『夜明けの18秒』Episode 5 旅のはじまりと、雪原の光【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episode2 不可逆な時間
episode 3 ひとりの記憶、ふたりの放課後
episode 4 記憶が目を覚ます時
Episode 5 旅のはじまりと、雪原の光
夜明け前の空は、深い静寂に包まれていた。世界はまだ眠りについていて、家々の窓には薄い光が灯っていたけれど、それは目覚めというよりも、名残のように思えた。眠ったまま、永遠に優しく舞う白い光の雪たちは、世界の終わりにそっと導くようだった。
僕はマフラーを巻き直し、ひんやりとした空気を吸い込んだ。胸の奥まで冷たさが届く。それは、現実という今日を表すようだった。
ミーシャは僕の足元をすり抜けて、雪の積もる道へと音もなく飛び出していく。一拍遅れて鈴の音がした時、ミーシャは雪の向こうへすでに消えていた。小さな足跡だけを残して。
ヨアケはすでに待っていた。ツリーハウスの階段の下で。どこか幼く、どこか大人びている。心と体の距離が、胸を打つ。
「寒くない?」
僕の問いに、彼女は首を横に振った。
「大丈夫。今日は寒さより、きっと光が強い日だから」
彼女の言葉は、世界を知り尽くしたような口ぶりで、凛とした逞しさがあった。
地平線の向こうには、深く澄んだ藍色に満ちている。雪原は闇と浮かび上がる満月の光に照らされて青白く反射する。そんな静けさが、心を薄く覆ったようだった。
「ナオ、これが、私たちの町だね」
不意に、ヨアケが両手を広げて深呼吸をした。フィンロッホという町を感じるように、白い息をつく。
赤らむ鼻の先、少しだけ凍って固くなった髪の毛。雪のような白い肌。そんな横顔から、目を離せなかった。どんなヨアケも、愛おしく思えた。
「私は、この町と、この町の人たちが好き。行こう、ナオ。今日という一日が、本当に一日として終われるように」
僕はもう一度こっそりと、後ろを振り返る。煙突から細く煙を上げる家々が、おとぎ話の絵本の挿絵のように静かに並んでいた。白の世界に埋もれて、すべてが夢の中の風景みたいに見えた。
そして、あのネバートレインが待つ場所へ。氷を含んだ風が僕たちをさらった。雪が、光をまとって舞い上がる。誰かの記憶のかけらが、そっと空に放たれていくようで、少しだけ、心が痛い。
僕たちは、止まった時間の町を背にして歩き出す。ふたりの足跡を残して。
フィンロッホの町のはずれ。静まり返った並木通りの奥に、ぽつんと立つ古い時計屋がある。看板は雪に埋もれ、窓は凍って曇っていた。僕たちは、大きく息を吸う。白い息がふわりと消える頃、足を前に進めた。
チリンチリン。
小さな鐘が鳴る音とともに重い扉を押すと、しんとした空気が出迎えた。壁一面に飾られた無数の時計たち。どれも止まったままで、秒針の音すら響かない。この空間だけが、時間から切り離されているようだった。
「ナオ、よく来たね」
奥のカウンターにいたのは、白髪の時計職人、”セディ”だった。皺だらけの手で懐中時計を磨きながら、彼はゆっくりと顔をあげた。
「辿り着いたかい?約束の人と」
僕はヨアケを見た。セディさんは、満足そうに頷いた。
「ここはね、約束の人と、約束の時、を待つ時計屋なのさ。徐々に記憶が蘇る頃だと思っていたよ。さぁ、入りなさい」
セディさんの目は、まるで何もかも知っているようだった。懐中時計を木製のカウンターにそっとおいて、セディさんは、ふっと笑うように息を漏らした。銀色の蓋の中で秒針は、時を刻んでいた。
カチ、カチ、カチ、カチ…と。
背後でヨアケがぽつりとつぶやいた。
「……この場所、うん。なつかしい」
ヨアケはそう言うと、時計の部品が並ぶ棚の前で立ち尽くしていた。
「小さい頃、ここに来たことがある。セディさんに、“壊れた時間って直せますか?”って聞いた気がする…」
