
「いらっしゃい」
娘の明るい声。
壁際の古いテレビが、
夕方のニュースを、まだ喋っていた。
「……すみません、水いただけますか」
声がかすれる。
娘はすぐにコップを出した。
「お疲れのようね」
水が満ちる。
女はそれを掴み、一気に飲んだ。
冷たい。
喉の奥に、刺さるように落ちていく。
二杯目も、すぐに飲んだ。
「……助かります」
奥で、大将が鍋の火を少し強めた。
水を飲み終えた時、
女はカウンターの端に置かれた写真に気づいた。
女性の写真だった。
誰かの家族だろうか。
「……綺麗な人」
娘は、すぐに言った。
「今も綺麗だよ」
女は少しだけ笑った。
その時、急に空腹感が押し寄せてきた。
そういえば、朝から何も食べていなかった。
「何か、早くできるものありますか」
「うちは全部遅い」
大将が言う。
「定食でいいか」
「はい、お願いします」
「飯は、毎日食わないと駄目だからな」
味噌汁が置かれる。
湯気が立つ。
女は、そっと啜った。
全身に、温かさが広がっていく。
そのとき、暖簾が揺れる。
常連が数人、入ってくる。
テレビの音。
笑い声。
誰かの長靴の音。
常連の一人が声をかけた。
「山、行ってたのか」
「はい」
「何か採れたか」
「いえ。登っただけで」
「……登っただけ」
男は復唱した。
否定ではない。
ただ、概念がうまく着地しない。
「なんで、山に登ったんだ」
「健康のためです」
「生きてりゃ健康だろ」
女は返せなかった。
間違ってはいない。
気づくと、目の前に定食が置かれていた。
女は箸を取る。
夢中で食べた。
肩の力が、少し抜けていた。
店内が、少し広く見えた。
外を見ると、もう日が沈みかけている。
女は静かに立ち上がった。
「ごちそうさまでした。どうも、お世話になりました」
代金を置く。
「はーい。またおいで」
娘の明るい声。
女は振り返り、軽く会釈した。
カウンターの端に、一人の女性が、静かに座っていた。
いつ来たのか、気づかなかった。
暖簾をくぐる。
外の空気が、来た時より冷たくなかった。
第二話 静かに一杯
日が沈みかけた頃。
女が一人、食堂の前で立ち止まっていた。
「たまには、ここで静かに晩酌するのもいいか」
そう呟き、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
娘の元気な声。
女はカウンターの端に座った。
その時、
会計を済ませた登山姿の女が出ていくのが見えた。
ザックを背負っている。
登山か。
こんな時間に。
下山した帰りだろうか。
少しだけ、羨ましかった。
「定食でいいかな」
気づくと、娘がすぐ横に立っている。
「はい。それと、お酒も」
「はいよ」
奥から大将の声。
女は、一人静かに酒を口にした。
「美味そうに飲んでるな」
後ろから常連の声。
「晩酌は、いつもしてるので」
「うちも毎日飲むぞ」
「ストレス発散になるんですよね」
「ストレス?」
常連たちが顔を見合わせる。
「仕事のストレスが」
「辛いなら辞めればいい」
「それは……」
「なんで」
悪意がない分、余計に刺さる。
女は答えられなかった。
答えられないまま、もう一杯飲む。
「これ、美味しいよ」
娘が小鉢を置いた。
「え?」
「いいから。つまみ、あるといいでしょ」
さらにもう一皿。
横から常連たちが次々に言う。
「これも食べな」
「朝採れのやつ」
「差し入れ」
「おまけ」
皿が増えていく。
静かに一杯のつもりが、と思った。
「姉ちゃん、この酒うまいぞ。安いけど」
「安いだけ余分だよ」
娘がすぐに突っ込む。
常連たちが笑う。
「せっかくだから」
「まぁ一杯」
「もう一杯」
気づくと、
自分のグラスが、誰の酒か分からなくなっていた。
女は赤ら顔で、常連と肩を組んで酒を飲んでいた。
泥酔していた。
女が、ふらつきながら帰ろうとする。
「帰るか」
大将が言う。
「タクシー呼んでください……」
「タクシーはない」
大将は店の奥を見る。
「おい、駐在。送っていってやれ」
奥で飯を食っていた駐在が、慌てて立ち上がる。
「ええ! 俺ですか!」
「そうだ。市民の安全を守るのが役目だろ」
帰り際、女が呂律の回らない声で言った。
「もう、酒やめた……」
常連が聞く。
「晩酌やめるか?」
女は勢いよく言った。
「やる!」
店内が笑いに包まれる。
カウンターの写真の女性が、少しだけ笑ったように見えた。
その時、暖簾が揺れた。
スーツ姿の男が、店の中を見渡している。
男は、少しだけ後悔した。
第三話 買いすぎた夜
出張帰りは、
新幹線で一杯やるのがルーティンだった。
駅の近くで、酒とつまみを買い込む。
