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関心領域と財務省 実はよく似ている2つの組織

 前回、森永卓郎さんの『ザイム真理教』を採り上げたけれど、今日はそれにちなんだ話。

 2023年『関心領域』という映画が公開された。
 舞台は1940年代、アウシュビッツ強制収容所――その手前に住んでいたある一家を描いた物語である。その一家というのがヘス家。家長であるルドルフ・ヘスはアウシュビッツ強制収容所の所長だった。
 壁を一つ隔てた向こうには、凄惨な殺戮が繰り広げられていた。しかし映画ではそこを一切描かない。その逆で、信じられないくらい平和なひとときが描かれていく。平和すぎてどこかおかしい、どこか奇妙な一家の、何でもない日常を描いた作品である。


 この映画には様々な注目ポイントがあるのだが、今回は「関心領域と財務省」というテーマに合わせて掘り下げていきたい。
 映画『関心領域』はアウシュビッツ強制収容所所長を主人公にしているのだが、しかし見ていても《邪悪》な部分が見えてこない。どう見てもごくふつうの男性。ごくふつうの父親。家族の様子もどこにでもいる、ありふれた一家にしか見えない。
 あまりにも普通。あまりにも平凡。後の時代の人間である私たちは「アウシュビッツの所長」と聞くだけで、「きっととんでもなく邪悪な風貌をしていて、普段から邪悪極まりない言動をしていたに違いない」と思い込む。しかし実際にはとことん平凡なただの人だった。
 何の予備知識なしで見ていると、「これは本当にアウシュビッツの物語なのか?」「この男は本当にあの収容所の所長なのか?」と疑問ばかり浮かんでくる。それくらいに平凡すぎるくらい平凡な光景を描かれている。

アドルフ・アイヒマン

 これは映画の中だからそう描いているのではなく、実際にルドルフ・ヘスはただの平凡な男だった。
 アドルフ・アイヒマンという男がいる。元ナチスでホロコーストの中心的人物だった男だ。ある記者がこの男の裁判を傍聴した後に書いた印象が「凡庸な悪」。ユダヤ人大量虐殺の首謀者だったから、どれだけ邪悪な人間だろうか……そういう思い込みで裁判を傍聴しに行くと、そこにいたのは、平凡すぎるくらい平凡な、ただの人だった。別に邪悪な思想や、邪悪な嗜好を持っていたわけでもなかった。拍子抜けするくらい普通で、道を歩いていたら誰も振り向きもしないであろう、普通の人だった。
 アドルフ・アイヒマンがなぜあんな邪悪な所業をしたのか。それは上からの命令だったから。優秀な官僚として、命令されたとおりの結果をだしただけだった。

 アウシュビッツ強制収容所所長であるルドルフ・ヘスも平凡なただの人だった。
 彼は処刑前、手記にこんな書き残しをしている。
「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らずに第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった」
(中略)
「世人は冷然として私の中に血の飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。(中略)その男もまた、心を持つ一人の人間だったことを。彼もまた悪人ではなかったことを」

 ここからわかることは、「平凡な人格」と「邪悪な仕事」は両立しうる、ということだ。ルドルフ・ヘスは家庭では良き父親だった。休日には息子と娘をカヌーに乗せて遊びに連れて行ったし、娘たちがいつまでも寝ないでいると、ベッドに連れて行って、眠るまで絵本を読んで聞かせる……そういう父親だ。
 実際の映画を見ていると、ルドルフ・ヘスは普通の「いいお父さん」に見えてくる。本当にあの《邪悪な》ルドルフ・ヘスなのだろうか……というくらいに。

 まだ映画『関心領域』を観ていない……という人は予備知識を一切持たない状態で映画を観てほしい。知識のある状態、ない状態とはまったく見え方が変わる映画だ。あの壁の向こうが強制収容所ということすら知らない状態で観ると、間違いなく「とある幸福な一家の、平凡な日常の物語」と思うはずだから。初めて見る場合は、むしろ何も知らないほうがいい。二度目に見るときに、壁の向こうに隠されたおぞましい真実を知った上で見てほしい。そうすればショックは大きくなるはずだ。
 そして「邪悪さ」と「平凡さ」が両立することを知ってほしい。

 さて、今回のメインテーマはアウシュビッツ強制収容所の話ではなく、【財務省】。
 森永卓郎さんの回想録を読むと、財務省(当時・大蔵省)内部の人々による悪辣な姿を確認することができる。当時、専売公社から出向していた森永卓郎さんを人として扱わなかった。大蔵省役人の邪悪な側面が描かれている。
 財務官僚になると、その権力に誰も逆らえなくなる。周囲の省庁に所属する人々もだし、政治家すら自分の意のままに操れてしまう。そうした環境下で次第に万能感を発揮するようになっていく。まるで自分たちがこの世の「神」にでもなったような……実際に財務省の人々は「ザイム真理教」の教祖として、幹部としての活動を繰り広げる。ある意味で本当に「自分中心」の世界を作り出すことができる。