セディさんはふっと微笑んで顔をあげると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「時間は、直すものじゃない。進めるために、心が必要なんだよ。…まさか、このやりとりがまた、できるとはなぁ」
セディさんは視線をヨアケに戻した。薄く笑みを浮かべている。久しぶりに人の笑顔を見たような気がした。
「あの時の言葉、私の中に残ってたよ、セディさん」
セディさんは、息をつき微笑んだ。
「そうか。ヨアケ」
そのとき、雪を踏み鳴らす曇った音が近づいてくるのが聞こえた。ベルが鳴り、重たく引きずるように扉を開けて現れたのはパーシさんだった。
「やあ、ナオ。そして、ヨアケ。ちゃんと来たね」
ミーシャは彼の足元に寄り添い、しっぽを立てて鳴いた。
「ミーシャは優秀だ。ちゃーんと連れてきてもらったよ」
彼はそう言って微笑んだあと、店の奥に並ぶ時計たちを見回した。
「どうやら、世界が進み始めたみたいだ。終わりに向かって。雪がやんだと思ったらこの有様さ」
パーシさんはそう言いながら、袖についた雪を玄関先で払った。扉越しに吹き付ける風は一段と強くなり、雪はまた降り始めたようだった。木戸がガタガタと揺れる。
世界は終末に向かっていた。
僕の生活の端々には、昨日の僕からの小さなメッセージが至る所に残っていた。
”セディの時計屋へ。はじめよう、僕たちの今日を”と。思い出すことに迷いがなくなった時、わきたつ泉のように記憶がすぐに戻るようになってきていた。
「大気が不安定になってきた。これからさらに雪が降り積もる。防寒の準備はいいかい?君たちが目指す始まりの町までは、そう簡単な道じゃない。セディ、時計の調子はどうだい」
セディさんは、ピクリと眉を上げた。
「誰に物を言っているんだね?パーシ」
パーシさんは満足そうに懐中時計に目を落としたあと、「セディ、あれを」と、促した。セディさんは足を進めて、彼の背後にあった古い棚を開けると、一枚の古びた地図を差し出した。僕の持つ地図よりも、はるかに古い物だった。紙の端の方には、小さく”クレーンフェルト”と記されている。
パーシさんは、セディさんの出した地図を開き直して、カウンターに広げた。
「道順をおさらいしよう。ナビゲーターはミーシャ。今日は、ネバートレインに乗る、本当の意味で最後のチャンスだ」
パーシさんは、ミーシャに軽くウィンクした。そこには小さく紡がれた絆があるように。旅の始まりに、心臓がうるさく音を立てた。
「この時計屋からさらに北へ進めば、“時間の泉”があることは、もう知っているね?」
パーシさんは、古い地図の端に指を滑らせながら続けた。
「このあたりから先は、道という道がすっかり雪に埋もれてしまっている。ミーシャは雪に沈まない身体を持っているが、その足跡も、すぐに風に消されてしまうだろう。この雪のせいでね」
店内の時計たちが、ほんの一瞬だけ、静かに耳を澄ますように息を潜めた。
「大切なのは、ミーシャを見失わないこと」
パーシさんの指が、泉の脇をなぞり、さらにその先へと移動する。
「泉を越えたら、ヒルトップの丘を登り、なだらかな斜面を下っていく。その先に、雪の中に沈むようにして観測所が見えるはずだ。それが目印。そのときは、西へ向かいなさい。月が沈む方角だ。雲も分厚いし期待できないだろうがね」
彼は一度、目を閉じた。沈黙が重い。
「道は、単純。ただ……この雪だ」
視線が、僕たちの足元に落ちる。
「そのスノウブーツも、少し古びて見える。君たちの身体は、まだ幼い。特にナオ。君の体は、まだ6歳のままなんだ」
ヨアケが一歩前に出ると、パーシさんは微笑んで彼女を見た。
「ヨアケ。ほんの少しでいい。ナオを、助けてあげてくれるかい?」
ヨアケは、静かに、迷いなく頷いた。
「それから。これから大事なことを言う」
