鬼死骸食堂|今日も、いる [#2 今日も、いる]
この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)
本作品は、以下の作品との連作です。
<あらすじ>
鬼死骸食堂に、今日も人がいる。
集会場の仕事を終えた映美。
食堂の端の席に静かに座る女性。
消防団の帰りに立ち寄るケンジ。
奥のテーブルでノートパソコンを広げる沢渡。
それぞれの事情で、それぞれの席に。
理由は言わない。聞かない。
ただ、定食を出す。
夜が深まり、賑やかになり、また静かになる。
沢渡が帰る。三人が残る。
食堂の外、あかりが立っている。
店の灯りを、じっと見ている。
「……今日も、いる」
今日も、いる
見ている人間が、いる。
岩手県、旧・鬼死骸村。
今日も、いる。
一
暖簾をくぐると、また怒鳴り合っていた。
「だから、それじゃ味が違うって言ってんだろ」
「同じだよ、どこが違うの」
「違う」
「どこが」
「全部だ」
映美は、いつもの席に座った。
カウンターの端、写真の女性から二つ分離れた場所。
厨房から湯気が流れてきた。
醤油と、甘い匂いが混ざっていた。
テレビが、誰も見ていない天気予報を喋っている。
隅の冷蔵庫が、低く振動していた。
箸立ての縁に、古い傷があった。
いつからあるのか、誰も知らないだろう。
大将の怒鳴り声は、厨房の奥から聞こえてくる。
娘の声は、そこへ向かって飛んでいく。
常連の二人は、味噌汁を啜りながら、
何も聞こえていないような顔をしていた。
いつも通りだった。
「お疲れさん」
娘が、水を置いていく。
「お疲れさまです」
それだけで、注文は要らない。
しばらくすると、いつものものが出てくる。
映美がこの店に通い始めてから、ずっとそうだった。
カウンターの小さな写真が、斜めから光を受けていた。
古い写真だった。
映美はこの席に座るたびに、その写真が目に入る。
最初に来たとき、すぐに分かった。
でも、何も言わなかった。
娘は、知っているだろうか。
厨房の怒鳴り合いが、少し静かになった。
娘が何かを言って、大将が鼻を鳴らした。
それで終わりだった。
また、始まることもある。
それがいつかは、誰にも分からない。
映美は、箸を持った。
外では、風が鳴っていた。
山の方から来る風で、夜になると少し湿っている。
都会にいた頃は、こういう風を忘れていた。
忘れていたことも、忘れていた。
表を、軽トラが通り過ぎた。
暖簾が、少し揺れた。
「おかわりは」
「いただきます」
娘が、何も言わずにご飯を盛る。
写真の女性は、笑っていた。
聞かなくても、なんとなく分かることがある。
分かったからといって、何かが変わるわけでもない。
いつも通りの夜だった。
たぶん、母親がいた頃から。
二
スーパーは、今日も定時だった。
女が、暖簾をくぐる。
暖簾がカーディガンの肩をなぜる。
「いらっしゃい」
娘の元気な声。
いつもと変わらない。
カウンターの奥の席に座る。
小さな写真からは、一番離れた席。
いつもこの席。
写真の近くには、まだ座れない。
娘は、気がついているだろうか。
「大将、冷酒」
娘の声が鍋に響く。
定食と冷酒が、カウンターに並ぶ。
いつもと変わらない。
「おお、やってる、やってる」
いつものうるさい常連の二人。
相変わらず、声が大きい。
相変わらず、くだらない話。
でも、誰も止めない。
でも、つい耳に入ってしまう。
いつもと変わらない。
テレビの音も、鍋の音も、
常連の笑い声も、
この店では、だいたい全部重なっている。
アパートに帰れば、
聞こえるのは冷蔵庫くらいだった。
静かすぎないのが、ちょうどいい。
つい、鼻で笑ってしまう。
私には、
これくらいが、ちょうどいい。
一瞬、店の中が少しだけ狭くなった気がする。
冷酒を、もう一口飲む。
店の空気が、少しだけ柔らかい。
たぶん、お酒のせいだ。
女は、コップを置く。
立ち上がる。
写真の前を通り過ぎる。
写真の女性が、少し笑って見えた。
暖簾をくぐる。
外の風が、暖簾を揺らしていた。
たぶん、明日もここに来ると思う。
三
遅い時間。
ケンジが、鬼死骸食堂の暖簾をくぐる。
「お、ケンジ。飲んでるのか」
「消防団の飲み会でね……」
すかさず常連の隣に座る。
娘が水を置く。
「はい、水。もう飲まないでしょ」
「あ、すいません」
ケンジ、一気に飲み干す。
「聞いてくださいよ。もう若いのいねぇんですよ」
常連たち、笑う。
「なんでもかんでも、ぜーんぶ俺ですよ」
ロレツが回ってない。
「操法大会だ、防災訓練だ、LINEも俺、書類も俺」
「ケンジ、意外と真面目だからな」
「ぜーんぜん、真面目じゃないっすよ……」
少し笑う。
でも、笑いが切れた瞬間だけ、
空気が落ちる。
後ろの常連が言う。
「まぁ、しょうがねぇな」
ケンジ、少し黙る。
「……火ぃ出たら、結局、俺ら行くしかないですしね」
