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読書感想 書いてはいけない/森永卓郎 日航123便墜落事件と日本経済失墜の真実

 1985年8月12日。羽田発-大阪・伊丹空港行 日本航空123便が墜落した。出発は18時12分。墜落は18時56分。乗員乗客524人中、死亡520人。単独機としての事故としては、未だに世界最大の航空機事故である。
 出発から墜落まで、わずか44分。この間になにが起きたのか? なにが墜落の原因だったのか? それは今もって謎である。

 今回はこの墜落事故を時系列順に見ていこう。

 8月12日。18時12分。日航123便は羽田を出発。順調に離陸し、東京湾を抜け、相模湾を通過した。

 18時24分。機体後部で謎の爆発。高さ2万3900フィート(7284メートル)。
 原因は後部圧力隔壁の破断。日航123便は1979年に伊丹空港で尻餅事故を起こしていた。その時の雑な修理が、7年の金属疲労によりとうとう破断したとされる。

 機長はただちに東京管制区管制所に緊急事態発生を報告し、羽田空港に戻ることを要請。東京管制区管制所は了承。しかし操縦不能で旋回ができず、伊豆半島、駿河湾を通過。その後ようやく旋回。

 そこで目の前に横田基地があることに気付く。機長は横田基地を目指す。
 しかしそのままでは高度が高すぎる。機長は高度調整のために、急旋回しつつ高度を下げる。2万2400フィート(6827m)から1万7000フィート(5181m)まで高度を落とす。

 機長は横田基地に向かいながら、18時46分、「このままでお願いします」と2回発言。
 しかしその12秒後「これはダメかもわからんね」と発言。
 その直後、北へ進路変更。

 長野県川上村の上空を通過。この時、村の住民が「石を投げれば当たるくらいの超低空を飛行していた」と証言するほど低く飛んでいた。おそらく日航123便はこの村の、ひらけたレタス畑への着陸を試みたのではないかと考えられる。記録を見ると、6800フィート(2072m)まで高度を下げている。
 しかしこの後、再び17000フィート(5181m)まで高度を上げる。

 日航123便は山岳地帯を抜けて、上野村を通過。そして群馬県御巣高山に墜落する。

 日航123便墜落直後、米軍横田基地司令部はマイケル・アントヌーチに捜索を命じる。大型輸送機C-130が現場上空を旋回し、情報収集。
 そのあいだにキャンプ座間から陸軍ヘリUH-1が到着。輸送機では大きすぎて森の中への着陸は難しいため、陸軍ヘリが派遣されてきたのだ。時間は8時頃だったが、夏だったのでまだ空は明るく、森の一角が火を噴き煙を上げている様子はすぐに見つかった。
 米軍は現場に到着し、着陸を試みようとする。
 実はこの様子を、地上からも目撃されている。生存者の一人が事故後、すぐに米軍ヘリがやってきたのを見て、手を振った。その時には自分の周囲には“生存者がたくさんいた”と証言している。
 しかしこの直後、「帰還命令」が下る。
「ヘリは隊員をロープで下におろす準備をしている。準備は万端です!」
 しかし司令部からは「すぐに日本が救助に来る。退去しろ」と命令が下る。

 同じく8時過ぎた頃、文化放送情報部・大村公夫記者が現場近くに到着。大村記者はたまたま休暇で富士見高原に出かけたところで墜落事故を聞く。自分のいる場所から現場まで30キロという近さだったため、現場近くへ自分で車を運転して直行。墜落現場近く、赤い炎がすぐそこに見える場所までやってきて、現場実況中継をした。

 ところがその後、自衛隊は出動しなかった。
 公式には翌朝午前4時39分、自衛隊は現場を特定したとされるが、なぜか出動しなかった。
 午前10時54分。地元消防団員が生存者である落合由美さんを発見。事故から13時間後のことだった。ようやく救助活動がはじまる。この時には生存者はわずか4名になっていた。

