塾なし・現役・旧帝大の私は「実家が太い?」〜高卒の父が子ども部屋にいた雪国の話〜
私の実家は、山と田んぼに囲まれた雪国にあります。
電車は1時間に1本さえない時間帯もあるような、いわゆる田舎町です。
父も母も高卒で、決して裕福な家庭ではありませんでした。
そんな環境で育った3人きょうだいの長女である私は、塾に通うことなく高校の勉強だけで旧帝大に現役合格し、経済学部を卒業しました。
今は本体だけで2万人を超える、いわゆる大企業に勤めています。
(2つ下の妹は地元の4年制看護大学を、4つ下の弟もそこそこ名の知れた私立大学の大学院を卒業し、それぞれ立派に働いています。)
地方公立から旧帝大へ進み、大企業に就職。
こう聞くと、「実家が太いんでしょう」「中学受験したの?」「高い予備校に通っていたんでしょう」と連想される方もいまだに多いのですが、全くそんなことはありません。
私は単純に「勉強が好き」な子どもでした。
問題が解ける楽しさに加え、わからなかった問題がわかるようになる「なるほど!」という快感。
知らなかった世界を知る感動が、純粋に好きだったのだと思います。
(ちなみに、ただ丸暗記するのは苦手ですし、好きでもありません。)
なぜ勉強が好きになったのか。
正解はわかりませんが、いくつか思い当たる節があります。
■ 五感で楽しむ「遊び」と、それとは違う「勉強」というスパイス
私の地元は、ゲームや動画、レジャー施設、ショッピングセンターといった刺激の強いコンテンツや場所・もの以上に、五感で楽しめる遊びや景色に溢れていました。
【春】には、家の近くで山菜を採ったり、おたまじゃくしを捕まえたり。よもぎを集めて、おやきを作る。
【夏】がくると、川で泳ぎ、魚を獲る。山で捕まえたカブトムシを育て、夕涼みで蛍を鑑賞する。
【秋】になったら、山で栗拾いをし、トンボに囲まれて親戚の稲刈りを手伝い、紅葉に胸を躍らせる。
【冬】がくれば、雪だるまをつくり、かまくらのなかでお餅を食べ、景色のよい山でスキーをする。
ここには書ききれない、四季折々の楽しみが当たり前のようにありました。
もしかしたら、そうした自然の中での豊かな遊びとは異なる刺激を味わえる「勉強」もまた、脳を喜ばせてくれていたのかもしれません。
■ 「勉強しなさい」の代わりに、父が子供部屋でやっていたこと
父は自分の学歴やキャリア、収入にコンプレックスを抱えており、さらにはかなりの心配性でした。
「地元の国立大学を出て、公務員になって安定した道を歩んでほしい」とよく口にしていた父。
しかし、「勉強しなさい」としつこく言われた記憶はありません。
父は「勉強だけができてもだめだ。」とよく言っていました。
外で体を動かして丈夫になること、お手伝いをすること、ニュースに関心を持つことも重んじていました。
(私は手伝いなんて全然しない子どもでしたが……笑)
耳にタコができるような「勉強しなさい」の代わりに、小学校に入る前に明確な「ルール」ができたのを覚えています。
年長の私と相談したうえで決まったのは、以下の2つだけです。
⚫︎テレビ(ゲーム等含む)は1日2時間まで
⚫︎20時からは勉強の時間
(宿題+自分で決めたことが終わっていればOK。時間は問わない。20時からのテレビが観たい場合は夕食前に終わらせておくこと)
これに加えて、我が家の生活リズムとして19時からはNHKのニュースを見る、21時半には寝る、という流れが決まっていました。
父は「何をやるか」の内容には口出しせず、時間の枠組みにだけは厳しかったです。おそらく父自身、意識して教育論を実践していたわけではなかったと思います。
ただ、きょうだいが小学校低学年くらいまでは、20時になると父はいつも一緒に子供部屋にいてくれました。
私たちが机に向かう横で、勉強を教えてくれたり、自分の本を読んでいたり、時には自分も100マス計算をやっていたり。
そして勉強が終わってから寝る前までは、トランプやオセロで一緒に遊び、最後は絵本を読んで寝かしつけてくれる。
そんなふうに夜を過ごしました。
出世やキャリアよりも家族との時間を優先し、毎日18時に帰ってきてくれていた父。
父が作った「20時からの勉強時間」は、子どもを縛るための規則ではなく、父と一緒に静かに知的な時間を共有する、我が家の温かいルーティンでした。
この安心感に満ちた環境こそが、私の自学自習の根っこを育ててくれたようにも思います。
■ ただ「あった」だけの環境と、母の無邪気な肯定
一方で母は、子どもができるようになったことに素直に驚き、喜んで褒めてくれ、楽しくできていることに次のきっかけを与えてくれる人でした。
我が家には乳幼児向けの教材や、定番の日本昔話・世界名作アニメ絵本、1冊の図鑑が手の届くところに置いてありました。