それを並べ、一人で静かに飲む。
その時間が好きだった。
気づけば、ずいぶん遠くまで来てしまっていた。
乗車時間まで、あとわずか。
慌てて駅へ向かったが、間に合わなかった。
最終の新幹線は、目の前で行ってしまった。
男は、紙袋を提げたまま立ち尽くす。
名店で買った日本酒。
有名店のつまみ。
どうしようかと歩いていると、暖簾が見えた。
鬼死骸食堂。
「……しかたない。ここで一杯やって、どこか宿でも探すか」
暖簾をくぐる。
「……やってます?」
「どうぞ、お好きな席に。
ちょっと乱れてますけど、今から片付けますから」
娘の慌ただしい声。
泥酔した女が、
駐在に抱えられて店を出ていくところだった。
男は思う。
こんなになるまで飲むなんて、どういうことだ。
しかも、こんな若い女性が。
自分は違う。
厳選した酒を、一人で静かに楽しむ。
それが大人の嗜みだ。
泥酔した女が、男を指差す。
「あなた、部長みたい」
男は真顔で答えた。
「……課長です」
「やっぱり」
何が“やっぱり”なのか、分からない。
常連たちが笑う。
男は笑えなかった。
だが、少し遅れて笑った。
男はテーブルに座った。
紙袋を足元に置く。
酒瓶の口が、少しだけ見えている。
瓶が、軽く当たって音を立てる。
「新幹線、乗り遅れちゃってね」
誰にともなく言う。
「そうか」
大将は、それだけ言った。
それ以上、何も聞かない。
男は少しだけ肩の力を抜いた。
理由を聞かれないだけで、少し楽だった。
「じゃあ、適当に……つまみと、あと飯も」
「定食でいいか」
「ええ」
それでいいと思った。
スマートフォンを取り出す。
画面には、さっきのやり取りが残っている。
《今日は何飲むんですか》
《いつものやつ》
《写真お願いします》
いつもの流れ。
男は丁寧に袋から酒を取り出す。
ラベルを整えて、写真を撮る。
料理が来る前に、一杯やるつもりだった。
投稿する。
送信。
少し待つ。
店の笑い声が聞こえる。
スマートフォンだけが、静かだった。
「……あれ」
いつもなら、すぐに誰かが反応する。
《その酒、去年の限定ですよね》
《つまみ何ですか》
そういうのが、すぐに来る。
画面を見直す。
電波はある。
もう一度、更新する。
変わらない。
「それ、美味いやつだ」
横から、声がした。
顔を上げる。
さっきはいなかった男が、隣に座っている。
「……え?」
「ご存知ですか」
名店の酒。
ラベルを説明しようとする。
「それ、開けないのか」
男は、少し迷ってから、笑った。
「いや、新幹線で飲もうと思ってたんですけどね」
「いいじゃないか。ここで飲めば」
当然のように言われる。
「まあ……そうですね」
断る理由もなかった。
封を切る。
音が、小さく響く。
グラスが、いつの間にか置かれている。
注ぐ。
香りが立つ。
「いい香りだな」
男は、うなずく。
一口、飲む。
「……ああ」
うまい。
それは、いつもの味のはずだった。
だが、少しだけ違った。
「つまみもあるぞ」
別の声。
気がつくと、もう一人増えている。
常連の手が、先に伸びる。
「おっ、うまそうだ」
「あの、それは——」
「どこの?」
「仙台の、かなり有名な——」
「ほう」
もう、口の中に入っている。
男は、止められなかった。
グラスが増えていく。
皿が、勝手に置かれる。
頼んでいないはずのもの。
だが、違和感はなかった。
箸を伸ばす。
うまい。
「これ、なんですか」
「さあな」
誰も答えない。
笑い声だけが、返ってくる。
スマートフォンが、震える。
画面を見る。
《それ、どこですか?》
ようやく反応が来た。
男は、少しだけ安心した。
《店です》
《定食屋みたいな》
送る。
少し考えてから、店内の写真を撮る。
送信。
待つ。
既読がつく。
男は、画面を見たまま止まった。
顔を上げる。
目の前には、男たちがいる。
酒を飲んでいる。
笑っている。
もう一度、画面を見る。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
笑っていた気がする。
誰かと話していた気もする。
内容は、覚えていない。
気がつくと、グラスは空だった。
酒瓶も、軽い。
「……あれ」
こんなに飲んだか。
「このあたり、泊まれるとこあります?」
ふと思い出して、聞く。
「ない」
即答だった。
「じゃあ……どうしようかな」
「泊まってけ」
大将が言う。
「うちでいい」
男は、少しだけ笑った。
「いや、それは……」
「いいから。店なら、どこでも横になれる」
