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30年前。降格を選んだ父と家族の総力戦。「18時のいただきます」

令和の今、「イクメン」という言葉が古いと言われ始めるほど、男性の育児参加も当たり前になりつつあります。

それでも、妻と夫とのすれ違い仕事と育児の両立に悩み試行錯誤しているご家庭は多いのではないでしょうか。


私自身、両親たちは遠方で現役で働いているため簡単には頼れず、日々の共働き育児は綱渡りの連続です。


それでも、「家族みんなで協力して家事育児を担う」「食卓を囲む時間を大切にする」という土台が私の中に自然とあるのは、実家での「総力戦」の記憶があるからです。


■ 誰かに偏らない、30年前の「家族総力戦」


私が生まれ育ったのは、電車は一両、1時間に一本しかない山と田んぼに囲まれた地域です。

私が生まれたとき、父母は25歳と35歳、同居する祖父母はすでに70歳を超えていました。

その後、妹と弟が生まれ、3人きょうだいに。

母は3人を産み育てながら、正社員として同じ会社で働き続けました。
当時は育休制度もなく、産休だけで職場復帰。

そんな我が家では、家事育児は「みんなでやるもの」として、ごく自然な総力戦が行われていました。


<祖母>は、私たちきょうだいが保育園に入るまで平日日中の赤ちゃんのお世話をしてくれました。

保育園や小学校に行ってからも、子どもたちが体調を崩したときには看病を。おかゆを作ったり水枕を替えてくれたり、心強かったです。

毎日手の込んだ夕食作りや掃除に洗濯も、当たり前のようにしてくれました。

70歳を超えてこれらをこなしていた祖母には頭が上がりません。


<母>は帰宅してから子どもが喜ぶ追加のおかずを作り、祖母と連携して翌日の仕込みや食後の片付け、洗濯までこなしていました。

さらには、私の週2回のミニバスの送迎や、保育園・小学校で使うものの準備などをしてくれました。

休日は祖母とふたりで掃除・洗濯・炊事をこなし、祖母や子どもたちと1週間の食材の買い出しに。

特に平日は、遅くまで起き、朝も早くから家事をしていました。


家の畑仕事、保育園の迎えやその寄り道の公園は<祖父>の担当。

熱を出して母が迎えに来られないときなどは、祖父がバイクに紐をくくりつけて私を後ろに乗せて迎えに来てくれました。

子どもたちを休日にゲートボールへ連れ出してくれることもあった祖父。

当時の時代を思えば、孫の世話をしてくれる高齢の男性は本当に珍しかったと思います。


そして、もちろん、<父>もその総力戦の欠かせない一人でした。

祖父と一緒に担う力仕事や、雪国ならではの早朝からの雪下ろしや雪かきは、男手としてもちろんのこと。

子ども3人をまとめて一緒にお風呂に入れるのも、寝かしつけも、宿題を見るのも、ミニバスの迎え
も父の担当。

寝る前には絵本の読み聞かせ、週末は広場でスポーツをしたり、釣りなどのアウトドアに連れて行ってくれたりしました。

「イクメン」という言葉さえなかった30年前に、これだけ育児をしてくれていたのです。


■ 男は仕事の時代に、父が選んだもの


父は、食品系の製造機械をつくる会社で雇用延長の満了まで仕事を全うし、アジアや中東など20カ国ほどを飛び回っていました。

これだけ聞くと、いわゆる「仕事人間」だったと連想されるかもしれません。

しかし、実際の父は、先ほど書いたように、家にいる時間の多くを当たり前のように私たち子どもとの関わりに注いでくれていました。

母は中学生のとき、先生からもっと上の高校や大学進学を勧められたものの実家の事情で近場の高校へ進学し、高卒で働きに出ました。

商業・工業高校を出た父は、自分の勉強や体の強さに自信がなく、学歴やキャリアにコンプレックスを抱えていたそうです。

ある時、父は中東地域への単身赴任を打診されました。

しかし父は、「子どもが小さいから」と、降格してまでその打診を断りました

今でこそ男性の育児参加が広がっていますが、今から30年近く前の当時は「男は大黒柱」が当たり前の時代です。

危険な地域には行かない、家族のそばにいるという選択をした決断は、決して簡単なことではなかったはずです。

父が当時、出世をどう考えていたのかはわかりません。

ただ、子どもたちが大きくなってから、父は「中国開発部長」という役職につき、
私たちが高校や大学に進むころには、当時の田舎町に勤めるサラリーマンとしては良いお給料をもらえるようになっていました。

人生の順番として、出世よりも「子育てや家族といっしょにいられる短い時間」の優先順位が先だっただけなのかもしれません。

結果として、仕事での評価も後からきちんとついてきていたのです。


■ 娘の就職と、父からの「ごめんな」


その後、私は奨学金をもらい、地元から離れた旧帝大の経済学部へ進学

就職活動の時期だったか、父がふと、こんなことを口にしました。

「留学させてやれなくてごめんな」
「大学院に行かせてやれなくてごめんな。あとふたりが控えているから」

胸が締め付けられました。

たしかに私は、昔から海外や途上国支援などに興味を持っていました。
文系の友人たちが留学したり、理系の友人たちが院へ進んだりするのを羨ましいと思ったこともあります。

けれど、私が留学しなかったのは、休学してまで「海外で何をやりたいのか」という明確な目的が見えなかったからであり、
文系の私にとって大学院進学は最初から選択肢にありませんでした。

私の中には、これ以上ない愛情と環境を与えてもらったという感謝しかないのに。

私の何気ない言動が、コンプレックスを抱える父を「申し訳ない」とさらに苦しめていたのではないかと、自分の不甲斐なさを反省しました。


■ 毎日18時、7人で囲む食卓のぜいたく


大学や社会人生活を経てさまざまな家族の形を知り、家族の仲が良いことは決して当たり前ではないと気づきました。

そして、私は自分の家族が大好きなのだと改めて実感させられたのです。

自分が親となり共働き育児を経験している今、当時の実家が3人の子どもを育て上げられたのは、間違いなく家族の「総力戦」があったからだと思わずにはいられません。

あの時代に、父が日常の育児を担っていたことも全く「当たり前」ではなく、きっと多くの苦労があったのだろうということも。

思い返せば、私が小学校の中学年か高学年くらいまでは、だいたい母が17時半、父が18時前には帰宅し、18時には家族7人全員で食卓を囲んでいました。

今思えば、毎日家族7人が揃って手料理を囲むなんて、どれほどの贅沢だったかと思います。

あの決断をした父は、単純に家族みんなで食卓を囲む穏やかな時間がいちばんの幸せだと感じていたのかもしれません。

少なくとも私は、あの時間が本当に何より貴重だったんだと実感しています。


今の我が家は、きっと多くのみなさんと同じように、夫婦以外に大人の人手はありません。

それでも、私の中にある、働きながら家族で協力し合うことへの高い解像度は、あの総力戦の日々が残してくれた遺産です。

これからも私は、今の私の家族と、私たちのやり方で、このバトンを繋いでいこうと思います。


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