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主観と客観は両立できるし、したほうがいい

主観と客観は対立する概念であり、自分目線でなんか言うことを主観的、そうではなく、誰にとっても同じように見えるであろう景色のことについて述べることを客観的といいます。両者は対義語の関係にあり、主観的かつ客観的にものを言うことはできません。

さて、この相対するふたつの性格についてなのですが、客観的に何かを言うことがよしとされる風潮が少なからずあります。主観的になんか言うことは自分の都合を出すことであり、それはわがままであるとか、まわりのことを考えていないと思われることが多いです。「主観的よりも客観的」という意識がある人は、少なくないはずです。

ただ、あらためて確認すると当然のことなのですが、「対立」というのはたんに性格が両極端であることを意味するだけで、それは優劣の話ではありません。そう考えると、客観的であるほうが主観的であるよりもよい、というのは、それこそエゴが入ってそうじゃないですか。

僕は、主観と客観を巧みに出し入れして、2本の竹馬のようにうまく使い分けるのがよい、主観をなるべく排除して客観性を持たせることがよいというわけではないと考えています。主観をモリモリだすべきシーンとそうではないシーンがあるのでそれをうまく使い分ければいいだけで、「常に客観的であるべき」と過度な考えを持つ必要はありません。今回はこのあたりの話をします。

主観とは何か、客観とは何か

主観的な情報(意見)は「私は~だと思います」という形をとります。言い換えると、主語がかならず、私、僕などの一人称になるということであり、これ以外になることはありません。誰々さんみたいな、自分以外の他人を主語にすると、それは意見ではなく、他人がどう言っているかという事実情報をたんに復唱しただけです。

一方、客観的な情報の場合、主観的な情報に必須の要素である、「~だと思います」という文言がぜったいに出てきません。「○○であることを示唆している」などの、個人の推量をにおわせる語尾がつくこともなく、基本的に、「です」か「ます」で言い切ることがふつうです。客観的に何かを言う場合、「事実を淡々と述べること」がことのすべてであり、その人の感覚とか、気持ちとか、気分とかをいっさい抜きにして、無機質なロボットのように事実を淡々と述べます。ロボットのように無機質に事実を説明するわけですから、当然、都合のよい事実も悪い事実も、フラットに眺めてそれを言う必要があります。

たとえば、「○○さんはこれでいいと言っています」というのは事実の説明であり、また適切な説明なのですが、「○○さんはこれでいいと言っているみたいです」とぼかしてしまうと、それが事実なのか、推量なのかがあいまいになります。詳細は以下で説明しますが、事実なのか意見なのか、客観なのか主観なのかわらかない物言いというのは、基本的に話をややこしくするだけなので奨励されません。

相手の要求はあるか

主観的にものを言うことと客観的にものを言うこを対比するために、「文章」を例に出して考えてみます。ひとりの人間が文章で情報を出すシーンにはさまざまなものがありますが、ぱっと思い浮かぶのは次のようなシーンです:

  • 報告書、レポート

  • 学校のテストや宿題

  • 感想文

  • 個人ブログ

上記のリストはてきとうに並べたわけではありません。上記のリストの上に行くほど、「情報の受け手が要求すること」が厳しくなり、下に行くほど、ゆるくなるように並べています。報告書やレポートに類する文章は、一人または数人に向けられた要求の厳しい文章である、たいしてブログ記事などの文章は、不特定多数に向けられた要求のゆるい文章である、と言ってもいいと思いますし、報告書やレポートは客観的な文章、ブログ記事は主観的な文章、と言い換えてもよいと思います。

学校のテストや宿題も報告書やレポートの類に似ています。解答用紙には空欄が印刷されていて、各設問に対応するただしい解答をここに「書いてほしい」という作問者側からの要求、要望があるのですが、「その期待にどれくらい応えるか」にすべてのフォーカスがあつまります。

報告書やレポート、学校の試験などの要求が厳しい文章の場合、いかに正確に、いかに詳細に正解を記述できるかが、その文章を巧みなものとするかの唯一の基準です。すぐれたレポートや報告書に求められるのは客観的正しさであり、個人がよけいなことをさえずる余地はここに一切ありません。