 ここで改めて財務省の権限がどういうものなのか確かめておこう。
 財務省特有の権力の第一は「予算」を管理する立場にあること。政治家がどんなに良い政策を考えたとしても、財務省がダメといったらもうダメ。
 第2に税務調査の権限。もしも財務省を批判すると、すぐに抜き打ち税務調査がやってきて、難癖をつけて逮捕させることができてしまう。話を聞くと全ての新聞社、出版社に片っ端から税務調査が入るわけではないが、大手のいくつか入るだけで周囲の業界は萎縮し、財務省批判を控えるようになる。それをわかっているから、財務省はより力の大きい、影響力のあるところを狙って税務調査を入れる。
 第3にマスコミとの太い繋がり。財務省はすでに何十年も前から新聞・テレビの業界に入り込んで「ご説明」をやっている。ニュースショーに出演するような大学の先生、お笑い芸人、アイドルといった人々はもれなくご説明がやってくる。そうやって報道内容を自分たちの思うままにコントロールしてきた。もしも財務省に対する批判めいた発言をすると、その時には税務調査だ。誰も反抗ができない。
 こんなふうにマスコミの業界に深く入り込んでいるから、時に報道の内容をコントロールすることもできる。それが2017年の安倍政権下で起きた「森友学園問題」である。あの事件ははじまりから終わりまで、全部財務省主導の騒動だった。安倍晋三は当時、消費税引き上げに抵抗し、延期させていたわけだが、この騒動により財務省の意向を受けなくてはならなくなる。
 森友問題の事件の全容をいま冷静になって振り返ってみると、財務省は安倍政権を攻撃するための「仕込み」を何年も前から用意していたのだろう。安倍晋三が反財務省的な行動を見せたから、用意していた仕込みを起動させた。森友学園が新設する小学校の名前を「安倍晋三記念小学校」にしようとしていたり、生徒たちに(批判しやすいように)奇妙な指導をやらせていたり……これらは全て意図的なものだったように思える。こういう仕込みを、財務省は他にもいくつも用意しているのだろう。
 他にも、財務省は様々な政治家の弱みを握っている……という。そのなかに、財務省自身の仕込みのものも結構あるだろう(ハニートラップとか)。しかしすぐには公に出さない。情報を出すための絶好のタイミングを見計らっている。
 例えば2024年12月頃、国民民主党玉木雄一郎代表の不倫問題が報じられた。これも財務省主導ではないか……当時から言われている。確かなことはわからない。単に情報を持っているマスゴミの誰かが「いまこの情報を出したら美味しい」と思ってブチ上げたものかもしれない。

 まとめると、財務省の権力は次の3つ。
①予算権
②税務調査権
③マスコミとの太い繋がり

 これだけ……と思われそうだが、これだけでも相手をほぼ完全に封じることができる。反論する相手を、法的に、あるいはメディアを動員して攻撃できるわけだから。財務省は人を殺すことはできないが、社会的に人を殺すことができる。こんな批判記事を出して私も大丈夫なのかわからない。
(私は影響力が完全にゼロだから、大丈夫だろう……。この記事も5人くらいしか読んでないし……)

 ここまでは財務省の悪魔的な部分だが、実は財務省にはもう一つの顔がある。それは「いい人」としての財務省だ
 財務省から「ご説明」を受けた人々の話を時々聞くのだけど(つまり又聞きということになるが)、みんな共通して、財務省の人々は物腰柔らかで、説明も丁寧でわかりやすく、実に好意的な人物だった……という。財務省の官僚から、とても邪悪な側面などは見えない。だから話を聞いて、信じようという気持ちになってしまうという。
 はて? 森永卓郎さんが回想録の中で語られた大蔵省役人と雰囲気が違う。財務省に「呼びつける人」と、財務省から「ご説明」に出動する人は違う人なのだろうか?
 これは私の推測だが……たぶんどちらも同じ人だ。同じ人が内部に対しては徹底して高圧的になり、外部の人に対しては「いい人」を振る舞う。この真反対の性質は両立しうる。

 ここで『関心領域』をもう一度見てみよう。

 ルドルフ・ヘスは家庭の中では「良き父親」だった。平凡で善良なただの人だった。しかし一方でアウシュビッツ強制収容所の所長として、いかにして命じられた仕事を「効率よく」成果を出せるかずっと考えていたような人間でもある。収容所の中にいるユダヤ人たちに対しては、一切の人情を向けず、機械的に虐殺する……ということができた。
 人は人情を向けられる相手に対しては丁重に扱うが、そうでない相手に対してはどこまでも冷酷に振る舞うことができる。これは特殊な人による歪んだ性質ではなく、どんな人でも普通に起きる現象である。
 誰だって思い返せば、特定の誰かに対して、特に理由もなくとことん冷酷に扱い、その人の地位を落とすような行為を面白がってやっていた……という記憶はあるはずだ。私にすらある。ないという人間は自覚がないか、ただの嘘つきだ。「この人は叩いていいんだ」そう思ったら、どんなに普段おとなしい人であっても、穏やかそうな気質な人でも、平気で残虐な行為を始めたりする。人間は『関心領域』で見たように、人情のスイッチを簡単にオン・オフを切り替えられる、そういう生き物でもあるのだ。
 『関心領域』と同じであれば、財務省の人々は実際に会ったら、きっと礼儀正しく、きちんとした好印象の人間に見えるだろう。「平凡ないい人」と「邪悪な気質」は両立しうるのだから。

