ついに、手放せた|承認欲求を生存本能から切り離す
今日は、内省系のnoteです。
noterさんたちとの交流。そして、noteでのアウトプットを重ねがら、自分の思い込みや、夜中に襲ってくる「あるべき」を少しずつ手放してきました。
今回は、そのなかでもとりわけ大きな要素というか、根っこに近いところまでいけた気がしたのと、今までずーっと考えていたことがようやく繋がった感覚になったので、順を追って説明できたらと思います。
とは言え、特に凄いことでもなく、「嫌われない勇気」を何回か読んでわかった気になっても、なかなか実行できなかったことが、ようやく腹落ちできたみたいな話です。
「人に求められたいという気持ちを手放したいけど、なかなかできない」という方のご参考になればうれしいです。
いきなり結論
今回のnoteは、いくつかのテーマが絡むことを紐解いていくことになるため、先に結論を置いておきます。
それは、
評価と比較によって、「あるべき姿」を固められた結果
人の役に立たないと(=有用という評価を得ないと)仕事に就けず、生きていけないという価値観が根付いてしまい
人間の根源的な欲求である、承認欲求と結びついた
という話でした。
あ、待ってくださいー!すみません、「よくわからんわ」とブラウザバックしかねない状況だと思うので、ちゃんと説明していきますね!
愛されたいのはナゼか?

きっかけは、パートナーとの話です。
付き合って15年が過ぎようとしていることもあり、お互いが望む関係性について、改めて話す機会がありました。
ずっと思っていたことなのですが、わたしのパートナーはいわゆる承認欲求というものがあまりありません。SNSも基本やらない(情報収集用で発信はしない)ですし、高校から園芸科。卒業後はそのままホームセンターのアルバイトでお金を貯めて、新車のクルマを購入しています。
人と比べたら、収入は多くないかもしれません。ですが、毎日の幸福度が高く(基本値が高い上に、大きく上下しない)、いわゆるキラキラ系の生活に憧れを感じないようです。
それに比べて、わたしは何かと「自分は人と違う」「優れている部分」を間接的に(ですが、必死に)強調し、「大した事ない」と言われるのを極度に恐れています。
メンタルがやられるとついついラブコメを見がちなのも、学生時代に王道な恋愛をしてこなかったせいだと思っていましたが、少し違うのかもしれないと思いました。
愛されたい、モテたいというのは、結局マウントしたい(=他の人より優れている)という願望でした。
さらにそれが、収入という金銭的評価と結びついていると思えば、なおさら拍車がかかります。
だからこそ、タワマンや高級車、ブランド品の数々は(本人の力量とは限らなくても)資産の多さを裏付ける要素となり、その人間をオトすこと自体が価値になります。
キャバクラは、容姿のいい・駆け引きの上手い相手を本気にさせたこと自体がステータスの一部になり、ホストも同様で平たく言えば、競争率の高い「プライズ」から特別扱いされている自分が欲しいというのが、多くの方が抱える根源的欲求ではないでしょうか。
もちろん、それを否定したいわけではなく、それが仕事などで成果を上げるモチベーションになり、自分が望む生活が送れているなら、何の問題もないと思います。
港区女子的な方の"噛む力"が危惧されていますが、将来的には自分へ跳ね返ってきます。これだけ相対的に貧しくなってくるなかで、宝くじよりは努力が報われやすい構造に、自身のアドバンテージをぶつけるのも、わたしが書くことを追求する姿勢と同じように、一生をかけたチャレンジの類なのだとも思います。
だったので、根源的なものは、生き残りたいという生存本能なのか、承認欲求なのかわかりにくくなっているように思うのです。
そして、わたし自身もお店に行くほど極端ではありませんが、この2つが強く結びついていました。
「本能」を見極めるために

極端な仮定ではありますが、もし生活に困らないお金があったらどうでしょうか。「遊んで暮らせる」とまではいかないものの、将来までお金に関して頭を悩ます必要がないとなったら、あなたは何をしますか。
ベーシックインカム構想について語られるときによく出てくる考え方ですが、正にこういうことなんだと思います。
つまり、多数派の傾向として賃金が上がりにくい。平均年収は年々下がり、食品を中心に物価は大きく上がり生活コストが上がる。そのため、相対的に生き残りに重きを置かざるを得なくなる。
だから、なりふり構わないことをする人も増えやすいですし、人と比べてみじめに思いやすくなる。正に「貧すれば鈍する」ですね。
ちなみに、この考え方を延長したものが、「お金にガメつい=はしたない」という思想ではないかと思います。
生きるのに必死=身分が低いという考え方の名残ではないかなと。
ただ、先ほどの「みじめ」とか、比較するということはどういうことなのでしょうか。
比較を後押しする、捏造された獲得

