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語学のプロセスと結果のうまみ

ものごとにはプロセスと結果があります。そして、プロセスからも結果からも「うまみ」を得ることができます。たとえば「入浴」という行為には、身体を清潔にできるという結果と、湯船でリラックスできるというプロセスのふたつからうまみを得られますし、それは誰もが納得できるはずです。

ただ、こと語学学習の文脈になると、やれ効率だの、最短最速だのといった話ばかりになってしまい、とにかく結果ばかりでプロセスのうまみがお留守になってしまうのですよね。僕がよく言っている、「試行錯誤」などはプロセスから得られるうまみの典型なのですが、それを意地でもしたくない、結果だけが欲しい、と考える人が世の中ほんとうにたくさんいます。今回は、語学学習のプロセスから得られるうまみについて、もっと気にかけてあげた方がいいだろうし、そっちのほうが面白い、という話をします。

「苦痛が美徳」とかではない

まず僕が触れておきたいことに、苦行を絶対善とするような考えを推しているわけではない、ということがあります。このことについては前回の記事でも触れたのですが、語学学習の過程がしんどいことが美しい、と言いたいわけではありません。

我慢は美徳、とかではなく、もっとシンプルな話です。道中が楽しいのだからそこを楽しもうよ、というただそれだけの話であり、そしてもっと大事なこととして、そのプロセスの楽しさは開始してからすぐに味わうことができます。

一定の閾値を超えたときにはじめて「うまみ」が出始める、みたいに考える学習者もいそうですがそんなことはなく、極論すると、今日から誰でも「うまみ」は出せます。というのも、新しいことを見たり知ったりして面白がるというのは、今すぐにでも、どこでもできるからです。それは子供でも大人でもできますし、縛りは一切ありません。

機能と情緒

では、プロセスから得られるうまみとはなんなのか、という話になりますが、それは「情緒」であるはずです。ものごとには、「機能的に役に立つ」という側面と、「情緒的な意味がある」という側面がありますが、プロセスから得られるうまみはそのふたつのうちの情緒側になります。

このことはなんとなくわかるはずです。プロセスではなく成果で得られるものから先に触れますが、成果で得られるのは機能のことであり、「成果が出れば機能が得られるし、でなければ機能はなにも得られない」と言えます。機能的便益を獲得できるかどうかは一種の「賭け」のようなもので、機能を獲得できる、つまり、「それがものになるか」は人為的にコントロールできません。英語を学習したが全然ものにならなかった、という人は世の中ごまんといそうですが、それは、機能をなにも得られなかったことに対応します。

一方で、「情緒や意味」の場合にはそのような、運や賭けといった要素はありません。意味というのは、「その人がその人の主観でどう感じるか」に話が還元されますから、その人の周りの様子や景色がどうなっているか、というのはどうでもいい話になります。「私はこれに意味を感じています」と本人の心の中から言えるのであればそれは「情緒的な意味がある」わけで、これは機能とは区別されます。

世の子供がなにに興味関心を示し、何にテンションを上げるかをながめればすぐにわかることです。子供がすることというのはほとんどの場合で、「それが役に立つから」ではなく、「それが面白いから」やっているわけです。そこに機能だの成果だのの話はなく、「面白さを主観で感じている」という話がすべてになります。

僕がいつも、「語学学習では、本人がそれを面白いと思えるかどうかが死活的に重要になる」と言っている理由にもつながります。面白いと思えるかどうかというのはつまり、「プロセスから情緒的意味を感じてうまみを得られるか」という話であり、それがないと、「語学学習で一発逆転」みたいな投機の対象として語学学習が捉えられることになってしまいます。

事実、語学学習はコンプレックスビジネスと揶揄されることはあります。それは、外国語を堪能にできるという「機能」の獲得をしたい人、能力や機能を持っていないという劣位の感情を持っている人の心理をツンツンする人達がしかけるビジネスのことであり、彼らのメッセージは、語学学習に情緒や意味を感じていない人、語学の能力を優れた競争資本として解釈したい人達には、すごく刺さります。

語学学習不要論は「機能」の話しかしていない

AIがあーだこーだの議論でよくある、「英語学習不要論」の話でも似たようなことが言えます。

成果がすべてで、プロセスそのものの情緒的価値がことごとく軽視されたり無視されたりするという世の風潮は、「英語学習不要論」からもひしひしと感じることが可能で、というのも、英語学習不要論の話が能力や機能の話にしか触れないことを暗黙の前提にしているからです。

また、語学の能力だけに着目するのであれば、べつに、AIの台頭を待たなくてもよいはずです。機械翻訳があまり浸透していなかった2010年代くらいの景色を思い出してほしいのですが、そのときに、「英語が読めなくてすごい困った」みたいな場面はあなたにありましたか。

たぶん、「別にそんなことはなかった」と振り返る人の方が多いはずなんですよね。つまり、「その能力・機能が手元になくても別に問題なかったし、それでうまくやってきた」人の方が圧倒的多数であるということです。不要論もへったくれもないわけで、もともと使っていなかったものにたいして、「それは不要になる」と必死に叫ぶのは、明らかに噛み合っていません。

これは、能力を持っていない人に能力をリクエストした場合に何が起きるのか、というより一般的な話に広げることで理解が容易になります。「バク天や逆立ちをしてください」とリクエストされたさいに我々がすることは、慌ててバク天や逆立ちの練習をし始めることではなく、「できません」と伝えてリクエストを拒否すること、あるいは、「あの人がバク天や逆立ちをできるので、その人にリクエストするといいかもしれませんよ」とナッジすることです。機能のリクエストは、じっさいにそれができる人に集まるわけで、「それをできない人」が気に病んだり憂いたりする必要は、ないわけです。「機能を持っている人がそれに対応してくれるからそれでいい」と一言でまとめることができる気はしませんか。

意味の強奪

ここまでで触れたことは、「意味や情緒を検討外にすること」がなぜか、あたりまえの暗示的前提としてまかり通っている、という世の景色についてです。英語学習不要論とかそのようなよくある話はなぜかわかりませんが、情緒や意味として回収できる価値を、「なかったこと」にしています。

そして、これが大事な話になるのですが、我々は、意味を極端なまでに奪われると不安や欠乏の感覚を覚えます。たとえば、人類がこの世に反映している意味なんてものは実際にはなく、それはたんなる結果ですよね。人類が滅亡した場合、地球の生態系にはむしろプラスの影響があるはずですし、極論すると、人類が滅亡したほうが地球にとっては「便利」であるはずです。

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