Rainbow➂【note創作大賞2024/オールカテゴリ部門】
第3章 恵み
「岩崎卓爾がね、……」突然に始まる母の講義。我が家にとっては日常の光景だが、他所の家庭の母はどうなのだろう? と、真里は稽古帰りの車中で、ハンドルを握る母を見て思った。何でものめり込む性格の母は、栄養士や食材ソムリエの資格。短歌や俳句にも、のめり込んでいた。石垣島の人・もの・こと(歴史や年中行事)には、移住したときから興味があり、あれこれ人に聞いたり本で調べたりしている。例の「思い立ったが吉日!」は、年齢関係なく健在らしい。
「ところで、岩崎卓爾って、誰?」真里は興味なさそうに母の千夏に訊いた。訊いたのには訳がある。母は、話を無視をすれば拗ねるし、興味を示せば延々と話し続ける。――四十を越えた微妙な年頃の母なのだ。その扱いには気をつけなければならない。父の史と真里は、それをよく心得ていた。
千夏は、よくぞ訊いてくれたとばかりにさらに熱を帯びて話を始めた。
明治三十年以降の石垣島の名だたる人物の元を辿れば、必ず岩崎卓爾に行き当たる。と千夏はいう。
八重山の音楽を発展させた音楽家の宮良長包。『八重山民俗誌』で八重山の歴史や行事の意味などをまとめた民俗学者の喜舎場永珣。日本の民俗学を牽引した柳田國男や折口信夫も、岩崎卓爾と接点を持つ。彼の出身は、今の宮城県仙台市。本業は、気象観測技術士で、主に台風の研究をしていた。しかし、それだけに飽き足らず、八重山の生物や民俗、歴史を研究していた。という。
まるで、母のようだ。と真里は思った。近所のおじい、おばあから方言を習い始めたと思ったら、農家から間借りした畑で島野菜の育て方を教わった。そして次は島料理、白保村の年中行事。次から次へと、数珠つなぎに知識も人も繋がっていく。
母が家の半分を定食屋にすると言ったとき、近所に住む人たちから遠くの人たちまで、家に来て改築作業を手伝った。真里はその当時小学六年生ながらに、母の人たらしぶりを、これは一つの才能だと認めざるを得なかった。島の人から見ればよそ者のはずの母が、こんなにも島の人たちから慕われている。これを才能と呼ばずして何と呼ぶ。同時に、真里は、母のその才能に憧れを抱いた瞬間だった。子ども劇団で、みんなから慕われている自分を想像して、……いつかは、私も。――と、憧れた。
真里は、運転席の母の横顔を見た。すると、母がちらりと真里を見て驚いた声で言った。
「――どうして泣いてるの?」
真里は、顔に手を当て確かめた。すうっと頬を伝う雫。
「あれ⁈ 私、なんで泣いてるんだろう」自分でも分からない衝動に、真里は困惑した。
***
「真里、ちょっと寄り道しようっか」千夏は、フロントガラスに向かって話した。
車は、先ほど通った道を迂回して島の中心部に向かった。
標高二三〇メートルのバンナ岳を丸ごと整備して公園にした「バンナ公園」内を母娘を乗せた車が走っている。
螺旋階段を登っているかのようにくねくねと曲がる道を、千夏はハンドルを右に左にと切る。ようやく頂上の一部が見えたとき、真里は車酔いの真っ只中だった。水筒の水で、逆流するものを押し返し押し返しする。それでも千夏は、「この道、車一台分くらいの道幅しかないから、一気に登っちゃうね」と、真里に構うことなくアクセルを踏んだ。
山頂に着いて車を降りると、真里は近くの草原の茂みで逆流してきたものを吐いた。千夏は、真里の背中を摩りながら、三半規管を鍛えなさいだの、飴を食べたらいいだの、あれこれ言っている。真里はなるべく耳を塞ぎながら、気分が落ち着くのを待った。
着いたときよりも大分気分が落ち着いたとき、車を止めた場所から柵の向こう側に目をやると、眼前に石垣島の街が広がって見えた。
「すごい」と真里は、初めて見る景色に感嘆の声を発した。千夏は、真里から離れ展望台の方へと歩き出し、振り返った。
「あっちの展望台に登ろっか」千夏が指さしたのは、高台へと繋がるスロープが右傾斜左傾斜と折り重なるように作られた展望台だった。真里は、動くのでさえきつい。と言い張って抵抗してみたが、千夏が一度こうと決めたことが覆ったところを見たことがない。渋々、真里は千夏の後ろに着いて歩いた。
展望台から一望する市街地やその先に広がるエメラルドの海は、まるでジオラマのように小さく精巧に製作された一つの作品に思えた。
「あれが竹富島」と、千夏は遠くを指差して真里に教えた。真里は海を隔てた先へと目を向けた。パノラマサイズの竹富島がそこにあった。真里は、隣に立つ千夏の横顔を見た。千夏は黙ったまま、竹富島の方角を見ている。真里も黙って千夏と同じ方角を見た。陽は、南の空から西の海へと傾き始めていた。しばらく遠くを眺めていた真里は、ふと、ある異変に気が付いた。千夏の瞳からこぼれ落ちる一粒の雫。真里はこの瞬間、千夏は竹富島よりも遥か先の、……まだ真里にも分からない景色を見ているのだと気付いた。真里は息を呑み込んだ。なぜなら、千夏のその横顔は、母としてではなく、一人の女性としての威厳を保っていたから。――