教材はシール遊びにわくわくした記憶があります。
絵本は段々と自分で読めるようになっていき、図鑑はいろんな動物の種類が知れるのが楽しくて、好きでした。
壁には「あいうえお」と0〜10までの数字が書かれたポスターが貼ってありましたが、「やりなさい」「覚えなさい」と強制されたことはなく、ただ生活空間に「あった」だけ。
私はそれらを気まぐれに、遊びの延長で楽しんでいました。
まだ年中か年長だったころ。
犬の絵の横に、そのあいうえおポスターを見ながら見よう見まねで「いぬ」と書いて母に見せたら、「難しい字なのにすごいね!」と褒めてくれたのをよく覚えています。
また、日本や世界の偉人を紹介する通販の絵本シリーズもありました。
少し難しい内容でしたが、「世界にはこんなにすごい人がいるんだ」と幼心に感動し、成長するにつれて感じ方が変わっていくのを、繰り返し噛み締めるように読んだものです。
中学校の最初の定期テストで私が学年1位を取ったとき、心配性の父が「なんだか、周りは情けないな」とシニカルにこぼす横で、母は「すごいじゃん!」と手放しで喜んでくれました。
■ 「がんばりノート」と、目に穴が開くほど見つめなさいと教えた恩師
そしてもう一人、私の学習習慣を語る上で欠かせないのが、小学校低学年の時の担任の先生です。
母方の祖母より年上の、チャキチャキとした「おばあちゃん先生」でした。
先生は「がんばりノート」という自学自習のノートを推奨しており、自学を重ねていくとシールや温かいコメントがもらえました。
これがいまだに日々の習慣化に大きく寄与してくれた、と父は言います。
ほんの少し難しい問題が解けただけで大げさに褒めてくれたり、下手くそでも大きな声で歌っている私を讃えてくれたりした、あらゆる場面が今でも鮮明に残る先生です。
先生の教えで一番心に残っているのは、「人の話を聞くときは、相手の目に穴が開くくらい見つめなさい」ということ。
もしかしたらこれが、塾に行かなくても学校の授業だけで全てを吸収する「授業を聞く力」の土台になっていたのかもしれません。
ちなみに。
先生が描いてくれた絵はがき(年賀状と暑中見舞い)が私は大好きでした。
■ 学歴がすべてじゃない。動画で溢れる令和に親として思うこと
親という立場になり、溢れる教育情報やコンテンツの海を前にして、より一層感じることがあります。
令和の今、いつでもどこでも安い値段で電子書籍が手に入り、いつでもどこでも無料の動画で世界中の知識にアクセスでき、言語の壁も越えられます。
「スマホ依存症」「動画中毒」などに警鐘が鳴らされる一方で、何かを学ぶ環境としては、昔よりずっと選択肢が広がっているのもまた事実だと思います。
学力の低い田舎町に住み、小中学生のころもっと勉強したいと思っていた身としては、羨ましい限りです。
自然の豊かさが地元でさえも減ってきているのは本当に残念でなりませんが、一方で、「何かに興味を持って吸収したい」という意欲さえあれば、いくらでも可能性を広げられる時代であることはとてもポジティブに捉えています。
くだらない動画にただ受動的に時間を溶かしているのはもったいない、と強く思います。
情報過多の時代だからこそ、この「機会」を利用しない手はありません。
なお、私は学歴がすべてだとは全く思っていません。 娘に、旧帝大など国内難関大学を目指してほしいとも思っていません。
それ以上に、たくさんの経験をして、多角的な視点と広い視野を持ち、もっと広い世界へ、そして、自分の心に素直に突き進んでほしい。
そして、想像力と思いやりをもって人に接してほしい。と願っています。
(元気に健康でいてくれる。それが一番ですが!!!)
さいごに。
かつて父が、「勉強しなさい」と口うるさく言う代わりに、同じ部屋で100マス計算をしながらただ隣に座っていてくれたように。
母が、優しいまなざしで小さな進歩を喜んでくれたように。
おばあちゃん先生が、どんなことにも頑張っている姿を大げさに褒めてくれたように。
私も娘や息子が「自分の心が躍るもの」を見つけたとき、あれこれと先回りして口出しするのではなく、その隣で一緒に面白がりながら、気づかれないくらいに「そっと」優しく背中を押せる親でありたい。そう思います。
みなさん今日も本当におつかれさまです。
念のため補足します。
高校時代、進学塾や予備校には通っていませんでしたが、小中学生のとき進研ゼミと公文式をやらせてもらっていました。
こどもちゃれんじは物心ついたときから傍にあり、小1から中学卒業までしっかり&楽しく進研ゼミをやっておりました。
公文式は、両親に英会話をしたいと話したことをきっかけに、小3から中学卒業まで英語のみやっていました。