事実と憶測に分ける


 ここまでが日航123便墜落事故の時系列順のできごとだ。本では時系列バラバラで説明されていたので、わかりやすくするために時系列順にできごとを並べた。

 ここまでの内容だが、実はYouTubeの動画番組にほとんど全てが公開されている。

 森永卓郎さん自身の言葉で、事件の推移、その後日本の政治で何が起きたのか……まで語っている。まずこの動画を見てから、ここから先のお話しを読み進めてもいい。

 ここでは、日航123便墜落事故の話を、「事実」と「憶測」に分けよう。

○ 事実

・日航123便墜落
 まず前提となるこの事件は事実。1985年8月12日。18時56分。乗員乗客524人中、死亡520人。これは絶対に動かせない事実。

・米軍の救助
 日航機墜落直後、すぐに近くだった米軍横田基地から救助のヘリが飛んだ。これは本編でも紹介した話だが、不思議なことにこの事実は事件から9年後、公開された。当時の米軍パイロットのマイケル・アントヌーチは引退し、カリフォルニア州の地元紙のなかで紹介された。この記事を紹介した当時のニュースステーションは、実際にヘリコプター副操縦士と接触を持ってインタビューをしたが、「この件についてはまだ話せないんだ」という答えだった。

・事件現場近くで文化放送がラジオで実況中継
 こちらも本編で紹介したとおり、たまたま休暇で近くにいた大村公夫記者は、8時をすこし過ぎた頃、現場近くまでやってきて、燃え上がる森を背景に現場中継をした。

○ 曖昧なところ

・機長のボイスレコーダーの発言
 実は現在に至るも、日航123便のブラックボックスの中身は公開されていない。遺族が何度も裁判所に訴えているが、すべて棄却されている。
 しかし機長による「このままでお願いします」「これはダメかもわからんね」の二言のみ公開されている。これは裁判所の決定に納得がいかない“第三者”がデータの一部をテレビマスコミに送ったものだという。
 おそらくは本物であると考えられるが、しかし改ざんの可能性がある。それに通信内容が不明瞭で、機長が誰と交信を取っていたのか、何に対し「このままでお願いします」と言ったのか。
 事実としては、この交信の後、横田基地への着陸を断念し、急旋回して北へ向かった。

・ファントム2機が追尾していた。
 本編では紹介されていないが、当時、日航123便の後を自衛隊ファントム機が追尾していたという。ただし、この目撃証言は小学生2人の“話”だけ。嘘ではないかも知れないが、小学生の証言だけというのは弱い。
 公式発表では19時5分、百里基地から実際にファントム機が発進している。こちらが正しいとすると、18時56分に墜落した日航123便の後を追跡していた証言と矛盾が発生する。

・謎のオレンジ色の飛翔体
 実は123便の乗客が中から窓の外に向けて撮影された写真が残されている。遺留品として残されたものだ。
 乗客が撮影した写真には、オレンジ色の飛翔体が写されていた。事件調査をした青山透子氏は陸上自衛隊SSM-1(88式地対艦誘導弾)ではないかと推測している。つまり「ミサイル」である。
(ただし、当時の自衛隊機にはこのミサイルを実装していない……という反論もある)
 当時、本当に日航機の背後をファントムが追跡していて、ミサイルを発射していたとしたら……。
 しかしこれも不鮮明な画像からの分析であるので、正解か不正解かは判別しづらい話。

・自衛隊は事件現場がどこかわからなかった
 自衛隊の救助は翌日の朝になってようやく始まった。事件が起きて、すぐに自衛隊が出動準備に入ったが、現場がわからず、12時間にわたり待機を命じられたとなっている。
 しかしこれこそ奇妙な話だ。当時、墜落現場ちかくの村の人々が、一斉に「近くに落ちた!」と通報していた。さらに米軍が事故件現場近くに救助にやってきていた。この時点で墜落位置の情報のやりとりはあるはずだ。文化放送のラジオ局では現場近くで実況中継もやっていたはずで、ラジオを聞けばおおよその位置の特定もできたはずだ。
 「事件現場がわからなかった」という言い訳はどこかおかしい。

・事故原因
 実は事故原因はいまもって曖昧なところがある。本編ではその数年前に尻餅事故を起こしていて、その修理が充分ではなかったために圧力隔壁が破断した……ということになっている。
 しかし実際に高さ7300メートルの高さで圧力隔壁の破断が起きると、急激な気圧の変化が起こり、乗客全員が外へ吹っ飛ばされるし、機体そのものも空中分解するはず。
 実際に2002年、台湾の中正国際航空から香港・国際航空へ向かうチャイナエアライン611便が圧力隔壁の破断事故を起こした。この時の機体は、空中で4つに分解して海上へ墜落。乗員乗客225名全員死亡した。