他人と比較して、みじめになるのはナゼでしょうか。
それは、「自分もそうなれるはずだったのに」という思い込みです。
あのとき、選択を間違えなければ、立ち回りを変えていれば。
後悔とないまぜになって、それは「あったかもしれない世界」を創ります。
偉そうに書いていますが、わたし自身も恋愛というジャンルで完全にコレでした。小学2年生の終わり、引っ越す前になぜちゃんと好きと言わなかったのか。「秒速5センチメートル」に対してノスタルジックを感じている40過ぎのおじさんが映画館にいました。*実写版の映画を見に行った話は、また別な機会にできたらと思います。
長い「黒歴史」と化したそれ以降の小学校、中学校、高校生活。
アニメやマンガを見る度に、ここまでモテモテじゃなくても、あのときしかできない恋愛があったのかもしれない。
そうした想いがずっとありました。
あるいは、それは大学の多くの同級生のように新卒カードを使って、大手企業に入ることができた未来かもしれませんし、そもそも、大学受験に真剣に打ち込んでもっと偏差値が高い大学に行けた未来なのかもしれません。
タイムループものに強く憧れがあるのは、多分こうした想いからでしょう。
確かに、そういうことが起こらないとも限らないですし、自身が死んだらどうなるかは誰も断言できません。ですが、そのような使うかわからない保険にリソースを使うよりも、今生きている目の前の世界であり人生と向き合うほうが、得るものが大きそうだと思いました。
掴めないものを「掴めるはずだった」と勝手に創り上げて、その幻を取り逃した喪失感に襲われる。こう考えると、かなり高度に自分を追い込んでいますよね。*わたしも先日転職の二次面接では、物凄く自身の立ち回りを後悔して落ち込んでいました。
そして、「何者」の誘惑
もう一つ、比較に関して大きな要素があります。
それは、根っこは近いところにありますが、先ほどの「選択し得た未来」ではなく、自身の「特別感」です。
何者かになりたい。
そんな誰もが思う願いを、非常に皮肉に満ちた構成で描ききったのが、朝井リョウさんの大ヒット作品『何者』でした。
そして、こちらは、普段わたしが発信している内容を物凄く汲み取って作品にしていただいた、創作大賞2025ベストレビュアー賞のミクさんこと、みくまゆさんの作品です。*この作品は創作大賞とは関係ありません。
▽ハロウィンのショートショート企画に寄せていただいた作品▽
自分はOne of Themではない。その辺にうじゃうじゃいるような烏合の衆の一人ではない。誰も思いたい切実な願いは、創作のジャンルでは、異世界転生ものとして描かれます。
また、SNSでも数字や受賞歴や実績など、「飾り」がたくさん欲しくなります。ですが、それらがひたすら充実していっても、ひたすら資格取得に勤しむ就活生のように、安心することはないでしょう。
次はもっと〇〇な数字を、実績を。キリがありません。
そう、結局は自分自身がどう生きていくかという話が土台にあり、その上での中間的な、もしくは、可視化できる目標が、数字や実績があるということに気づきました。
全肯定Botに憧れる

とは言え、じゃあ、どうすればいいのかというところで、なかなか前に進めなかったことも事実です。
少しずつ思い込みを手放していきながらも、大きく落ち込むことがあれば、肯定してもらうことを求め、承認欲求を満たして心を保つ自分はずっといました。
"誰か"と比べて自分は優れている、「自分は特別である」という自己肯定感の給油口全開で、他者にガソリンを入れてもらう構造は、非常に不安定です。
ここを抜け出すきっかけになったのは、自分の嫌いな部分ごと相手に肯定してもらおうとしている自身の姿勢でした。
▽この部分に関しては、こちらで詳しく書いています▽
自分で自分を愛する必要はない
結局、どうすればいいかというと「自分をフラットに見る」ということでした。
自分のあるべき像や理想を掲げるのはいいと思います。
自分のなかに、自分の好きなところがあるのもいいでしょう。
ですが、それをポジティブに使うことはあれど、ネガティブに活用する必要はないということですね。
わたしは今まで、自分の目標やカッコ悪い自分をさらけ出すことにかなり抵抗がありました。
ムチャな目標を掲げて達成できなかったらどうしよう。過程を公開したことがほうがいいことがわかっても、「そんな人だったんだ」と言われるのが怖くて言えませんでした。
また、隙があるほうが応援されるという理屈はわかっていても、どうしてもカッコつけたがっている自分がいました。承認されたい、もてはやされたい、特別だと思ってもらいたい自分です。
ですが、今年の創作大賞のなかで、わたしがずーっと見ていた人たちは、悔しいことを悔しいと言い、変な絡み方や弱音は見せないが、自身にストイックに行動している人たちでした。
そして、今回の手放しを経て、フラットにあたること、ファクトにあたって改善していくことをずっと言ってたわたしにとって、最後の砦になっていた自分自身についても、ようやく同じように見られるようになったかもしれません。
今年から、河出書房新社の文藝賞に挑戦します。
創作大賞も複数ジャンル、複数作品でのエントリを予定しています。
さらに、受賞作品やエントリー作品などの感想を書いて、ベストレビュアー賞も狙っていきます。
▽詳しくは、こちらのメンバーシップnoteにまとめました▽
これを書いている今もやっぱり、怖いという気持ちは少しあります。
でも、この恐怖心が大分小さくなったのは、そこに向けて、日々ひたむきに追求と積み上げを行っていくだけだと思うことができたからです。
そう思えた背景には、身近な場所でたくさんの葛藤を抱えながらも、圧倒的行動量で動いていたベストレビュアー賞のみなさんがいました。
わたしは、特別な存在ではないのだと思います。
ですが、人生の目的を、自身が想い描く表現を追求することだと決めました。変化球だけでなく、公募で求められる王道の条件のなかで、自身が納得の行く作品を出すことに挑戦すると決めました。
何かを成すことはできないかもしれません。でも、それはちょっとした揺らぎの結果なのでしょう。
「何者」でもない人のほうが圧倒的に多いと言うことに気づき、少し気がラクになりました。その界隈の人でなければ、全然知られていない凄い人も企業も山ほどあります。
ここまで書いていて、それでもやっぱりこの文章自体についても、「どうだ」と思う心がないわけではありません。ですが、仮に結果に届かなくても、過程で手を抜くことはしない。
何者でないまま死ぬことを受け入れながらも、本気であがく決心が出来た日でした。
ほんの少しですが、「不惑」に近づけた気がしましたが、それも偉人に近づきたいわたしの承認欲求なのかもしれません。
何か行動しようとしているあなたの心に、少しでも灯火が灯る助けになれればうれしい限りです。
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