生成AIの文章はかんたんにバレる
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生成 AI で文章生成→手直し、という執筆のやり方が流行っている(?)みたいで、note の記事を見て回っている際にも、「たぶん生成 AI だな」という記事を散見します。この記事では、AI を噛ませた文章はかんたんにバレること、そして、バレることの影響はけっこう大きいことを説明します。
生成 AI の文章はかんたんに見分けられる
生成 AI チックな文章はかんたんにわかります。まず、これは生成 AI のクセみたいなものだと思いますが、生成 AI で作った文章は見出しや箇条書きがやたら多いです。たとえば、「リスニング力を上げる方法に関するブログ記事を書いて」というプロンプトを入れた場合に、「リスニング力を上げる方法はいくつかあり、以下のようになります。1 つ目は…」を吐き出す、といった感じです。
そして、一般論が多く、断定的ではないことがほとんどです。リスニング力を上げる話の例でまた説明しますが、生成 AI で出した文章の場合、巷でよいとされるリスニング力を上げる方法のすべてを羅列してから、「一概には言えませんが~」のような逃げの一句を読んでシメることが多いです。
また、**のようなアスタリスクがならんだ記号がちりばめられたnote記事を見たことがある人もいると思いますが。これは生成AIがよく吐き出す、太字にするためのマークダウンの記号です。これをそのまま残すことをしている記事がnoteにちらほらあるのですが、それは、「私は生成AIで書きましたよ」と白状しているようなものであり、これも当然、「バレバレ」になります。
対して、人間がよく考えて書いた文章の場合、「その記事で最も言いたいこと(メッセージ)を主張するために、さまざまな角度から説得していく」というアプローチになります。人間は、一般論を並べてきれいごとを並べても人を説得できないことをよくわかっているので、具体例などの説得材料を豊富に添えて、ネットの向こう側にいる初めましての読者でもメッセージが伝わるように工夫しようとします。
生成AIは見出しや箇条書きがやたら好きであると言いましたが、それとは対照的に、人間の場合、「地の文」だけでなにかしらのメッセージを、連続的、連鎖的につないでいくことを得意とします。よく考えてかかれた文章の場合、見出しがすくなく地の文が多くのウエイトを占める場合でも、ストレスなくそのメッセージを味わうことができます。
バレるとしらける
そして、最も大事というか、重要な点は、生成 AI で書いた文章だとバレると、読み手は「しらける」ということです。ご自身で考えてみるとわかると思うのですが、「あ、これ生成 AI だ」と感じた後に、何千字の長ったらしい文章をせっせと読む気になりますか。
僕が関わっている翻訳業界でも機械翻訳(MT)を噛ませる翻訳プロセスがメジャーになりつつありますが、MT を噛ませたな、という文章は簡単にわかります。そして、MT を噛ませた文章は、あっている間違っているの水準であればあっているのですが、読みたいか読みたくないかの水準でいうと、つまらないので読みたいと思えません。
マーケティング関連のコンテンツで MT が浸透していないのもたぶんそのためで、マーケティングの場合、「読みたいと思わせること」がもっとも重要であり、「あっているがつまらない」文章を吐き出す AI の文章とは相性がきわめて悪いからです。
noteもそうですが、よその人の文章を読む人は、「その人の考えを読みたい」という意図のもとで読みに行くわけです。正解や客観的事実を求めて、なにかの調査活動のように文章を読みに来るわけではない、人の考えに触れたい、なにかヒントのようなものが欲しいから来る、というのが、多くの人の心理であるはずです。
AI文章でしらけてしまう根本的な要因は、「~だと思います」とか、「~すべきです」みたいな人間の意見感想の皮をかぶっただけの、実態のないゴミが四方八方から出てくることだと思います。機械が意見を持つことはないと断言できますから、意見の皮をかぶっただけのAI文章というのは、無条件でゴミです。
また、これはAIでかいただけの文章がネットに放流される前の時代にもあったことですが、「まとめ」、「メリット・デメリットを解説」、「おすすめの○○50選」系の記事は嫌われます。NAVERまとめのサービスがすでに終了したことなどからもわかるように、ネットの二次情報をつまみ食いしただけのまとめ記事というのは、それが何であれ価値を帯びることはありません。生成AIでつくっただけの文章をネットに出してしまうことと、ネットで調査してまとめただけのこたつ記事をネットに出してしまうことは、本質的に同じです。
思ったことを言えばいい
「その人が思ったことを書く、その人が思っていないことは書かない」ということをすればよいのだと思います。それはべつに今更確認するようなことでもない、あたりまえのことなのですが、AIでかいた文章をよそ様になんのためらいもなく見せたり、ネットで公開したりする人がいることからもわかるように、できていない人はいます。
これは、別の記事で触れた主観と客観の取り扱い方の違いの話としてまとめることも可能です。noteなど、主観的に自分が思ったことを素直に述べることが期待される場所ではそれをすればいいわけで、そこに客観の支えは必要ありません。noteを見に来る人が見たいのはよその人がどう感じたか、であり、「正解」ではありません。
生成AIで出したことのコピペをなぜしてしまうのか、その背景をたどった先にあるのは、「個人としての自信のなさ」だと思います。誰もが意見や考えを持っているはずですから、それをそのまま表に出せばいいだけなのですが、「自身のなさ」というその人の心理的な関所が意見を表に出すことを邪魔します。
「客観の支え」のようなものを欲しがり、これを示すことで自分の自信のなさを隠したいと考えている人がいるのだと思います。客観性やエビデンスを担保しなければならない、反論を許さない強い構成にしなければならない、防御しなければならないという勝手な妄想があって、それをするがために、AIのような、「なんかすごそうな、それっぽい文章を出してくれる機械」にすがるのだと僕は読んでいます。
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