微かに残る橙の陽が、遠くの海へと沈んでいく。
夜はすぐそばまで来ていたが、千夏は遠くを見つめたまま、静かに話し始めた。
「私、実は昔バレエをしていたの。結構本格的に」
そう言うと、千夏はパラレルという真っ直ぐした立ち姿から片足のつま先を前に出し軸足に戻し、横、後ろと同じように動かした後、反対の足も同じようにした。白鳥が湖に着水する時のように、両腕を頭上から左右に広げてお腹の前で円を描く。ドゥミ・プリエという動き。真里はウィングキッズの練習や平日のダンス練習でバレエ基本動作を習った。体幹を鍛えていても体のバランスを崩すこともあるその動きを、千夏は、少しもぐらつくことなく美しい所作を見せた。
真里は、初めて知る母の一面に驚いた。「すごい。――」思わず口から出た言葉に、真里は可笑しさを感じた。なぜなら先程展望台に立ち、町を一望したときに発した言葉と今の言葉が完全に同じ音だけれども、その意図する感情の違いは雲泥の差のように感じたからだ。しかし、真里はやはり「すごい」以外に目の前の母の姿を表現する言葉がないことにもどかしさを感じるのだった。
千夏は、元の千夏に戻り展望台の手すりの摑まると、続けてこう言った。
「高校一年生のとき、私は自分の夢を自分で断ったの」軽快なステップを踏むように、さらりと発した千夏のその言葉の重みは、真里の脳内で処理しきるまでにほんの少し時間が掛かった。
「……、……。どうして」
「どうしてかな。今となっては『たら、れば』の話ではっきりとした理由が自分でも分からない。だけど、逃げなきゃ私の人生、十六やそこらで終わっていたかもね。それぐらい、追い詰められていた気がする」
「何があったの?」
「自分の脚を、……刺したの」
真里は言葉を失った。……自分の脚を刺すほどの重圧とは何なのか。真里には理解できなかった。いや、真里も含めて。千夏だけにしか感じえないことが起こったのだと推測するしかないだろう。
「お母さん。……」そう言いかけて、真里は言葉を吞み込んだ。これ以上言葉を重ねると、母を過去に縛りつけてしまうではないか。また、こうも思った。母が私の目の前から居なくなってしまうのではないか。……現実的にはあり得ないことだと思いつつも、今この空間を埋め尽くしている非現実的な日常が、真里の脳裡から正気を奪っていた。ここで千夏との適正な距離感を保つことが最優先事項だと、真里はそこに全神経を注いだ。
千夏の表情は、変わらない。気丈なように振る舞っているのか。それとも、今にも震えそうな体をぐっと堪えているのだろうか。真里は、何故だか分からないが、千夏の方へと一歩だけ足を出した。その足がコンクリートの地面に擦れて、乾いた音が鳴った。千夏は真里を見て、両腕を広げた。真里は、千夏のその両腕の中へと飛び込むように入っていった。そこには幼い頃に何度も感じた、いつもの母の温もりが確かにあった。しかし、その体は小刻みに震えていた。真里は自分の腕が母の体を支えていることに気づいた。もうあのころのように、両腕いっぱいに開いても届かなかった母の背中ではないことを、真里は痛切に感じるのであった。
「大丈夫、大丈夫だから。……」千夏の背中を、真里の手が何度も上下する。真里の胸の方から、消え入りそうな千夏の声が聞こえた。
「……あなたは、私みたいにならないで。――」
混沌と闇が辺りを包み込む。その中で二つの影だけが、薄弱と姿を証明しようともがいているようだった。
***
白保海岸は、夜明けを待っていた。
閑散とした砂浜には、流木が東の空を見るように横たわり、細波が力無く引いては寄せるを訳もなく繰り返す。次第に風は強くなり、カーチーバイ(夏至南風)が、七月の石垣島を吹き荒らす。巻き上げられた砂塵は、海岸の堤防を越え、民家の建ち並ぶ集落へ撒き散らされる。
朝六時前、風がドアを叩く中、真里は両親の定食屋の手伝いをしていた。真里が手伝い始めて、もう一週間になる。テーブルを拭き、箸や薬味などを手際よく並べていく真里を、千夏は複雑な心境で見つめていた。
町を一望できる展望台での出来事以来、真里は学校以外の時間を千夏から離れないようになった。店の手伝いも「人手は足りているからいい」と断ったにも関わらず、真里は毎朝手伝いに部屋から降りてくる。
もう日課の早朝ダンスも行っている気配がない。千夏は、自分の浅はかな行動を悔やむしかなかった。
「私みたいにならないで、――人の失敗を嘲笑うような人には、決してならないで」
あの日真里に言いそびれた言葉が、もう何度も頭の中を巡っている。
高校時代の千夏は、負けず嫌いな性格が、「青春」という二文字では綺麗に片付けられない状況に追い込まれていた。
***
二〇〇〇年、窪田千夏は高校一年生だった。
全国には十以上もバレエコンクールがあり、その中には奨学金(スカラシップ制度)を設けているものもある。スカラシップ制度とは、コンクールで優勝したりワークショップなどで海外バレエ学校の講師の目に留まったりすると、海外バレエ専門学校に特待生として授業料免除で留学できるシステムだ。