 『関心領域』と財務省がよく似ているところは、その仕事内容にもある。
 財務省は明らかにいって、国民の生活を破壊するような行為をやり続けている。なぜなのか? 財務省は悪の秘密結社なのか? どこか外国の指令を受けて、日本人の生活を破壊しようとしているのか?
 そうではない。ただ省内のルールだからそうしているだけ。「財政健全化」が省内のルールだ。悪いとは思っていない。そういうルールがあるから、優秀な官僚として最大の成果を目指しただけに過ぎない
 欲があるとしたら、「制度を作った」という勲章を残すこと。「自分の名前を刻む」ことが目的であって、その結果なんてものはどうでもいい。自分たちの行動が国民にどのような影響を及ぼすか、考えたことはない。自分がやったことの影響が自分たちに及ぶことはほぼないわけだから。そこで、どこか現実感覚が喪失してしまう。
 『関心領域』のルドルフ・ヘスも、命令だから最大の成果を目指しただけ。それで目の前で何千人のユダヤ人が死んでいたわけだが、そのことに心が動かされることはなかった。それが悪だとはその時は考えなかったという。命令だから機械的に仕事をこなしていただけ。そういう意味での現実感が喪失していた。
 ルドルフ・ヘスも財務省官僚も同じ。ただ命令されたからそうしただけ。それが悪いこととは思わない。どこか現実感が喪失して、自分の周囲だけの平穏な世界しか目を向けられなくなっていた。財務官僚の頭の中では、平和で幸福な家族世界の物語が思い描かれていることだろう。しかしそれは……ただの夢でしかない。そこに現実はない。

 別の所にも書いたけど、「現実感の喪失」が私たちの国・日本が抱えている大きな問題だ。
 私たち庶民階級は、政治の世界でのできごとのほとんどは、自分たちに関係がないと思い込んでいる。制度が変わった、それで自分たちの生活がどのように変わるのか……。ほとんどの日本人は自分には関係ないと考えている。
 そう考える一つの理由は、私たちの社会があまりにも複雑すぎるから。それぞれの関係性が複雑すぎて、なにがどのように作用して、その結果が自分たちに及ぶかわからない。
 社会階層の下にいる人間にとってわからないなら、上にいる人間にとってもわからない。自分たちが決めたことが下層階級にどんな影響があるか、よくわからない(というか、影響が及ぶことはほぼない、という立場にいる)。わからないから、ただの「勲章」がほしいという理由だけで制度変更に邁進する。
 わからないと、考えなくなる。そのうえで「関係ない」と考えるようになる。それが人間の認知能力の限界。
 そのうえに、私たちは長年、「政治については考えてはならない」「議論してはならない」という社会的空気を作り出してきた。政治の議論は日常対話のなかでするのは、下ネタを口にするくらい不適切……そういう空気を作り続けてきた。だから思うことがあっても、よほど仲のいい相手でないかぎり話してはならない。そう思い込んでいた。
 こういう意識は私たち一般人はともかく、芸能にかかわる人はもっと強烈らしい。芸能人の多くは、なにかしら思うことがあっても、なにかあってはいけない……と口をつぐんでしまう。自分の立場、周囲の人の立場、その一つでも崩されると自分の地位が危うくなる。それで何も言わないことが当たり前になっていくのだとか。芸能人という、人々の意識の最前線に立つ人々がそういう意識だから、ほとんどの庶民階級も同じように振る舞うようになっていく。
 こうして、私たち大多数が考えられることは、せいぜいアイドルが今日何を食べたとか、誰と恋愛しているとか……そういう本当に無意味なことばかりになってしまった。そういう情報に振り回され、何も考えないことに調教されきったのが私たちだ。メディアが垂れ流すどうでもいい夢を見て、永久に醒めることがない。それが現在の「普通の日本人」の姿になってしまった。
 夢を見続けるから、この現実感の喪失の重大さに誰も気付かない。

 夢はいつまでも見続けるわけにはいかない。夢はいつか醒めるものだ。
 ナチスは戦争に負けて、ハッと自分たちの残虐非道に気付いた。財務省もいつか、どうにもならない状況に追い込まれて、ハッと自分たちが何をしてきたか気付く瞬間があるだろう。でもその時、誰も財務省に同情の目を向けることはない。自己責任だからだ。

 いま、多くの人が財務省の幻惑から目を覚ましつつある。マスコミはまだまだ目覚めようという気配はない。でもいつか色んなものが反転するだろう。その時が来ても、財務省は今までのように夢を見続けるのだろうか。

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