AoE2DE バイキング 新キャンペーンシナリオのメモ
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主人公: ハーラル3世苛烈王(1015-66)。
ハーラル3世の生涯
ハーラル1世(美髪王)から数えて4代目の子孫である。20歳年長の異父兄、オーラヴ2世による王位奪還のための戦争に参加するが、1030年にノルウェー反乱貴族軍に敗れ兄は戦死、キエフ公国へ亡命してキエフ大公ヤロスラフ賢公*に仕える。ヤロスラフの妻はハーラルの遠縁でもあったため歓迎され、ポーランド遠征やビザンツ、エストニア等との戦いで活躍したという。
*リューリク朝の創始者から数えて5世代目に当たる名君。リューリクとその兄弟らは、ロシア諸族の招聘を受けノヴゴロドを拠点として勢力を伸ばし、9世紀から16世紀半ばにかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した。
その後、約500人の兵を率いて1034年にビザンツ帝国へ移り、ヴァリャーグ親衛隊の司令官となって各地の戦役で活躍した。地中海のアラブ海賊相手の戦役や小アジア/アナトリア、メソポタミア地方やエルサレムへ派遣され、更に1038年にはシチリア遠征にも参加している。半遊牧民のペチェネグ族や、ブルガリアなどビザンツの宿敵との戦いでも大いに活躍した。
仕えていたビザンツ皇帝ミカエル4世が1041年末に病死すると皇后ゾエを中心とする政争に巻き込まれる。皇后ゾエはマケドニア王朝の皇女・皇后、後の女帝である。夫(たち)の死後に彼女との再婚によって次の皇帝が決まる時世であり、ハーラルもその候補の一人であったとか。たが、ハーラルは1042年に当地を去り、キエフ公国を拠点に故地回復を目指す。
当初は後のデンマーク王スヴェン2世との共闘によりスカンディナヴィアの奪還を目論んだが、兄の遺子であるマグヌス善王との間に妥協が成立(1046)。翌年にマグヌスが落馬がもとで死去すると単独の王となる。デンマーク王スヴェン2世との抗争(~1064)で優勢を得るもデンマーク征服はならなかった。
イングランド貴族トスティ・ゴドウィンソンの要請を受け、1066年にイングランドへの遠征に踏み切る。それは奇しくもノルマンディー公ギヨーム2世のイングランド侵攻の数ヶ月前のことであった。9月、フルフォードの戦いで勝利。そしてハロルド2世(ゴドウィンソン)を相手取りハーラル最後の戦闘となったスタンフォード・ブリッジの戦いが火蓋を切る……
前後の時代
ハーラル美髪王を含め、バイキングの英雄たちの時代についてはこちらの記事も参照。
ヘイスティングスの戦い 1066年
1066年1月にウェセックス朝のイングランド王エドワード懺悔王が60歳を過ぎて嗣子なく没すると、賢人会議の取り決めによりハロルド2世が即位。しかし、上述のように英王室の血を引くノルマンディー公ギヨーム(ヴァイキング首長ロロの末裔でもある)や、ハーラル3世などによる介入を招くことになる。ハロルド・ゴドウィンソンはこの戦いで優勢であったが流れ矢に当たり戦死。英王室はノルマン朝の時代となるが、この戦いが数日でも前後していればハーラル3世の系統がイングランド国王となっていてもおかしくなかったのだった。
こちらの記事も参照。
コムネノス朝のクーデター 1081年
上述の皇后・女帝ゾエは1050年に死去し、復位した妹帝のテオドラも1056年に嗣子なく没する。元老院議員であったミカエル6世が遺言で後継に指名されたがイサキオス1世コムネノスのクーデター(1057)により失脚。彼自身は2年足らずで病により退位するが、22年間のドゥーカス王朝の統治の後に甥のアレクシオス1世コムネノスが再びクーデターを起こし、コムネノス朝による中興の時代が始まる。