千夏は四歳からバレエを始めて、数多くのコンクールに出場した。そして中学三年のときに一度、スカラシップ制度でアメリカに短期留学をしたことがある。
バレエダンサーの寿命は短い。大体十八歳までに、有名な劇団に入り、役をもらえたらバレエリーナとして成功ルートを進んでいると言える。千夏は、短期留学中、同年代がトップを目指して競い合う姿を見て、「私も、そうならなければ」と、一層身が引き締まる思いをして帰国した。そしてもう一つ、千夏はこれまで出場していたクラシックバレエを止め、今年から自由度の増したモダンバレエやコンテンポラリーダンスに転向することにした。
劇団への入団を目指すなら唯一無二のダンスを表現したいと、千夏自身が思ったからだ。
「次は、海外のバレエアカデミーに長期留学して、劇団からスカウトをもらいたい」千夏の目標は、より明確にバレエダンサーの道へと向けられていた。
千夏は、モダンバレエに転向するかどうか悩んでいたとき、一つ年上で昨年一緒にアメリカ短期留学をした楠田朋樹に相談した。彼は沖縄に住んでいて、東京に住んでいる千夏は、朋樹に電話をした。朋樹は早くからモダンバレエやコンテンポラリーダンスを始めていて、どのコンクールでも、いつも海外の審査員の注目の的だった。
彼は千夏の相談を受けて、電話口で大喜びしてくれた。「ついに神童が神を目指すんだね。だけど、モダンダンスに来るってことは、僕とライバルになるってことだからね。お互いに切磋琢磨して、世界を震撼させるダンサーになろうよ!」
朋樹は、短期留学中も一つ年下の千夏を気遣い、良くしてくれた。千夏にとって、朋樹は頼れる先輩であり気の置けない唯一のバレエ仲間でもあった。だから、朋樹の励ましは千夏を本気にさせる足枷となった。
転向して初めての全国バレエコンクール。高校生からは、高校と一般が混ざったカテゴリーになる。これまでよりも技術面や表現力が、よりハイレベルなものを求められる。千夏は、心の中では興奮しながらも表情では冷静さを保って、控え室で出番を待っていた。
――人生の分水嶺は、きっとこの出会いから始まっていたのだと、千夏は後に振り返り思った。
演技前の控え室で、天童南乃花が千夏の元に握手を求めに来た。千夏と同い年であることや千夏のファンの一人であることを一人で勝手に語っていた。千夏はこれまでのコンクールで彼女のことを知らなかった。南乃花は小学校まで新体操の「リボン」をしていて、バレエは幼稚園のときに一度習ったがすぐに辞めたと言っていた。しかし、中学になって再びバレエを習い始めたそうだ。だから、バレエの全国コンクールに出場するのは、今回が初めてだと南乃花は言った。
「私、小学六年の頃に千夏さんの演技をたまたま動画サイトで観たんです。『バレエ界の神童』ってタイトルの動画。それ観た瞬間、体中に電気がビビッときて、この人になりたい! って思っちゃったんです。でも、クラシックバレエは、何というか……つまんなくて。だからモダンバレエを三年間してたんですけど。まさか、バレエ界の神童、千夏さんがモダンバレエに転向するとは、驚きです! 同じ部門で競えるなんて……私、感激してるんです」
弾んだ声に、笑うと両頬に出るえくぼが人懐っこい印象を受けた。千夏は、南乃花から握手を求められたときこそ不信感を抱いたが、彼女のその印象から、私に害は無いのだろうと思い、親しさを持ち始めていた。あの演技を見るまでは。――
調子は良かった。全力を出し切れた。千夏は、自分の表現力を微塵も疑うことはなかった。練習通りの動きが出来たと感じていたし、コーチに指摘された「大胆さ」も自分なりに追究して表現できたと、そう思っていた。千夏は舞台袖に下がると、次の演技者のダンスを観るためにそこに残った。次の演技者は、天童南乃花。彼女は、控え室で千夏に懇願していた。
「千夏さん、よかったら私のダンスを舞台袖から観ていただけませんか? 千夏さんから何かアドバイスをもらえると嬉しいです」と、えくぼを見せ真っ直ぐに千夏の目を見た。千夏は、困惑して言った。
「私から南乃花さんに、アドバイスだなんて無理ですよ。だって私はモダンに転向して今回が初めての全国の舞台なんです。逆に、私が南乃花さんからアドバイスをもらいたいくらいです」
「そんなことないですよ。千夏さんは、バレエの基礎がしっかりしてるし、表現力も昨年の大会で高得点だったじゃないですか。お願いします。舞台袖で観てください」
結局、押し切られる形で千夏は南乃花の演技を観ることとなった。
――今になって思えば、演技前に初めて会った子から声を掛けられたのなんて初めてだったし、南乃花のあの笑顔は、裏を返せば「自分があなたよりも上手いのよ」という不敵な笑みで自信の表れだったのではないか。――千夏は、彼女が演技終了直前に舞台袖の私を見たときの表情がずっと頭に残っている。――