期待が薄い=書き手が定める

さて、上記のリスト:

  • 報告書、レポートなど

  • 学校のテストや宿題

  • 感想文など

  • 個人のブログなど

の下に行くほど情報の受け手が要求する事項がゆるくなると言いました。では、下に行くほどどのような性質が逆に強くなっていくのか、という疑問になると思いますが、それは、「情報を出す側が主体的に定めていくべき事項の程度」です。「これを書いてほしい」という相手の厳しい要求が薄くなるにしたがい、「これを書いた方がいい」という書き手側の価値観や裁量による要素が強くなってくる、ということで、文章を出す側の裁量やさじ加減で決まっていくことが徐々に強くなることを意味します。

要求がゆるい文章の具体例として感想文やブログ記事をあげましたが、それらはまさに、書き手が書きたい、書くべきであると感じたことをかく媒体ですよね。だれかお客様がいて、その人が求める要求にもれなく応えるという景色は、感想文やブログにはありません。要求がゆるい文章の場合、その文章の肝となる要素は「正解を出すこと」ではなく、「本人が書きたいことをかくこと」であり、ここに客観的な正解や不正解の話が入ってくることはありません。

…「品質を求められないことはあるし、むしろ、品質をケアしないほうが喜ばれることもある」というのは事実です。「品質と言うのは、それを求められているときに出す」と言い換えてもよいと思います。

意見を表明することの役割と意義

自由と責任

さて、要求が厳しい文章のほうが書くのが難しそうと感じるかもしれませんが実はこっちのほうが簡単です。言われた通りにさえしてればよいという状況はラクで、理念や考えがない人でも、正解がなにか、その正解をどのように提示すればよいかわかってさえいれば、かんたんにそれを達成できるからです。

要求が厳しい文章の場合、「何を言ってほしいか」が明確に定まっていて、かつそれを相手が教えてくれるので、そこさえ外さなければ失敗はしません。「言ってほしいことを言う」だけでよく、また仮にそれができないとしても、「わかりません」と伝えれば多くの場合で相手は納得してくれます。

じっさい、学校のテストで分からない箇所を空白にして飛ばしても、誰かに怒られることはないですよね。先生も、「わからない箇所があったらそこでとばせ」と指導しているくらいですから、「要求が厳しい文章を書くことを要求されたが、それができないので拒否した」という結果になるのは、ふつうです。拒否された側も素直に状況を理解するでしょうし、怒られることはないはずです。

一方、要求がゆるい文章の場合、「できません」という手段がとれないというか、そのような判断にいたることができません。要求がゆるい文章の場合、「自分が書くと決めたからかく」というのが事の発端であり、要求が厳しい文章のように誰かに言われたからかく、という感じではないからです。

ちょっと横道ですが、語学学習とかでもそうですよね。語学学習というのは「その人がやりたいと思ったからやる(=主観)」なのですが、その中で多くの人が、科学的・第二言語習得論的に正しい(=客観)のような、よそから来る正解を求めてそれを出すことに注力しがちです。語学学習で正解探しをしてはいけないというのは僕が考えていることなのですが、以降はそのような、「正解探しをするなどの、客観に過度にウエイトが乗ること」について触れていきます。

正解を探してはいけない

主観と客観という相対する性質がどのように現実に現れてくるかを、文章を例にとって確認したのですが、「主観が前に出るか客観が前に出るかはケースバイケースである」と、ここまでの話から言えそうじゃないですか。冒頭で、「世の中の人は客観的な情報を重視しがちであり、主観的情報を嫌う傾向がある」と言ったのですが、そのような世の中の認識はここまでで確認したことと一致しません。主観と客観は適材適所で適宜使い分けるのがよいはずであるということを確認したのですが、「客観」側に極端にウエイトが傾いているのが実情です。

客観に過度にウエイトが乗るということは、主観的にすすめるべきであろうことにも「客観的」というワードが呪いのようにのしかかってくることを意味します。文章の話でまた説明すると、要求がゆるい文章を、要求が厳しい文章のように扱ってしまうということであり、「主観的にすすめるべきところを無理して客観的に言おうとする」と言い換えることもできます。

