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映画『ひゃくえむ。』|たった10秒に全てを賭ける友情なき青春|結末の先へ心が走る

その一瞬のために、毎日走る。
限界まで走る。
気持ちが悪くなっても走る。
吐いても走る。
0.01秒でも速く走るために走る。
走っても走っても、0.01秒も速くなれない。むしろ何故か遅くなっている時だってある。
なんだよ、これ、と思う。この練習意味あるのよ、と思う。もうやめようか、と何度も思う。
それでも、走る。


それでも、走った。
昔、陸上部だった頃、私も毎日走っていた。
そんな日々を久しぶりに思い出したアニメーション映画『ひゃくえむ。』。


『チ。―地球の運動について―』で手塚治虫文化賞マンガ大賞最年少受賞した魚豊の連載デビュー作の映画化であり、日本アカデミー賞で優秀アニメーション作品賞を受賞した作品です。



最初にタイトルを知った時、「ひゃくえむってなんだ?」となった映画『ひゃくえむ。』のあらすじはこちら。

生まれつき足が速く、「友達」も「居場所」も手に入れてきたトガシと、辛い現実を忘れるため、ただがむしゃらに走っていた転校生の小宮。トガシは、そんな小宮に速く走る方法を教え、放課後2 人で練習を重ねる。打ち込むものを見つけ、貪欲に記録を追うようになる小宮。次第に2人は100m走を通して、ライバルとも親友ともいえる関係になっていった。数年後、天才スプリンターとして名を馳せるも、勝ち続けなければいけない恐怖に怯えるトガシの前にトップスプリンターの一人となった小宮が現れる――。

Ⓒ魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会



※この先は内容にも一部触れますので、まだ映画も原作もご覧になっていない方は、是非見てからもどってきてください!



「100メートルを誰よりも速く走れば、すべて解決する」

これは小学生のトガシが小宮に言った言葉です。
そんなわけねーだろ、なに冗談言ってんだ!と笑ってツッコミそうになりましたが、小学生のトガシが真剣な顔をしていたので、「あ、本気だな」となりました。


トガシは生まれつき足が速かった。
走るのが好きなわけではなかったけれど、全国1位になるほどの才能があった。
足が速いおかげで注目され、認められ、友達からも一目置かれていた。
トガシにとって「足が速い」というのは、自分の存在意義になっていたのだと思います。


ひゃくえむ。
100m。
最後に100mを全力で走ったのはいつだったのか、もう思い出せません。


ちなみに、私の100m自己ベストは14秒ジャストくらいでした。
特段速くもなんともありません。県大会になんてもちろん進んだことはないですし、市大会でも何位だかわかりません。
13秒台を出したくて、13.9秒でもいいから出したくて、でもそのあとちょっとが最後まで出ませんでした。
仮に13秒台が出たとしても大会で100mに出場するのは私より速い子だったはずだし、部内で3番目の私が出るのは200mだったし(2番目に速い子がハードルの選手だったので)、13秒台を出せたところで何があるわけでもなかったのに、それでもどうしても13秒台を出したかった頃が懐かしい。


そんな、そこらへんにいるただの平々凡々な陸上部だった私から見たら別世界にいるのが、トガシと小宮です。
小宮は同じ世界にいると思っていたのに、気づいたら堂々とトップの世界にいました。すげぇな、小宮。


この物語が新鮮なのは、メインの2人の間に友情が存在していないところです。
トガシが足の遅い小宮に走り方を教えている時は、ここから2人の友情が始まるんだ!ここから2人は切磋琢磨して、2人で短距離の頂点を競っていくんだ!と思いました。
が、小宮はあっという間に転校。
……え、2人の友情物語は?


トガシと小宮はそれぞれの場所で苦悩しながらも走ることへと向き合い、その後も走り続け、ついにインターハイの決勝で2人は再会します。
小学生振りの再会!胸熱!!!
かと思いきや、2人の間に熱い友情はないので、再会もなんともあっさりした雰囲気。
そもそも、トガシと小宮は性格も、走ることに対してのスタンスも違うので、普通だったら絶対交わらなさそうな2人なんですよ。


逆に、そこにグッときます。
全く別の場所で生きてきた2人が、
性格も考え方も全く違う2人が、
熱い友情で結ばれているわけではない2人が、
100mを極めて、
100mの頂点を競う時にだけ再会する。
その瞬間だけ、人生が交わる。


100mに全てを賭ける。
0.01秒を縮めるために、全てを賭ける。
それは時に残酷で、時に狂気のようにも見える。
それでも確かに、他の可能性を全て潰してそれに全てを賭ける姿は、私たちの心を震わせる。


ということで、『ひゃくえむ。』めちゃくちゃ面白かったです!
「走ること」を突き詰めた物語が新鮮でした。
面白かった。面白かったよ。
だから余計に思うんです。





なんで最後アレなんだよーーーー涙!!!!!