南乃花の演技は次元を超越していた。しなやかで柔らかな指先。見たこともない独特な表現と舞台上を右往左往に走り回る大胆さ。曲のリズムを押さえるのではなく、まるで南乃花自身が曲を奏でているような軽やかなステップ。躍動する体から迸る汗は、スポットライトの光を反射して、きらりと瞬間的に輝いていた。――天使が舞い降りたのではないか。誰もがそう思わざるを得ない空気感が会場全体を包んでいた。
――何? あの子。
千夏は、南乃花の演技の途中から仕切りに同じことばかり考えていた。「観てほしい」と言ったのは、あれは南乃花から千夏への宣戦布告だった。と気付くまでに時間はかからなかった。
南乃花が最後のステップを踏んだとき、ちらりと舞台袖の千夏と目が合った。南乃花は、顎を上げ目は上から下を見るような挑発的な目だった。その顔にはあの不敵な笑みがにじみ出ていた。
これまでの千夏なら、何食わぬ顔して拍手を送っていただろう。しかし、千夏は彼女からの裏切りにも似た行為を受けたことと、演技中のあの不敵な笑みから感じ取ったメッセージが心の闇を深くしたのだった。「南乃花が、私をバレエ界から引き摺り下ろそうとしている――」なぜだか千夏は、彼女の目を見て深く深く直感していた。コンクールの結果は、一位に朋樹、二位に南乃花、三位に千夏となった。
今となっては悔やんでもどうしようもないことだが、
――もし、千夏がモダンバレエの道を選択しなければ。……
――もし、南乃花との出会いがあのようでなければ。……
千夏は今も、バレエを愛していたのかも知れない。
最悪な結果を招いたのは、自分自身の心の弱さだと千夏は十分分かっている。
それが起きたのは、世界的に有名なモダンバレエの振付師キエナを講師に開催された夏季合宿のときだった。
その合宿の趣旨は、「若手の才能発掘」にあった。だから参加対象者も高校生のみの対象となった。前回コンクールで上位入賞者は、自動的に参加権が与えられていたため、千夏を含め朋樹や南乃花も合宿に参加していた。合宿は一週間行われ、最終日はそれぞれに三分間の演技時間が与えられ、合宿で得た力を披露する機会が設けられていた。モダンダンスに必要とされる「自由」「想像」「感覚」は、クラシックバレエとは全く異なった表現であり、千夏が脱却しなければならない最大の課題だった。講師のキエナは、何度も何度も千夏に求めた「もっと、もっと自由に!」千夏はそれに応えようと必死に表現するも、キエナは納得している様子はない。しかし、南乃花に対しては「もっとあなたのアイデアを見せてちょうだい。斬新だわ!」と感嘆の声を何度も何度も南乃花に注いだ。
一昨年前なら、その声を注がれていたのは南乃花ではなく、私だった。……千夏はレッスン室の片隅で水を飲みながら、キエナと南乃花のやり取りをただただ見ていた。すると、朋樹がやってきて、
「どうした? 神童。悩み事か」と、声を掛けてきた。
「もう、止めてよね、『神童』っていうのは。好きな呼ばれ方じゃないの。私は私。窪田千夏って名前がちゃんとあるの」
「僕は、自分の名前、あまり好きじゃないな。『ともき』って、一般的すぎて聞こえ映えしないじゃん」
「え、じゃあ。スティーブンとかジェームスとか?」
「なんだよ、それ。『ともき』よりはマシかもしれないけど、僕は、千夏の目からは外国人だと思われてる? それとも千夏って意外と天然だった?」
「天然って、やめてよ。そんなつもりじゃないから。朋樹さんって、顔の彫も深いし目も大きいから、そういう名前も似合いそうだなって思って。……」
「まあ、悪くはないね。でも、その名前もなんかありきたりじゃない? もっとこうみんなが呼びたくなるような名前とかないかな」
「朋樹さんは、将来の夢とかはあるんですか?」
「え? いきなり何。やっぱり千夏って、天然?」
「もう、そうじゃないです! 名前って自分では呼ばないじゃないですか。他の人から呼ばれるものだから、自分が呼ばれたい名前の方がいいと思うんです。私思うんです。心は聞いた言葉で作られる、って。だから、朋樹さんが将来どんな夢を叶えたいか。自分の人生の意味付けとなるような言葉を名前にしたらどうですか?」
「いいね、それ。いいね、うんうん。だとすると、僕は世界中の人を僕のダンスで笑顔にさせたり、……なんて言うか、救い人? みたいになりたい……かな?」
千夏は、朋樹のダンスへの情熱と向き合い方を、いまの言葉で理解できた思いがした。
「いいですね! その夢。じゃあ、もし私が困ったときは助けに来てくださいね」千夏は冗談混じりに笑って朋樹を見た。朋樹も笑って千夏に言った。
「いつでも、どんなときでも、どこに居ても、助けに行くよ。君がそう望むなら」
千夏は、先程まで空に雨雲がかかったような心模様だったのが、朋樹との会話で心が晴れやかになり、まるで雨上がりの虹の下をスキップしているような心持ちになった。千夏は、朋樹に一言だけ「ありがとう」と言って練習に戻った。
