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【離島ICT#01】つながらない島から始まった挑戦/離島のデジタルデバイド編

2002年春。赴任したのは、船でしか行けない離島の小学校だった。
便利さが当たり前になった今から振り返れば、当時のICT環境は“信じられないほどの不便さ”だった。
しかし、その壁をどうにか乗り越えようとした3年間の試みがある。
このシリーズでは、その記録を「離島ICT編」として綴っていく。

勤務した離島とは👇

離島の小学校で,一(いち)小学校教諭が当時の島のデジタルデバイド解消に挑戦しました。
今から約20年以上前の2002年(平成14年)4月からのお話です。

※注:本文中の一部地名や商品名等は仮名(かめい)にしています。


1. 25年前の本土でのICT環境とは?

デジタルデバイド編を開始するに当たり

まず当時の本土の状況を押さえておきたい。
そもそも約25年前のことで、現在の当たり前とは大きく違っていた。
本土ですらまだ整備途上であり、離島はさらに遅れていたのだ。

もちろん、何をどうしたかを今と比べても仕方がない。
むしろ大切なのは、一つひとつ挑戦していったプロセスである。


当時の本土側の状況(2001〜2002年頃)

私が赴任した2002年春、本土の一般家庭で広く使われていたのはISDN回線だった。

ISDNとは、電話とインターネットを同時に利用できる当時の「最先端のデジタル回線」である。
ただし速度は64kbps(2回線を束ねても128kbps)。今の光回線(1Gbps)の約1000分の1の速度で、メール1通や画像1枚の送受信にも待ち時間が必要だった。
しかも常時接続ではなく、利用中は通話料がかかる仕組みだった。

2001〜2002年頃には都市部からADSL(1.5M〜8M)が登場し、定額制で常時接続が可能になったが、地方ではまだ普及が遅く、私の県のような地域では「ISDNが主流、ADSLは先進的な人が導入し始めた段階」といえる状況だった。

本県の2000年初頭と現在の比較(生成AIのデータをまとめたもの)

2. インターネットはあっても“自由”はなかった

勤務先の離島小学校では、中学校に整備された衛星回線のテレビ会議システムを分岐して利用し、インターネットとメールが可能になっていた。
一見すると進んでいるように見えるが、実際には制約だらけだった。

接続サーバーは県外に設置され、外部で一括管理されていたため強いフィルタリングがかかり、ショッピングサイトやWebメール、BBSは軒並み閲覧不可。
利用時間も平日8:30〜19:00に限られ、土日は完全停止。
さらにファイアウォールの影響で、FTP(ホームページの更新に不可欠な仕組み)や他プロバイダのメール送受信も使えなかった。
メール専用アドレスは割り当てられていたが、なぜか着信が遅れることも多く、私は結局プロバイダのメールを転送して利用していた。

学校がそのように「条件付き利用」だった一方で、島内の一般家庭環境はさらに厳しかった。
固定電話は音声通話やFAXは問題なく使えたが、データ通信はほぼ不可能だった。
NTTの海底ケーブルではなく、マイクロ波による無線回線で本土とつながっていたため、通信は極めて不安定だった。
モデムで接続できても最高9,600bps、悪いときには7,200bps。今のスマホの数千分の1という速度である。
私自身も宿舎で試みたが、1時間以上リダイヤルを繰り返してようやく接続できる始末で、ときには接続できない日もあった。
しかも、リダイヤル中も通話料が発生しており、最初の月に1万円近い請求が来てすぐに断念した。

一方で、携帯電話は意外にも島でよく通じていた。
これは漁業を生業とする人が多く、漁協の建物にアンテナが優先的に設置されていたためである。
そのおかげで携帯電話による音声通話はもちろん、データ通信によるメールチェックも可能だった。
機種変更後は19.2kbps程度の速度が出ており、固定電話よりは速く、しかも確実につながった。

ただし、携帯での通信は料金が高額になりやすく、私もプランを変更せざるを得なかった。
それでも「これしかない」という現実には抗えず、まさに「手段はあるが、費用や安定性の面で実用的とは言い難い環境」がそこにあった。


3. 「変えたい」という思いが始まりだった

私は前任校での「和菓子プロジェクト」でBBSを使い、職人さんや専門家と交流した経験から、インターネットが距離や時間を超えて可能性を広げることを実感していた。
だからこそ、この島で直面した不自由な環境は強い衝撃だった。

当時すでに天気予報サイトやニュース速報は便利に使われ、書籍中心ではあるもののネット通販も始まっていた。
島に暮らす人々にとっても、それらは十分に役立つはずのものだった。
にもかかわらず、その恩恵に預かることが難しいという現実があった。
当然、島の人たちはつないだことがないので、その存在すら知らなかった。

連絡船は1日3便、荒天時には欠航。漁師にとって天気情報は命に直結する。
そうした重要な情報にアクセスできないのは、生活そのものへの影響だった。

「このままでいいはずがない」――そう思った私は、3年間の赴任を「ただ過ごす時間」ではなく「変化を生み出す時間」にしたいと考えた。
小学校教師という立場であってもできることはある。
そう信じて挑戦を続けていこうと決意していたのだ。

離島のデジタルデバイド編#2へ続く👇👇

離島の小学校編はこちらから👇👇👇


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