出たよ、結末見せてくれないやつ!!!
何となく嫌な予感はしたんだよ。
2人がスタートする前、一緒に見てた夫に「どっちが勝つと思う?」って聞きながらふいに嫌な予感がして「どっちが勝ったかわからなかったりして……」って言ったよ。
でも、そん時はまだ笑ってた。どっちが勝つかちゃんと見せてくれると思ってた。
そしたらアレでした……涙!!!



『サンクチュアリ-聖域-』からの、

『九条の大罪』からの、


『君の顔では泣けない』からの、

『ひゃくえむ。』。



すいません、そのラストを視聴者に委ねるのそろそろやめません?
私は最近この終わり方トラウマです。
『九条の大罪』くらいとっ散らかってると諦めもつくんですけど、『サンクチュアリ-聖域-』と『君の顔では泣けない』のラストは結構、え?ってなりました。
え?ここで終わりなの?そこを見たくてここまで見てたんだぞ!!!
っていう。気になるところが一点集中のやつは、ちゃんとそれを描いてくれ!!!



……いや、私もわかるんです。
結末を視聴者に委ねることで生まれる余韻や情緒もわかります。彼らの物語は続いてるわけですし、作品として「結末」を作らなくてもいいかもしれません。きっと、どちらが勝ったか、ということは『ひゃくえむ。』の中で大事なことじゃないんですよね。


それでも!それでも私はちゃんと結末を作って欲しい!!!
たとえばその結末が批判を生もうがなんだろうが、作品を作るのであれば、どんなに苦しくてもその作品の「結末」を作って欲しいんだよ!批判も全部受け止める覚悟を持って作ってくれよ!
オリジナルだろうが、原作あるやつだろうが、関係ない。映画やドラマにしたら、それを作ってる人間が責任持ってその作品の結末を作ってほしいんだよ!私なんかに委ねないでくれよ、私が想像できる以上のものを提示してくれよ!


そう、『ひゃくえむ。』は、トガシと小宮のどっちが勝ったかわからないラストでした。
トガシも小宮もそれぞれに努力を重ねて、それぞれが走ることに向き合ってきた。
どちらかを勝たせて、勝たせた方が正解みたいになるのもよくないとは思う。
トガシは調子がよさそうだけど、自分の怪我を顧みずにここで優勝っていうのも確かに出来すぎてる気はするし、だけどやっぱりトガシには勝って欲しいし、でも小宮のことも否定したくないし、小宮も何か吹っ切れたみたいだし、でもトガシに最後に勝って欲しいし、でも最後なんて思いたくないし、でも小宮の驚異的な走りも見たいし……とはなる。確かになる。


でも、それでも映画なりの結末を見せてほしかった。
何だっていいんだよ、映画を作った人たちなりの「答え」が見たかったんだよ。
どっちが勝ったか描いたら原作ファンの方は文句言うと思うし、原作知らない人でも、どっちが勝っても、必ず文句言う奴はいるよ。
結末を描かないことで、あえて視聴者にその先を想像させたいってことかもしれない。


でも頼む!「結末」描いてくれ!!!!



トガシと小宮のどちかが勝ったのかわからないいまま終わったから、見た人はきっとみんなその先を想像したと思います。
私は、勝ったのはトガシで(スポーツは本当に「調子がいい」時がある)、でも足の怪我は悪化して、もしかしたら契約を切られるかもしれないけど、それでも走ることを諦めないトガシを想像した。小宮はあと一歩のところでトガシに負けるけど、清々しい気持ちでトガシを祝福して、けれど更に負けたくない気持ちに拍車がかかって、その後日本記録を樹立する小宮を想像した。


自由に想像した。
でもきっと、映画の「結末」を描いてくれても、私たちは更にその先を想像したと思う。
2人がその後も100mを走っていられる未来を、また競える未来を、2人が辛い中でも楽しんで走ってる姿を想像したと思う。


もちろん、この「どっちが勝ったかわからない」結末が好きな方もいらっしゃるとは思うんですけど、今年に入ってから「結末」が描かれない作品に出会う確率が高くて、ラスト付近になるとハラハラしてしまう。情緒不安定。
頼むから、「結末」を私なんかに委ねないで、ちゃんてくれ!!!と思ってしまう。



でも、あの結末だから残る、
というのも確かにわかる……


ただひたすらに「走ること」への情熱を描いた『ひゃくえむ。』。
「自分はなぜ走るのか」と問い続けるトガシと小宮の、結末の先を想像したくなる映画でした。


おしまい。

同じ陸上部にすごいモテるあの男子がいたことを久しぶりに思い出して、「うわ、久しぶりに思い出したわ、……くん」と懐かしもうとしたんですけど、もう名前が出てきませんてました。
名前も思い出せないけど、……くん、我々も歳をとったね。


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