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語学学習のハードルを上げない

先日、noterのchiさんがまたまた面白い記事を投稿されていました:

Chiさんの▲の記事の要旨をかいつまんで説明すると、「みんな勝手にやればよくない?」になります。僕も全面的に同意です。今回は、「語学学習のハードルを上げて苦しむことをすること」はなんの役にも立たないし意味ないから、やめた方がいいのでは、という話をChiさんの記事のように説明してみます。

好きにやればいい

使ったことがないSNSを始めるとか、近所に散歩に出かけるとかする時に、「挫折したらどうしよう><」なんて考えないですよね。それと同じ感覚、心持ちで語学学習をすればいいだけの話なんですよ。ただなぜか、「語学学習では一定水準以上、たとえばTOEIC900点以上にならないと『英語ができるようになった』とは言わせないぞ!」みたいな謎の空気感があるため、英語学習をするという誰でも、今すぐにでも始めることができるカジュアルな活動に、異様な高さの敷居を感じてしまう人たちがたくさんいます。

学習って、何か新しいことを知ったり感じたりすることじゃないですか。「近所の散歩」をまた例に出して説明しますが、近所の散歩でも新しいことをいろいろ学べますよね。こんなところに町中華があったんだとか、こんなところに紫陽花が咲いているんだなとか、「ちいさな発見」をだれもがもうしているはずです。それは学習ですよね。散歩とは近所を散策することですが、語学学習も散策に似ています。

じっさいの語学の例にからめて説明することも可能です。その辺に転がっている看板や標識をチラ見して、「ああ、そんな感じね」とひと思考して合点するこの一連の流れ、それって語学学習をしたことになりませんか。それとも、「そんなんじゃまだまだダメだ!ほんの序の口!」と自分に渇を入れて、喜んだことを戒めるようなムーブをしますか。以下の写真のように、その辺に転がっている看板から何かを察することは誰でもできますし、そこで謎にストイックになるのは変であるはずです:

止まれ(หยุด)と書いてある。タイ語がわからなくても、標識のデザインや置いてある場所から、「止まるとかstopとか、そういう意味なんだろうな」ということは察することができる

なにか閾値のようなものがあって、そこに達しない学習を学習の成果として認めない、ストイックな人たちが世の中に一定数いるのですが、それはなんのプラスにもなりません。ゲーム理論の言葉に絶対優位の戦略(やらない理由がないのだから、とりあえずやったほうがいい戦略)というのがありますが、「その辺に転がっている素材を使っててきとうに、勝手に語学学習をエンジョイする」というのは絶対優位の戦略になるはずです(もちろん、語学学習をするならという前提はありますが)。

語学学習というのはホワイトカラーの仕事や、ステークホルダーが複数絡むプロジェクトのように、「自分以外の誰かの期待にこたえること」がぜったいに発生しません。当然それはとてもうれしいことであり、すべてを自分で定めて勝手にすすめることができます。「勝手に」という点は、Chiさんが記事で説明していることでもあります。

困る人たち

すでに説明したように、英語学習界隈ではオラオラ体育会系のノリが跋扈しているわけですが、それに対して僕は、「まあ、その人たちが何がしたいのかはなんとなくわかる」という感情も持っています。その何がしたいかというのは、自分らが持っているものがいかに価値あるものかを、他の人に認めさせたいという心理です。

イケア効果とか、コントラフリーローディング効果とか言ったりしますが、自分が労力をかけて手に入れたものに対して、人は価値を感じてしまうようにできています。思い出の詰まった住居を売りに出すさいに、その「思い出」の補正がかかってしまうために売値を市場の相場よりも高くしてしまうなどは、その一例です。

英語学習のキラキラサクセスストーリーを語る人はネットにいますが、それも、「自分らがいかにすごいものを持っているか」を誇示する心理のあらわれであるはずです。ネットで知り合っただけの赤の他人のサクセスストーリーなんて、通りすがりの人からしてみれば心底どうでもいいわけですが、当の本人からしてみれば、それが「価値の源泉」になってしまっているため、それを語らずにはいられない状態になっています。

過去に僕は、TOEICは意味ないという言説に敏感になってしまう人の心理についても触れましたが、それも同じです。TOEICをやるかどうかという世間の人たちがやたら気にしがちなネタについても、今回の話の筋とまったく同じで、「個人がかってに決めてやればいい」なのですが、TOEICのスコアに人生レベルの価値を感じてしまう人、それを赤の他人に認めさせようとしてくる人はやはりいます。そして、「努力の賜物」とか、「頑張った証」のように、それを手に入れた過程や努力にやはりフォーカスが入ります。

僕はタイ語ができますが、それになにか人生の意義レベルの価値を感じていることはありません。タイ語がとても楽しくてハッピー、とは間違いなく感じていますが、タイ語学習に人生の意味や意義を深く感じるようなことはしていません。「好きにやればいい」と冒頭で言ったわけですが、僕はタイ語を好きなようにやっています。

かんたんに手に入るものを認める勇気

頑張って、苦労して、時間や手間暇をかけて手に入れたものに価値がある、としてしまうと、その裏側、つまり、「手間をかけずに手元にやってきたもの」の価値を認めることができなくなってしまいます。道路標識や看板でチラ見して得た学習は「手間なくこちらにやってきた学習」なわけですが、そのような体験を「ラクして手に入れただけの俗物」としてしまうのはやはり危険じゃないですか。宝くじで3億円当たった人は労せずに3億円と手に入れたわけですが、その3億円に価値がないと断じてしまうのと同じくらいおかしな話で、「自分らが苦労して手に入れたものにしか意義を認めない」というのはやはり変です。

ありていに言ってしまうと、英語学習、語学学習のハードルをハチャメチャに高くしないと、立場上困る人たちがいるということなんですよね。自分らが努力して得たものにこそ価値があるから、努力せずに得た価値などは認めてやらない、労力をかけずして獲得した英語力などは真の英語力ではない、となってしまうわけです。これが、「英語を舐めるな」という言葉に着地してしまうからくりだと思います。

さいごに

似たようなことの繰り返しになるのですが、「小さな発見」を学習として意地でも認めようとしない態度が何か役に立つと思いますか。絶対優位の戦略の話はすでにしましたが、「知ったことを知ったと認めない」というのは、絶対劣位の戦略です。英語学習のハードルをやたら上げてしまうという絶対劣位の戦略がしょうもないことは、ここまでの話から理解していただけるはずです。

今回の記事のような、語学学習界隈の「ちょっと変なところ」を解説する記事は「語学学習界隈のヘンなところ」のマガジンにまとめています。肩の力を抜いて気楽に楽しめる内容であるはずです:


▼この記事を書いた人▼

そっちゃそ
フリーランス英日翻訳者。本業で培った知識や経験をもとに、発音指導をはじめとした語学指導もやっています。noteは、僕の思想や考えをひろく公開するために使用しています。僕の思想や考え方については、考察と思想哲学のマガジンにまとめているのでこちらをぜひご覧ください。詳しいプロフィールはこちらから。

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主な著作:「自分の意見を言うことは『役に立つ』」、「外国語を学習すると決めたときに読む本」、「英語発音学習の第一歩」。既刊一覧はこちらから

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さいごに

発音学習の底力」を体験してみませんか。英語力は、発音学習だけでも伸ばせます。学習に新しい風を入れたい方、ネットでこれ以上学習法をあさるのはしんどいと感じる方は、ぜひ以下のページをのぞいていってみてください:

語学学習を総合的にトータルサポートしてほしい、痒い所に手が届くサポートがほしいという方には、「そっちゃそ英語コーチング」がオススメです:

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