パーシさんはそう言って、カウンターにのる、銀色の懐中時計を持ち、差し出した。
「この時計屋にあるすべての時計は、いくら修理をしても、もう動かない。この時計以外はね」
蓋には一筋の傷跡が残っている。それを開けると、秒針は確かに進んでいた。
以前は狂ったように行ったり来たりしていた秒針が、今はまっすぐに時を進めていた。
そして、僕とヨアケ、ミーシャをそれぞれに見た。
「夜明けの道標。最後にセディに修理を依頼しておいた。腕は鈍ってなかったようだね?」
パーシさんは意地悪く笑った。
「誰に向かって、まったく。……ほら、いい音だろう?」
初めて動く時計を見た気がした。
カチ、カチ、カチ…
迷いなく進む秒針に、胸があたたかくなった。
「これはルビーの受け石をひとつだけ交換したんだ。少しでも摩耗を防げば、時は正確に進むのさ。たったそれだけで、未来は変わるからね」
パーシさんは、満足そうに鼻で笑った。
「この時計は、持ち主に返すのが正解だろう。ヨアケ、どうする?」
ヨアケは、静かに時計を受け取った。
そして、僕の手にそっと、預けるように銀の懐中時計を手に握らせた。
「ナオが、持ってて」
パーシさんも、セディさんも、無言でその光景を眺めていた。あたたかい懐中時計と、ヨアケの手が僕の手によく馴染んだ。
「朝、6時41分18秒。ネバートレインが動き出す唯一の時刻だ」
パーシさんの声は、朗読のように静かで重たく響く。口を開くだけで、彼の世界にそっと引き込まれていくようだった。
「この世界は、毎日が繰り返されているようでいて、実は少しずつ終わりに近づいている。雪も、人も、建物も、ゆっくりと劣化しているのに、時間だけが進まない。それは、誰かがこの世界の針を止めたからだ」
セディさんがそっと言葉をつなぐ。
「フィンロッホは終わりの場所だ。でも、クレーンフェルトだけは、今も列車が通う。神様が残してくれた、最後の贈り物かもしれない。人が、人として生き直すための──」
パーシさんが言葉は、重たく響く。
「だが、この町にも一つだけ、始まりの町へ続く道が残されている。クレーンフェルト。そこだけが、明日を知っている場所」
パーシさんはミーシャを抱き上げた。
「ミーシャの目を見てごらん。この瞳のコバルトブルーは、あの時間の泉の色だ。彼女は、この世の終わりを見た猫。そして、記憶の伝達人でもある」
僕の胸に、ミーシャが飛び込んでくる。すると、心の奥に押し込まれていた記憶が、音もなく流れ出してきた。
白い雪。動かなくなった時計台。誰も気づかないうちに失われた昨日たち。そして、世界の終わりを ⸻。
ゆっくりと、白銀に埋まるフィンロッホの町、家、人々。そして、沈黙。
誰も、絶望しない不思議な残酷な世界。学校も僕の家も、時計台も、白く染まり、埋まっていく。永遠の時を刻むように。
瞼の奥に次々と景色が浮かぶ。ただ、互いを抱きしめて、冷たくそのままの姿で保存されていく世界。銀色の懐中時計と、黒い懐中時計の針が狂ったように弾け飛ぶ ⸻。
どこか既視感のある目。その目は、ただ、僕を捉えている。何も言わずに。ただ、口角を上げて。僕の決意はこの時、確かなものになった。
「ナオ。今日が最後のチャンスだ。ネバートレインは、今日という名の駅にしか来ない」
「パーシさん。なんとなく、そう思います。でもなぜそれを」
僕が尋ねると、彼は少し笑って、肩をすくめた。
「野暮なことは、聞かないことさ。ただ、言えること。それは、この世界の違和感を感じてるのは、君たちだけではないということ。誰しもが、どこか感じている。町の住人の表情を見ればわかるだろう?フィンロッホは、終わりの町。どこか諦めている人たちが、終点の駅に選んだことも、また事実」
僕は、そっと拳を握った。僕が毎日”今日”を過ごしていた時間を想った。
情けなくて、肩がふるふると、震えた。6年間。僕は毎日を、ただ繰り返していた。どこか違和感を感じていたはずなのに。ここは、終わりの町。だとしたら…
