見出し画像

学校を残すために、私はICTを語った【島ICT#07】/離島のデジタルデバイド編

サーバーダウンの一週間を経て、私は「なぜ動き続けるのか」という問いに向き合い直した。
その直後に開かれたPTAの「島の10年後を考える会」で、学校が消えるかもしれないという現実に触れ、ICTを“便利な道具”ではなく“未来を支える理由”として語りはじめた。
今回は、その決意が形になりはじめた夜をたどる。

前回の話👇

勤務した離島のICT環境について👇👇

離島の小学校で,一小学校教諭が当時の島のデジタルデバイドに挑戦しました。
今から約20年以上前の2002年(平成14年)4月からの離島赴任1年目のお話です。
※注:本文中の一部地名や商品名等は仮名(かめい)にしています。


1.教育委員会の訪問がくれた静かな覚悟

教育委員会による離島校訪問があり、昼休みに短い個別面談が行われた。
赴任1年目の私は異動対象ではないため、手続きに近い確認のような雰囲気だった。
「島での生活には慣れましたか」と問われ、「一生のうちでそう何度もできない経験なので、毎日が新鮮です」と答えた。
担当者は少し表情を和らげて「そうやってプラスに考えてくれるのがありがたい」と言った。

その言葉を聞いたとき、自分の中で静かに何かが引き締まる感覚があった。
「慣れる」のではなく「ここでしかできない学びがある」と感じ始めていた私は、前向きに過ごすことが評価されたことに安堵しながらも、「ただ環境に順応して満足してしまっていいのか」と胸の中で問いかけていた。

午後の授業に戻る廊下で、私はそっとつぶやいた。
来ただけで終わらせるわけにはいかない」と。


2.父親たちと向き合った“10年先”のテーブル

その日の夕方、PTA主催の「島の10年後を考える会」が開かれた。
小中学校の教員全員と、各家庭から必ず一人が参加するという条件で、多くの父親たちが集まっていた。

背景には、「離島振興法」がこの年度で期限を迎えるという状況があった。
延長が決まったものの、「これからの10年をどう生き延びるか」という課題は残されていた。
会の冒頭で説明されたのは、「子どもが減れば学校は休校になる」「学校がなくなれば島の将来はさらに厳しくなる」という現実だった。

議論の中で、「山村留学制度の導入」「教員が家族とともに赴任できる宿舎の整備」「若者夫婦向けの住宅建設」「船の便数の拡充」「医師の常駐」といった具体案が挙げられていった。
それらはどれも、“今”を少しでも延命するための対策でありながら、同時に「この島で暮らし続ける未来」をどう守るかという強い願いにも支えられていた。

「子どもが育っても帰ってこない島」。
誰もその言葉をはっきりとは口にしなかったが、その不安が会場全体の空気をゆっくりと支配していた。


3.なぜ私はICTにこだわって語ったのか

意見が一巡した頃、私はICTの整備について提案した。
島内でインターネットを使っている人はほとんどいないが、放置すれば通信格差はさらに広がり、島はますます不利な場所になると感じていた。

「もし将来、海の底にケーブルを引いて光回線が使えるようになれば、今の不便のいくつかは減ると思うんです。
たとえば買い物。島では手に入らないものは船を待たなければならないけれど、ネットで注文できれば必要なものが早く届くようになるかもしれない。
情報を調べるスピードも、本土にいる人たちと同じになります。
通信環境が整えば、“島でも暮らせる”と感じて、本土から移り住む人が出る可能性だってあります。
島の中だけでイントラネットを作れば、漁協の放送だけではなく、行事の連絡もパソコンや携帯で共有できるようになる。
そうなれば、この島の暮らしは『不便だから離れる場所』ではなく、『工夫すれば続けられる場所』に変わる気がしています。」

それがどれほど現実味を持って受け止められたかはわからない。
ただ、この島でICTの意義を語るなら、「言葉」ではなく「教育の実践」で示す必要があるという思いが、自分の中でさらに明確になっていった。


4.ICTの伝道師になると決めた理由

会が終盤に近づく頃、参加者の意見には「今だけでなく、この島が10年後、20年後にも成り立つか」という問いが共通して流れていた。
制度や住宅、交通の話題は、どれも「島に暮らし続ける未来を手放したくない」という思いに裏打ちされていた。

その空気に触れながら、私は「教師として」だけではなく、「ここで学びを作る人間のひとり」として、この島にどう関わるべきかを考えていた。
小さな一歩かもしれないが、島のICTの伝道師として実践を続けることが、子どもたちの選択肢を少しでも広げる道になるのではないか──そんな思いが胸の中で形を持ち始めていた

地域が活性化するためには、情報通信と交通、そして医療。 この三つがある程度確保されることが必要だと感じた。
そうなれば、ここは「我慢して暮らす場所」ではなく、「選んで暮らせる場所」になれるかもしれない。
私は、県にひとつだけ残された“島の学校”の灯を消したくなかった。
だからこそ、目の前の便利さだけではなく、10年後や20年後の学びと暮らしを想像し続けることが必要だと思った。

年月が経ち、私は後に、この島の小中学校が2022年3月末に休校になったことを知った。
子どもが全くいなくなったわけではなく、保護者が本土の学校を選んだ結果だという。
ちょうど,20年後だった。
その事実は、あの夜に語られていた「この島に戻ってこられる理由をつくること」の難しさを突きつけるものだった。

それでもあの夜の議論は無駄ではなかったと思っている。
むしろ、「どうすれば島に学びと暮らしが残るのか」という問いは、今もなお、私の中でくすぶり続けている。

(次回へ続く)

赴任していた離島の環境等はこちらから👇👇

離島のデジタルデバイド編マガジンです。👇👇👇


いいなと思ったら応援しよう!

熱中探究教室 応援いただいたお気持ちは、子どもたちの学びを物語として発信し続ける力となり、教育の現場で役立つヒントへとつなげていきます。