強くはないが、断れない言い方だった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言った。
深夜、大将と二人になった。
「ストレス、ないんですか」
「ある」
「どうやって発散するんですか」
「あいつと喧嘩する」
娘の方を見る。
「……それで、発散になるんですか」
「なる」
男は、黙った。
夜明けの頃、目が醒めた。
店の灯りの下、
ぼんやりと、路肩に車が止まるのが見えた。
男が降りてくる。
店をじっと見ている。
早朝に、こんな場所まで来て、何を考えているんだ。
男は、昨夜の酒がまだ少し残っていた。
人のことは言えない。
第四話 絶品
もう朝日は昇っていた。
鬼死骸食堂の前を、一台の車が通り過ぎた。
男は、通りがかりに店を見つけた。
少し先で車を停めた。
外観を眺めた。
古い。
小さい。
今にも潰れそうだ。
だが、こういう店に限って、
妙に美味いものがあったりする。
誰にも知られていない、“本物”。
男は、そういう店を探すのが好きだった。
その時、食堂からスーツ姿の男が出てきた。
早朝。
こんな場所の食堂から、
スーツ姿の男が。
しかも手には、酒瓶の入った紙袋。
意味が分からない。
「あの」
思い切って声をかけた。
「え?」
「ここ、営業してますか」
「中に、大将いますよ」
「美味しい料理とかありましたか」
スーツ姿の男は少し考えたあと、言った。
「普通の定食ですよ」
男は困惑した。
それなら、なぜこんな場所で、スーツ姿のまま朝までいたんだ。
聞けなかった。
暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
大将の無愛想な声。
店には、まだ大将しかいなかった。
「定食でいいか」
「あ、はい」
しばらくして、定食が運ばれてきた。
普通だ。
娘が戻ってきた。
「なんだ、店員いるんだ」
徐々に常連が入ってきた。
誰かが勝手にテレビをつけ、勝手に喋り始める。
店が、勝手に動き出していく。
男は思った。
寂れているのは、店じゃなかったのかもしれない。
常連はテレビを見ている。
娘はカウンターを拭いている。
大将は鍋を鳴らしている。
誰も、男に興味がない。
男は聞いた。
「この店、何か名物とかありますか」
「ない」
即答だった。
「でも、朝からお客さんが——」
「腹が減るから来る」
それだけだった。
男は定食を食べた。
味噌汁の湯気。
焼き魚の匂い。
普通だ。
普通なのに、もう一口食べたくなる。
理由が分からない。
食べ終わり、男は会計を済ませた。
外へ出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
しばらく考えてから、スマートフォンを開いた。
「絶品リスト」。
男は、それを閉じた。
窓の外、
鬼死骸食堂の暖簾が、朝風に揺れていた。
エピローグI 写真
朝日が、店の窓から差し込んでいた。
客はいない。
静かになった店で、娘がカウンターを拭いている。
テレビだけが、ぼんやり音を流していた。
娘は、カウンターの端の写真を手に取る。
少しだけ埃を拭いて、元の場所に戻す。
でも前より、ほんの少しだけ低い位置に。
「昨夜は、賑やかだったね」
奥で、鍋の音が鳴る。
「いつものことだ」
大将が言う。
娘は笑う。
「でもさ」
カウンターの写真を見る。
大将は答えない。
鍋の火を、少しだけ強くする。
外は、もう朝になっていた。
エピローグII その夜
夕日が沈んだ頃。
常連が店に集まってきた。
そんな頃、ケンジも暖簾をくぐる。
「お、ケンジ、早いな」
常連が言う。
「今日、草刈り当番だったんですよ」
ケンジは席に座る。
映美が、集会場の仕事を終えて、入ってきた。
座る前に、カウンターの写真に、ちらりと目をやった。
いつもそうするように。
ケンジの隣に座る。
テレビの音。
味噌汁の湯気。
いつもの笑い声。
ふと、ケンジが言った。
「友達、東京行くらしいです」
「そうか」
誰も大きく反応しない。
「まぁ、向こうの方が仕事あるしな」
常連が言う。
娘が湯飲みを置く。
「大変だね」
それだけだった。
ケンジは味噌汁を啜る。
映美の目が、カウンターの写真に止まった。
「ジュンちゃんも、そうだったかな」
映美が、小さく呟く。
店の誰も、何も聞かなかった。
外では、山から降りてきた風が、暖簾を揺らしていた。
鬼死骸食堂シリーズ
この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。
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