そんな二人の様子を、南乃花は遠くから刺すような眼差しで見ていた。「なぜ、千夏をみんなで寄ってたがって、ちやほやするのだろう。なぜ私じゃないの?……」南乃花の心に溜まる棘のような感情は、朋樹にではなく、ずっと千夏に向けられていた。その感情は、南乃花の心を蝕んでいた。そして、それは膨れ上がるばかりだった。
――いつか、千夏を私の足元に跪かせてみせる。そして、朋樹が私だけを見てくれるようになれば。――
明日が合宿最終日となり、午後からは自主練習が組まれていた。千夏は朋樹との会話のあと、体が弾むように軽くなり、合宿中無心でダンスをしているうちに、キエナから意外な声を掛けられた。
「あなた、私の舞台で踊ってみない?」
千夏は最初、自身の耳を疑った。あんなに「もっと自由に!」と、言われていたのに、いったいどうして? しかし、同時に感激もしていた。キエナは、この合宿が終わったらベルギーに戻り舞台稽古の準備に係ると言った。もし、本気でダンサーになりたいのなら、ベルギーにおいで。と、名刺を渡してくれた。千夏は、素直に嬉しかった。夢に一歩近づけた気がした。
その日の合宿終了後だった。レッスン会場から寄宿舎に戻るため、千夏は踊り場が二つほどある長い外階段を降りていた。この階段は、みんなが利用するのだが、千夏はいつも自主練習をして最後まで残っていたから、帰りは一人で使うことが多かった。
そのときも千夏は、自主練習を終え、疲れて倒れそうな体を、階段中央の手すりに掴まりながら、何とか保って降りていた。一つ目の踊り場にようやく辿り着き、あとひと息と気合いを入れて降りようとしたそのとき。千夏のすぐ後ろからバッと影が現れたと思った瞬間、その影が階段を転げ落ち、地面に着くと横たわったまま動かなくなった。千夏は全身から血の気が引くのを感じた。だが、すぐにでも誰かに助けを求めなければ。――千夏は、疲労困憊だったはずの体を素早く動かして階下まで駆け降り、横たわる影に声を掛けた。
「大丈夫ですか? ……あ!」千夏は愕然とした。横たわる影の正体は、南乃花だったのだ。
南乃花は、額から血を流し気を失っていた。千夏は、必死に叫んだ。「誰か! 誰か来て!」
ただならぬ声を聞きつけて、寄宿舎からコーチ陣や合宿メンバーが出てきた。血を流して倒れている南乃花を動かさないようにコーチがその場にいる生徒みんなに伝え、救急車を呼ぶ。他のコーチが千夏に事故の様子を聞いてきたが、「私じゃないんです。私じゃないんです」と、千夏は気が動転していて、自分でも意味の分からないことを繰り返し言っていた。合宿メンバーの冷たい視線が千夏に向けられる。千夏にとってその視線は、死刑宣告に等しかった。こんなとき、朋樹が居てくれたらどんなに気が休まったことだろう。千夏は心の中で朋樹の言葉を反芻していた。
「いつでも助けに行くよ、君がそう望むのなら」
その言葉だけが、千夏にとって唯一の支えであった。
朋樹は、午後から沖縄に慌てて帰っていた。「家族に何かあったのかもしれない」と、リュックに道具をしまいながら近くにいた千夏に伝え練習室を後にした。
南乃花を乗せた救急車が、千夏から遠ざかっていく。けたたましく鳴り響くサイレン音は、千夏の胸を締め付けた。
千夏のその後を言えば、彼女がベルギーに行くことはなかった。付け加えて言うと、彼女がバレエを踊ることは二度となかった。
――合宿から戻ったその日、彼女は自分の足にアイスピックを突き刺した。そうでもしなければ、彼女の足は今にもステップを踏んでしまいそうになるからだ。南乃花は、今も病室でステップを踏めない日々を過ごしているというのに、私の頭の中には新しいステップの構想が次から次へと溢れ出てくる。――いったいこの世界に、誰が私のステップを見たいというのだろう。自嘲するしかなかった。
「十字架を背負って生きるのなら、もう二度と踊れない体にすればいい」ふと、そんな思いが脳裡をよぎったときには、手にアイスピックを握っていた。そして彼女は、闇の中でその鋭利な部分を自分の足に突き刺したのだ。――
この話は、バレエ界から、一つの星が消えた日として、後々に語り継がれることとなった。
***
真里が子ども劇団を休んでから約二ヶ月が経った。暦では七月初旬を迎えていた。この時期の石垣島は、南の海上で温められた海水が上昇気流と共に積乱雲となり、スコールや熱帯低気圧を発生させ、後に台風となることが多い。ニュースの天気予報では、一つの熱帯低気圧が台風に変わったと言っていた。
憂鬱な日々が続いているだけに、台風で家に閉じ込められるとなると、琴美はやり切れない気持ちが募るばかりだった。琴美は真里が再び練習に戻ってくることを信じて待っていた。真里がいなくなってからの劇団は、だらけ切った空気に包まれていた。琴美はそれに危機感を抱いていた。子ども劇団の総合リーダーは琴美だが、実際には真里がいてくれたからこそ、ピリピリとした緊張感を保っていた。真里の劇団に対する思いは、他の誰よりも一番に琴美は理解していた。彼女のように情熱を注いで他を圧倒するような存在に琴美は憧れつつも、自分にはできないと身の程を思い知らされていた。