娘、黙って味噌汁を置く。
「食べてから帰りな」
ケンジ、味噌汁を両手で持つ。
一口飲む。
「……うまい」
誰も聞いていない。
でも、聞こえていた。
常連二人の言い合う声。
厨房の鍋の音。
誰も見ていないテレビの野球。
ケンジ、箸を持つ。
食べながら、少し笑う。
さっきとは、少し違う笑い方。
ただ、腹が減っていた。
ただ、ここに来た。
「ごちそうさまでした」
立ち上がる。
「気をつけてな」
常連の一人が、振り向かずに言う。
「どうも」
暖簾をくぐる。
外の空気が、少し冷たかった。
酔いが、少し醒める。
明日も、たぶん俺が行く。
それだけのことだ。
四
昼食の時間が終わった頃。
食堂の暖簾が揺れた。
沢渡が入ってくる。
「いらっしゃい」
娘のいつもの声。
テレビでは、午後のワイドショーが、誰かの不倫を騒いでいた。
厨房から、包丁の音がする。
奥の席では、常連が一人、新聞を広げたまま寝ていた。
「奥、いいかい」
沢渡が聞く。
「おう。好きに使ってくれ」
大将の声。
沢渡は、ノートパソコンを片手に、奥のテーブルに座る。
時折、キーボードの音が響く。
しばらくして、
テレビが、夕方のニュースに変わっていた。
沢渡は、ふと、キーボードを打つ手を止めた。
ザックを背負ったままの小柄な女性が、
紅潮した顔で、水を一気飲みしていた。
二杯目も、止まらなかった。
山か。
そう思った。
それ以上は、考えなかった。
また、キーボードの音が響きだした。
徐々に常連が入ってくる。
テレビの音。
笑い声。
誰かの長靴の音。
常連の笑い声が少し小さくなった気がした。
沢渡は、カウンターの方を見た。
カウンターの端に、一人の女性が、静かに座っていた。
暖簾が揺れ、駐在が入ってきた。
「いらっしゃい」
娘の声。
「今日も、賑やかだね」
「奥のテーブルなら空いてるよ」
娘のいそがしそうな声。
駐在は、奥のテーブルに向かう。
沢渡の横に立って、駐在が聞いた。
「ここいいですか」
「はい、どうぞ」
「あのー。定食ください」
沢渡が思い出したように、
「私も定食」
「あいよ。定食二つ」
厨房から、大将の声。
「お仕事ですか?」
「研究室より、ここの方が捗るんですよ」
「大学にいると、学生が来て、仕事にならなくて」
「でも、ここだと、集中できないじゃないですか」
駐在が笑う。
「そのくらいが、ちょうどいいんです」
定食が運ばれてきた。
二人で食べ始める。
賑やかになってきた。
笑い声。
あの女性の声が、大きくなっていた。
沢渡は、湯飲みに口をつけた。
突然、大将の声がする。
「おい、駐在。送っていってやれ」
駐在は、慌てて立ち上がる。
「ええ! 俺ですか!」
「そうだ。市民の安全を守るのが役目だろ」
大将がいう。
「ご苦労様」
沢渡が声をかける。
駐在が、泥酔した女性を抱えている。
泥酔した女性と、スーツ姿の男が話してるのが見えた。
スーツ姿の男は、少し顔をしかめて苦笑いしている。
紙袋を丁寧に扱っていた。
酒のようだ。
しばらくして、スーツ姿の男の声がした。
「新幹線、乗り遅れちゃってね」
「そうか」
大将は、それだけ言った。
「もう、そんな時間だったか」
沢渡は、呟く。
ノートパソコンを閉じた。
気づけば、
店の騒がしさが、少しだけ変わっていた。
スーツ姿の男が、常連たちに囲まれて酒を飲んでいる。
笑い声。
グラスの音。
誰かが、勝手に人のつまみを食べている。
その様子を少し眺めた。
沢渡は、立ち上がる。
「大将。ありがとう。ごちそうさま」
「おお」
ふと、カウンターの端の写真が目に入る。
写真の女性は、少しだけ笑って見えた。
沢渡は、視線を外した。
沢渡は、食堂を出る。
暖簾が風に揺れていた。
早朝。
沢渡は、食堂の前を車で通りかかる。
路肩に見かけぬ車が止まっていた。
食堂の前。
昨夜のスーツ姿の男が食堂から出てくるところ。
「昨夜の男。泊まったのか」
見知らぬ男が店の前で、暖簾を見ている。
沢渡は、そのまま通り過ぎた。
夜。
食堂の暖簾が揺れる。
沢渡が入ってきた。
映美とケンジがカウンターに座っていた。
沢渡は、その隣に座った。
「また、三人揃いましたね」
娘が言う。
「そうだな」
ケンジが笑いながら言った。
沢渡は、黙って味噌汁を啜った。
しばらく、誰も喋らなかった。
写真の女性は、笑っていた。
外では、山から降りてきた風が、暖簾を揺らしていた。
食堂の前に、あかりが立っていた。
店の灯りを、じっと見ている。
しばらくして、小さく呟く。
「……今日も、いる」
暖簾が揺れる。
あかりは、来た道を戻っていった。
鬼死骸食堂シリーズ
この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。
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