「僕は……明日を作りたい。僕自身の時間を、みんなの時間をもう一度進めたい」
セディさんが頷いた。
「付添人はひとり。ミーシャは、ネバートレインまで。その先へ行けるのは…」
「ヨアケ」
僕はまっすぐと彼女の名前を呼んだ。ヨアケは静かに頷いた。朝のひかりのようなまなざしで。
僕は、懐中時計に目を落とした。
決意もまた、秒針と共に進みはじめた。
「ナオ、ヨアケ。本当の自分を取り戻すんだ。チャンスは、これっきり。健闘を祈る」
パーシさんも、セディさんも、やさしく微笑んだ。
「みんなは…?一緒に行こうよ」
僕はその微笑みに問いかけた。
「野暮なことは聞くな。」
また、パーシさんは肩をすくめて笑った。
「ナオ、ヨアケ。君たちは希望だ。振り返らなくて良い。時間は不可逆なんだ。戻る列車はない。前だけを見て。時間が迫ってきている。パパとママに別れを伝えておいで。さぁ、行くんだ」
パーシさんと、セディさんが、僕たちをやさしく抱きしめた。あたたかいぬくもり。寂しくて、優しい別れの温度だった。
足元にはミーシャがしっぽを巻きつけて、小さく『にゃおん』と鳴いた。
僕たちは、時計屋を出た。
雪がさらに強く吹雪いていた。月はもう、見えることはなかった。
不意に、暗闇の中で肩にドンと、衝撃を受ける。
黒いコート、大きな帽子。顔は見えず、ただ、口元だけが笑っていた。シャン、と鉄のチェーンが音を立てた。地面に、ひとつの黒い懐中時計が雪の中に転がる。
「やあ、ナオくん」
その声に、背筋が凍った。
男は懐中時計を拾って、雪を払った。慌てて顔を逸らし、咄嗟に、ヨアケの手を握って走り出す。冷たく体の芯まで響くような、冷たい氷のような声だった。
パーシさんの声が、次々と浮かび上がってくる。
『……この世界を滅ぼそうとする者がいる。
決して目を合わせるな。決して、言葉を交わすな──』
背後に、風が強く吹いた。時間は不可逆なんだ。僕は、もう振り返らない。
そして、家に戻ると、コーンスープの香りがした。パパとママが笑っていた。時計なんてないはずなのに、随分と早い朝食の用意がされていた。ヨアケも、自然に食卓に座り、ミーシャは床でミルクを舐めている。みんなが、心のどこかで知っていたのかもしれない。これが、別れになるということを。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
そこに立っていたのは、トコさんだった。
「ナオ、スノーブーツ、きつくなってないかい?」
顔を赤らめたトコさんが、そこには、立っていた。雪がダウンコートとニット帽に積もっている。傘もささずに、来たんだろう。鼻は赤らんで、すこしだけ頬は焼けて痛みが見える。
「ナオのサイズは頭に叩き込んである。君の成長も、僕は、ちゃーんと知ってる。良い旅を」
トコさんはそっと、新しいスノウブーツを僕の胸元に預けた。一本一本縫い付けられた、あたたかくて、丈夫なスノウブーツ。
トコさんのスノウブーツは、僕の人生のすぐ隣にいた。変わらない毎日を、ただ、見守るように。僕はトコさんの作った足元に守られていたんだ。この笑顔と共に。そして、心の縫い目がほつれないように。あたたかい涙が自然に溢れて、一筋頬を伝った。
「トコさん、また、必ず迎えにくるから」
トコさんは笑った。遠くを見るような眼差しで。
「雪がね、きっと明日はもっと深くなる。でも、それでいいんだ。ぼくは、ぼくの今日を生きるから。ゆっくりと。自分のペースで。それが、ぼくの終点なんだ」
風がふわりと吹いて、彼の姿は雪の中に消えていった。雪の上の足跡が、瞼を覆う。
さぁ、行こう。始まりの旅へ ⸻。
ネバートレイン目指して。
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