この、「無理して客観的になろうとする」というのはたいていの場合おだやかな結果につながらないのですが、このことは、noteやYouTubeなど、多くの人が日常的に眺めているプラットフォームをながめるとわかります。noteやYouTubeは当然、クリエイターがすきなように何かを表現してよいプラットフォームなのですが、「正解」をだすことにこだわっているのだろうな、みたいなにおいを感じることがたまにありますよね。

たとえば、「自分は正しい、アイツは間違っている」みたいな態度というか、そのようなちょっと攻撃的な雰囲気を表に出すコンテンツをちょくちょくみかけますよね。noteもYouTubeも、自分が思ったことを素直にいえばそれでいいはずなのに、誰か赤の他人の間違いを指摘して自分の「正しさ」を過度に、過剰にアピールするにおいのようなものを感じることが多くあります。

そして、そのような過激な態度で、無理して正しいことを言おうとすると、悪い意味でその人の身体が反応します。それは汗を書いたりとか、目が泳いだりとかの形で外部からもわりと容易に確認できる身体の反応として現れるものであり、そのような身体のサインみたいなのは見る人からすれば割とかんたんに気づけるものです。「ああ、この人は無理してるな」とか、「ああ、この人は思ってもないことを言ってるな」みたいなのはかんたんにバレるのですが、これが、「おだやかな結果につながらない」の一例です。

最近目にする、生成AIだけで作成されたnote記事もそうで、あれも、「正解を出すことにこだわりすぎた人たちが行きつく場所のひとつ」だと僕は思っています。「じぶんが思ったことを言っていい」とう当然の話を受け入れることができず、自分の主観的領域を維持できなくなると、生成AIで正解を出してそれを表に出す、ということをするのだと思います。

AIでかいたままの文書をそのままnoteにだしてしまう人の心理は、狭義の権威主義であるといえそうです。偉い人が出す意見が正解であるとしてしまうのが権威主義なのですが、この「偉い人」が「AI」になっただけであり、虎の威を借りる狐の心理があることに変わりはありません。

「AIが言っているから正解」みたいなのは基本的にはやめた方がいいはずです。読者や視聴者は「あなたはどう思っているか」に関心があるわけで、仮に、読者が「正解」を欲しているのであれば、おそらくあなたのもとには来ないはずです。

「AIが言っているから正解」というのはいうなれば又聞きの情報であり、なんなら「人」ですらないため又聞きよりも質が悪いかもしれません。又聞き情報になると確度や信ぴょう性がぐっと落ちるというのは、誰もがじっさいに経験しているはずです。AIの威を借りないというのは、質の悪い情報の授受発生を回避するという点で双方にメリットがあります。

主観的に言うこと

ここまでで確認したことは、主観的、もっと平たく言うとその人がわがままに進めるべきとこに「客観的であるべき」というある種の呪いのようなものが押し寄せていること、そして、その呪いのなれのはての姿として、「生成AIで正解をつくってこれをnoteで出してしまう人たち」などが出てきたことを見て取りました。

あなたが主観的に思ったこと、感じたことはもれなく意見に分類されるのですが、あなたが思ったことの内容そのものではなく、そのことをあなたが思った、という情報は事実に分類されます。事実に優劣をつけたり、特定の事実をごり押したり、都合の悪い事実を無視したりするのはよくないのですが、このことは、あなたが素直に感じた、思ったという事実にも適用されます。何を感じたか、どのような経緯でそれを感じたかというのは大いに尊重されるべきことであり、それはあなたの意思で積極的に表に出してもいいことです。

ここまでの話から、「自分は主観的にものを言っていいし、言うべきである」というこの記事で伝えたい命題が妥当である感じがしませんか。あなたがそう感じた、思ったというのはまぎれもない事実であり、そこに嘘をつくことも事実のチェリーピッキングです。

何かを客観的に言ったりまとめたりするのは、それこそアルゴリズムやAIが大得意とするところです。正確性や客観性がきわめて重視されるシーンで機械の類を適宜役立てていくのは大いに推奨されるはずなのですが、「主観的領域」を機械的に、ドライに扱うのはすこし変です。

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