空回りする琴美の頑張りは、劇団員たちの派閥を生み出し、それぞれの派閥から劇団に対する不満が渦のように肥大化していった。OBのマサキもこの悪しき空気感に手をこまねいていた。「このままでは、十二月の公演に影響が出てしまうのではないか。」琴美とマサキは、この危機を回避しようと思案に暮れていた。そんなとき、ある事件が起きた。
その日は、練習開始時間の午前九時になっても人数は極少数しか集まっていなかった。後から遅れてきた団員たちに遅刻しているという認識はない。当たり前のように体育館に入ってきて、一緒に遅れてきたメンバーと話しながらシューズを履いたり軽いストレッチを始めている。結局、練習は五十分遅れで始まった。これでもまだマシな方だった。練習が始まっても、私語は収まるどころか次第にあちこちに伝播していく始末。それを見ていたマサキが、劇団員たちに練習中の私語を慎むように注意した。その日の練習終わりだった。マサキは、劇団保護者会の役員から話があると会議室に呼ばれた。しばらくして会議室から出てきたマサキは、誰とも目を合わせることもなく、足早にその場を立ち去った。その次の練習から、マサキも劇団に顔を見せなくなった。琴美は不審に思い、保護者会の役員に事情を聞いたら、根も葉もないことを言われて驚き、そして怒りが込み上げてきた。
「マサキくんと琴美ちゃん、付き合ってるんでしょ? 練習中も二人でイチャイチャしていて、全然練習に集中していないって、他の子たちから聞いたよ。まあ、琴美ちゃんもお年頃だから分からなくもないけど、でもダメだよ! リーダーがしっかりしてくれなきゃ、劇団の統率なんて取れないよ」と悪気のない保護者会の方たちの言葉。しかし、実際に見てもいないことを、誰かがそう言っていたから...と、安易に信じていいのだろうか。そして、最悪なことに、善意で練習を観てくれているマサキさんの行為をも無下にする...。琴美は、目頭が熱くなってきたことを感じながら、保護者会の役員たちに詰め寄った。
「誰が、そんなことを言ったんですか? 誰がこんな根も葉もない嘘を言って回ってるんですか! 教えてください!」
琴美の怒りは沸点を超えていた。その剣幕に、保護者会の役員たちは恐れおののき慌てた。普段の琴美は、大人しく人懐っこい子だから、余計にそう感じたのだろう。しかし、琴美の本当の気持ちは虚しくも彼らには届かなかった。琴美の豹変ぶりを見て、彼らは劇団員から聞いた情報が本当だったのだと、誤った事実を真実だと確信するのだった。彼らの思考からすれば、琴美の怒りの根源は、自分とマサキとの関係を指摘されたことにあり、その怒りを抑えることができずに、私たちにまで当たってきているのだ。これも若気の至りに過ぎない。私たちにも若い頃に似たような経験があったな...などと浅はかな思いを募らせるのであった。
琴美は、呆れ疲れ果てた。なぜ大人という生物は、自分の価値観や尺度が見誤っているかもしれないと、疑う心を持たないのだろう。時代は常に移り変わり、その変化に柔軟なのは、いつだって成長続ける子どもたちの方なのに。凝り固まった使い古された大人のそれではなく。
「これ以上は私一人の力では限界だ」と感じた琴美は、途方に暮れる帰りの車中、助手席でスマホを手に取り熱心にメールを打っていた。彼女のメールの宛先は、真里の母の千夏だった。
***
平日の夕方、琴美は学校近くにある海が眺望できるカフェで、千夏との会う約束を取り付けた。もうマサキ先輩はいない今、真里だけが頼りだ。しかし、真里は何度LINEしても返信がなく、直接会って話そうとしても「今は無理!」の一点張りだった。そこで琴美が選んだのは、真里の母親である千夏だった。
琴美が店に入ると、千夏は既に飲み物を注文し、海側のガラス窓近くの席で本を読んでいた。琴美は千夏を見つけ、近づいて声をかけた。
「おばさん」
「あ、琴美ちゃん、久しぶり!ここ、座って」千夏は、琴美が席に着くのを待って、「何飲む?」と尋ねた。
「アイスキャラメルコーヒー」琴美がメニューを指して言うと、千夏は「私もさっき同じのを頼んだわ」と笑顔を向けた。
「あの、メールでも伝えたんですけど、私もう限界感じてて、真里なしではもう無理で」
「ええ、琴美ちゃんの気持ちは分かるわ。でも、ごめんなさいね。実は私も同じように何度も練習に行くよう言ってるの。でも、全然聞き入れてくれないの。真里は、一度決めたら曲げないタイプだから、いつもこう!」千夏は両手を顔の両側に出して、前に伸ばした。琴美は、以前真里が千夏の後先考えずに突進する性格を同じように表現していたのを思い出し笑った。
「え?琴美ちゃん、どうしたの?」
「いえ、親子ってやっぱり似るんですね。前にも真里が同じことをしていたので、つい」