・関係者全員不起訴の謎
 これは事実に振り分ける話かも知れないが、本件の関係者が全員不起訴となっている。事故がボーイング社の半端な修理によるものであれば、間違いなく重大な刑事事件だ。実際、群馬県警は1988年12月にボーイング社4名、日本航空12名、運輸省4名の合計20名を業務上過失致死傷害容疑で書類送検した。しかし翌年、全員が「嫌疑不十分」として不起訴処分となった。
 ちなみに当時の修理担当者の特定はとうとうできないままだった。

○ 憶測

 本では、最終的に「自衛隊が証拠隠滅をはかった」という前提でお話しが進んでいるが、これは完全なる「憶測」の部分である。証拠はない。
 とりあえず、本に書かれていることを写そう。

 まず第4エンジンが不自然に粉々になり、広範囲に散らばっていた。通常、墜落しただけではバラバラになってあたり一面に散らばることはない。この正体は、日航機の中の人が撮影した、ミサイルによるものではないか?
 次に引っかかるのは、事件現場の遺体が木炭のようにカリカリになっていたこと。事件現場にはガソリンとタールをまぜた強烈な匂いがただよっていたという。
 航空機の燃料にはケロシンといって灯油に近いものが使われる。これに引火して死体を燃やしたとしても、炭化するほど燃え上がることはない。当時、検死を担当した医師は、「まるで二度焼きしたようだ」と語っている。

 ただし、これらの憶測には「証拠」がない
 これらに対する反論として、もしも火炎放射器で死体を焼き払って証拠隠滅をはかったとした場合、大量のガソリンを山の上まで運ばないといけない。それを輸送するためには大型ヘリを飛ばさねばならない。事件当夜、周辺の村が空を見張っていたし、ラジオの実況中継もやっていた。その間、誰にも気付かれずに現場まで大型ヘリで向かい、証拠隠滅を図った……というのは相当に無理がある。
 ゆえに証拠隠滅説は荒唐無稽。この場合、もしも証拠隠滅という「疑惑」をかける側は、「いつ」「どうやって」「どの部隊が」証拠隠滅したのか……これを証拠を持って立証せねばならない。森永卓郎さんの本の中ではそこまでは追求していない。


 本の中では、事実・曖昧なところ・憶測が入り交じった状態で書かれている。ここではそれを分解して再構築した。
 間違いなく事実である部分は、日航123便が墜落したこと、その後米軍が救助しようとしたこと、ラジオ局が現場近くで実況中継したこと、実際の救助が事件から12時間後やっと始まったこと。これは間違いない。
 それ以降のことは「確定」とするにはまだ怪しい、まだ証拠が充分ではないので曖昧/憶測とした。
 最後の「自衛隊が証拠隠滅を図ったのではないか」とする部分は、証拠が一切ない部分である。当時の曖昧な証言をより合わせて「こうじゃないか」と語った部分である。この真偽は今も判別不能である。

 日航123便墜落事故については、青山透子さんが『日航123便 墜落の新事実』という本の中でさらに詳しく書かれている。青山透子さんは客室乗務員で、日航123便には直接の知り合いが多く搭乗していた。事件後、青山透子さんは人生をかけて、この事故がなんだったのかを調査し続けている。
 現職に近い人物が公開されている一次資料を可能かぎり集めて、自分でも繰り返し取材に行き、検証したものとなっている。世の中的には「陰謀論」と一蹴する人も多いが、厳密な調査のすえに作られたものだ。ぜひとも手に取ってほしい。

 さて、本題はここからである。この日航機の墜落事故の後、日本経済は失墜した。この二つの事件・事象にはなにか関連があるのではないか……という“憶測”である。

日本経済失墜の真相


 1980年代、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれていた。戦後の焼け野原から駆け足で高度経済成長期を上り詰め、世界でももっとも繁栄した国になっていた。当時は東京の山手線の内側の資産だけで、アメリカ全土が買える……とまで言われていた。
 1975年11月、フランスのランブイエで開催された第1回主要国首脳会議で、日本はアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアとともにG6の一員として参加し、日本は名実ともに世界のトップ6の仲間入りも果たしていた。
 日本はアメリカの隷属状態から完全に主権を取り戻していた……。当時の日本人の実感としてそう思っていた。

 ところが1985年、日本航空123便墜落事件が起きる。

 その41日後。1985年9月22日。先進五カ国の大蔵大臣、中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集結した。ここで日本が円高調整することが決定される。世に言う「プラザ合意」である。

 当時、1ドル=245円だった対ドル為替レートは、1987年末には1ドル=120円台となった。急激な超円高だ。
 2年で2倍の円高である。これは、日本の輸出製品に100%の関税がかけられると同じ効果を持つ。日本から輸出した商品の現地価格が2倍になるという意味である。
 確かに円高は国民一人一人にとっては恩恵がある。安いお金で海外旅行へ行けるし、海外の商品も安く手に入る。
 それは個人の話であって、経済全体で見ると大きな痛手となる。1965年、日本の輸出総額は42兆円だったが、86年には35兆円、87年には33兆円と急激に減っていった。そのなかでも強力な国際競争力を誇っていた自動車は、1985年に673万台を売り上げていたのに、2022年には381万台と半減してしまっている。これが円高がもたらす問題である。
 半導体事業も当時、あり得ない失策が起きる。1980年代、世界の半導体産業のシェア50%まで日本が独占していた。半導体売り上げランキングを見ても、世界1位がNEC、2位が日立製作所、3位が東芝。この分野でも日本が最強だった。
 ところが1986年9月、「日米半導体協定」が締結される。この協定の内容は2つ。1つは日本の半導体の海外メーカーへの市場開放。もう一つは日本の半導体メーカーによるダンピング防止。ダンピング防止といっていたが、実態としては「半導体の価格はアメリカが決める」という意味だった。
 日米半導体協定には表向きの協定とは別に「サイドレター(秘密書簡)」があった。それは日本市場で外国製品のシェアを5%から20%以上にする、という合意だった。これはGATT(関税及び貿易に関する一般協定)という国際法を無視する“強要”であった。だからサイドレターという形を取ったのだ。
 この協定により、日本の半導体産業は徐々に失速し、現在、最先端2ナノの半導体を制作する技術を日本が持てないようにすらなってしまった。

 この二つの協定により、日本経済は急激な景気後退に突入していく。日本政府と日銀は景気悪化を食い止めるために、財政出動と金融緩和を重ねる大規模経済対策を打った。
 さらに日銀は、それぞれの銀行ごとに貸出の伸び率の上限を指示する「窓口指導」というものをやっていた。表向きには1980年廃止となっていたが、現場にいる人たちはみんなやっていたことを知っていた。表向きは廃止されていたものなので統計データはないが、森永卓郎さんが知人に聞いた話であると少なくとも、1割増程度の枠を各銀行に与えられていたそうだ。
 銀行は日銀から与えられた貸出枠を必ず消化しなければならない。そうしないと翌年の貸出枠を減らされるからだ。これで銀行はとことん融資を拡大させまくった。
 これが世にいう「バブル」を形成する原因となる。

 この当時、実は経済的に不況状態だった。件の協定により、日本の海外貿易が立ちゆかなくなっていた。しかし市中にはお金があふれる……という矛盾状態となる。経済がわかる人が見ると「ヤバいぞ」というのはわかっていたが、世の中のごく普通の人たちは裏の仕組みを理解できず、目の前に差し出された潤沢なお金を見て、踊り狂っていた。誰も”ヤバい状態”だと知らずに、踊っていたのだった。みんな「幻の好景気」を見ていたのだった。

 1989年の日経平均株価は3万8915円。市場最高値だった。これが1990年に2万3848円、1991年2万2983円、1992年1万6924円。まさに直滑降の下落だった。
 本来ならバブル崩壊を軟着陸させるために、財政金融政策で緩和しなければならない。ところが1990年大蔵省は「総量規制」を導入する。バブル崩壊3ヶ月後の話である。これによって大都市商業地の地価は「逆バブル」という勢いで下落した。