琴美の笑い声に引かれて千夏も笑った。ちょうどその時、二人のアイスキャラメルコーヒーがテーブルに置かれた。二人は、ストローでコーヒーを啜り、一息ついた。千夏が窓の外を見た。それに引かれて、琴美も外を見た。
雲一つない青空が窓いっぱいに広がっていた。椰子の葉がわずかに揺れており、外には微風が吹いていた。しばらく沈黙が二人の間に訪れた。先に口を開いたのは琴美だった。
「もうすぐ台風が来るって今朝のニュースで言ってましたね。私、台風が来ると気圧の変化で鼓膜がツーンってなって嫌なんです。おばさんはどうですか?」琴美は意図もなく尋ねたが、千夏は笑って答えた。
「ううん、私は耳がツーンとはしないかな。でも、台風が来ると胸がドキドキするの。ワクワクするのよ。白保海岸が見える家の窓から台風を眺めるのが好き。変でしょ?」
「はい!とても変だと思います。でも、素敵だと思います!」琴美は笑ってストローを口にした。
「前にね、島のおじいさんから『台風は海からの恵み』って言われたことがあるの」
「え?それってどういう意味ですか?」琴美は千夏を見た。千夏はメニューを手に取り、「デザートでもどう?」と提案して笑顔を向けた。
二人のデザートがテーブルに置かれた時、店員が突然、「母娘ですか?」と尋ねた。
「そう見えます? 娘が一人増えたみたいね」千夏は笑い、琴美を見た。
「こちらは私の友達のお母さんなんです」と琴美は丁寧に店員に答えた。店員は、「そうなんですか?仲の良い母娘だと思って……予想外でびっくりしました。友達のお母さんとお食事って素敵ですね。どうぞ、ゆっくりしてください」と言った。
千夏は、琴美と店員が話している姿を見ながら、真里のことを思った。真里と最後に外で食べたのはいつだったろう。店を開いてから、家族で外食はしていない。小学二年生の真里は、外食に行くとオムライスを頼んでいた。三年生の時はハンバーグが好きだった。――高校三年生の今、何を好むのだろう。千夏は、自分が知らない真里がいることをこの時に理解した。来年の四月には、石垣島を離れて専門学校や大学に進学するかもしれない。真里は今年「十八歳の島立ち」を迎えている。千夏は、忙しさにかまけて真里を「もうすぐ大人」と決めつけていたが、それは千夏の都合であって真里の意思ではない。
そんなことを考えていると、琴美の声が急に千夏の鼓膜を叩いた。
「おばさん!聞いてました?」
「あ、ごめんなさい。聞いてなかったわ。もう一度言ってちょうだい」
「大丈夫ですか?疲れてるんじゃないですか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ。琴美ちゃん、ごめんね」
「『台風は海からの恵み』って話、すごく興味があるんですけど、教えてください」
「そうだったわ、その話はまだ途中だった」
千夏は、テーブルの上のかき氷ぜんざいをスプーンで掬いながら話を続けた。
台風は、海面温度の高い場所で発生し、足の遅い台風ほど、勢力が強く被害も大きい。八重山諸島を含む沖縄全域は毎年台風による被害がある。作物や家屋の破損、時には自動車がひっくり返ることも。しかし、台風は数多くの恩恵をもたらしている。珊瑚の白化現象が深刻な問題となっており、その原因は赤土流出や海水温の上昇だが、台風の風が海を掻き混ぜることで、珊瑚の生育に適した温度が生まれる。豊かな珊瑚礁は多種多様な魚や微細な生物を引き寄せ、海を再生する。さらに、雨水を含んだ雲が森に大量の雨を降らせ、森は地中に雨水を溜め込み、濾過された綺麗な水が川やダムに流れ人々の生活を支える。だから、私たちは台風によって生かされているのだ。
千夏は話を終えると、椅子の背もたれに上半身を預けてふうと息を吐いた。琴美は千夏を見つめていた。テーブルの上のバニラアイスが溶けてほぼ液体になっていた。
「あら、琴美ちゃん食べてなかったの?アイスが溶けちゃってるわ」
「あ、本当だ!おばさんの話が凄すぎて、つい」
「私というより。島のおじいの受け売りだけどね」千夏はそう言い、青く広がる窓の外を眺めながらぽつりと溜息交じりに言った。「再生、……かぁ」
その一言に、千夏の真里への思いが込められているように琴美は感じた。「再生」――正気を取り戻したり、以前よりもより良く生まれ変わること。琴美は劇団のことを思った。もし再生できるとしたら、団員一人ひとりが活気に満ち溢れ、絶えず成長を望み、切磋琢磨する集団になってほしい。私と真里は、今年で劇団の卒業が決まっている。何とか、真里も劇団も再生させる方法はないだろうか? 溶けゆくバニラアイスを琴美は見つめた。すると、千夏が琴美のバニラアイスの方へ手を伸ばした。
「ねえ、このバニラアイスを少しもらってもいい?」
「あ、はい。どうぞ」琴美は、千夏の方へ皿を動かした。