 1980年頃、日本には「外資系企業」がほとんどない国だった。当時は日本コカコーラと日本IBMくらいなものだった。それは「株式の持ち合い」と「不動産担保金融」があったからだ。
 株式の持ち合いは、取引関係にある企業間でお互いに株式を持ち合う仕組みだ。この仕組みがあると、企業を乗っ取ろうと思っても、持ち合いしているグループ企業が株式を手放さないから乗っ取られる心配はない。
 「不動産担保金融」というのは、銀行が融資する際に、融資先企業が持つ不動産を担保として取る仕組みだ。この仕組みのおかげで銀行はきわめて低いリスクで融資するこができ、仮に返済ができなくても不動産を処分すれば資金を回収することができる。実は当時の日本にしかできない仕組みだった。
 この株式持ち合いと、不動産担保金融の2つを崩壊させる方法がある。
①不動産バブルを起こし、
②バブル崩壊後の谷を思い切り深くし、
③不良債権処理を断行する。

 以上の3つだ。
 プラザ合意から、バブル経済とその後の崩壊まで、すべて「日本の強み」を意図的に破壊したようにしか思えないようなできごとだった。

 1989年、日米構造協議が開催されていたとき、実は森永卓郎さんはシンクタンクの下っ端として働いていた。交渉の時に政治家や官僚が使う資料を、作っていた。森永卓郎さんいわく「使い走り小僧」だった。
 日本に小僧がいるのと同じように、アメリカにも小僧がいた。毎日仕事で会うから、自然、仲良くなることもあった。その時、アメリカの小僧がこう尋ねた。
「交渉のはずなのに、なぜ日本は全部アメリカのいいなりになんでもかんでも受け入れるんだ?」
 森永卓郎さんは答えられなかった。
 下っ端の目線で見ても、日本は「経済的自殺」としか言えないようなことをしている最中だった。下っ端が見ても「おかしい」といえることを、なぜ政治のトップが喜んで引き受けているのか。どう考えても理解できなかった。

 後に森永卓郎さんはこの謎を解く鍵を、「日本航空123便墜落事件」にあると気付いた。
 日航123便はアメリカのボーイング社製の飛行機だ。ブラックボックスは当然回収され、調査されたはずだから、ボーイング社は「真相」を知っているはずだ。
 それが日本政府にとっての“弱み”となった。なぜなら日航123便は自衛隊機の誤射によって墜落したのだから。この弱みを握られたために、日本政府はアメリカから“脅迫”を受けることになる。その脅迫に従って、日本は経済的自殺を実行した。
 当時、アメリカにとって強力すぎる日本の経済力は目障りだった。いや、欧米にとっての厄介者だった。日本製品は品質が良すぎる。みんな日本製品ばかりほしがる。すると日本ばかりが潤って、欧米産業はどんどん日本に買われる。このままだと、日本に支配を受けるようになるぞ……。
 どうにかして日本を陥れたい……欧米がそう思っていた。そこに日航機123便墜落事故が起きる。これが切っ掛けとなって、欧米による「経済的リンチ」が始まった。そしてそれは、今も続いている最中である。


 というのが森永卓郎さんが本書の中で披露した「仮説」である。しかしすべて「憶測」に過ぎない。そもそも日航機墜落事件とプラザ合意が本当に関連があるのかどうか、よくわからない。一見すると関係ない事案のような気もする。それに、証拠もない。
 ただ、日航機墜落事故以後の日本政府の動きは明らかに不自然だ。明らかに日本側にとって不利な条約を、きちんと交渉せず言われるままに承認している。下っ端の目線から見ても、「そんなことをしたら経済が崩壊する」ということを、自ら進んでやった。頭のいいはずのエリートがわからないはずがない。
 これはなぜなのか……その理由として森永卓郎さんが考えたのは、「日航機墜落事故によりアメリカ政府から脅迫を受けた説」である。真実は現在も不明である。

 ただ、一つだけ、事実を明快にできる方法がある。日航123便のブラックボックスを公開することである。
 日航123便のブラックボックスは現在も遺族が繰り返し裁判所に公開を訴えているが、すべて棄却されている。判決理由なし。理由はないが、とにかく公開はできない……というのが裁判所の決定である。
 真実は闇の中。
 日本の経済は、1990年代バブル崩壊以後、2020年代の今でも崩壊から立ち直らないままである。その原因は、明らかにいって財務省が意図的に、景気がよくならないよう抑え続けているからだ。もしも財務省がそのようにするそもそもの原因が、日航123便とにあるとしたら、それは公開するべきだ。もしも違うというなら、疑いを晴らすためにもやはり公開すべきだ。
 もしも日航123便のブラックボックスが公開され、アメリカ政府による“脅迫”が証明されたなら――その時、日本経済の復活が始まるだろう。


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