「ありがとう!ちょうど味を変えたかったの。ぜんざいとバニラアイス、相性がいいのよ。こうやって、ぜんざいとバニラアイスを混ぜると新しいスイーツに生まれ変わるの。どう、一口食べてみる?」千夏は、先ほどの溜息など無かったかのように明るくキラキラした表情で琴美に聞いた。真里がサバサバした性格なのは、母親似なのだと、琴美は独り合点した。
「食べてみていいですか?」琴美は嬉しかった。約二十くらい歳は離れているけれど、こうやってスイーツをシェアする友達が増えたからだ。真里とは校庭のベンチでたまにお弁当を食べるだけ。いつか真里と千夏と三人で、スイーツを食べる日が来るといいな。琴美は、バニラアイスとぜんざいの混ざり合った即席スイーツを一口食べた。
「んん、美味しい!」
沖縄ぜんざいは、金時豆を黒糖でじっくり煮込んで甘さ控えめに作られている。だから、バニラアイスの甘さが黒糖の苦味と混ざり合って程よい味になっている。舌鼓する味わいに、琴美の頬はとろけそうだった。千夏も一口食べると、琴美のように舌鼓を打った。二人で即席スイーツを堪能していると、不意に琴美が声を上げた。
「あ!そうだ、これですよ、これ!『再生』できるかもしれない」
「どうしたの、琴美ちゃん?」
「おばさん、ドラァグクイーンのお友達がいるんですよね? 前に真里から聞いたことがあって」
「ええ、いるわ。今は主に、ドラァグクイーンの育成に力を入れているみたい。たまに舞台に立つって言ってたわ」
「その方を石垣島に呼べませんか? 台風になってもらいましょうよ!」
「グルグルと掻き混ぜてもらうの?」
「いいえ、めちゃくちゃにしてもらうんです!」
「でも、それじゃ劇団が混乱しちゃうわよ……」千夏は琴美の真っ直ぐな目を見て、すべてを理解した。
「『再生』ではなく、『新生』させるのね。立て直しよりも、一から新しく作り変える。――でも、それは簡単なことじゃないわよ」
「分かってます。でも、そうしないと真里も、劇団も生まれ変われないと思うんです。おばさん、手伝ってもらえますか?」
琴美の覚悟を目の前に、千夏は苦悶した。千夏は知っている。いつだって、生まれ変わるにはその代償を払わなければならないことを。
千夏は琴美の顔をじっと見て、その覚悟を見定めた。一度始まったら、もう後戻りはできない。たとえそれが失敗に終わったとしても……
「いつでも、どんな時でも、どこにいても、助けに行くよ。君がそう望むなら」
千夏の心に、不意に朋樹の声が聞こえた。彼が琴美を支えてくれるなら、できるかもしれない。そんな思いが脳裡をよぎったが、千夏はそれをすぐに払った。今の彼ならきっとこう言うだろう。
「救われたいなら、覚悟を決めなさい!」
それは、「人に頼ろうとしてはいけない。そうすれば、いつまでも人のせいにしてばかりの人生になる」ということだろう。
千夏は、三年前に楠田朋樹と再会した。実に約二十年ぶりの再会だった。
再会した彼は、世界を股にかけるドラァグクイーンになっていた。その名もエリーシャ。「悪魔な天使」という異名を持つ彼の決め台詞が、「救われたいなら、覚悟を決めなさい!」だった。
千夏は、琴美の覚悟を見定めるよりも、まず自分自身がその覚悟を決めなければならなかったことに気づかされた。千夏は琴美を真っ直ぐに見つめ、言った。
「いいわ、やりましょう」千夏と琴美は、テーブルを挟んで手を握り合った。琴美が千夏に礼を言うと、千夏は鞄から携帯を取り出し連絡先を検索し始めた。
わざわざ時間を割いて来てもらったのだから、次の用事でもあるのだろうと琴美は思った。その労力に感謝を込めて「ありがとうございます」と琴美は礼を伝えた。
「ううん、私の方こそありがとう……あ、見つかったわ」千夏は、ケイタイを片耳に当て琴美の方を見た。
「きっと今、アメリカは朝の六時ぐらいよね?」
「え、おばさん、まさか今電話してるの? ドラァグクイーンに! まだ具体的な計画もないのに?」琴美は呆気に取られた。やはり真里の言った通り、「思い立ったが吉日」をそのまま行う人なのだ。琴美は真里の苦悩を、今身にしみて分かった気がした。
「あ、出た……もしもし、私。ちょっと頼みたいことがあるんだけど。……ええ、覚悟はできてるわ。うん、わかった。よろしくね」そう言うと、千夏は通話を切った。
「え、今ので伝わったの?台風みたいに掻き混ぜてほしいとか『新生』させたいとか……」
「そうね。彼、物分かりがいいから。荷造りして、来週の頭ぐらいには石垣島に着くそうよ。それと、一か月後に石垣島でドラァグクイーンショーをするらしい。その準備を私も手伝うことになったわ」千夏はさも当然のような顔をしている。琴美は唖然とした。千夏以上に「思い立ったが吉日」――いや、その最上級の表現が見つからないが、おそらく思考回路が常人とは比較にならないのだろう。千夏の友達は。……琴美は、少し不安になった。
「大丈夫だろうか、……私」
窓の外の青空はどこまでも澄みきっており、海と空の境界線が分からないほどだった。嵐の前の静けさとはよく言ったもので、台風襲来前の天気はいつも静かに、そして晴れやかだった。
