「母と私」言えなかった海外子育ての辛さ
昨年の5月、日本から母がドイツへ来てくれました。その1カ月の滞在の様子については以前、ご紹介させていただきました。
この母の滞在中にあった出来事の中で、私達親子の関係を大きく変える出来事がありました。今回はそちらのお話しをさせていただければと思います。
母と私の中和剤
5月のある日、私はドイツでお世話になっている日本人のAさんを家に招待していました。彼女は夫が趣味で通っていた日本語教室の先生をされている方で、私がドイツに来るよりも前から夫とは知り合いでした。
私が夫と友人として知り合った時にAさんを紹介してもらい、かれこれ10年以上のお付き合いとなります。Aさんは母と同世代、ドイツ生活で辛い時はよくご飯をご馳走になって色々な話を聞いていただくこともしばしば。彼女は私にとって「ドイツの母」のような存在でした。
母とAさんは2020年の私の結婚式の際に知り合い、同年代という事もあり意気投合。今回のドイツ滞在で、母から「またAさんとお話ししたい」と要望を受けていたので、Aさんも招いての食事会をしました。
夕方から、子供たちも交えてにぎやかな食事会が始まりました。子供たちを寝かしつけた後も夫も含めて4人で話に花を咲かせていました。夫は恐らく5割も理解していなかったと思いますが…。
そして話題は子育てについて…。
Aさんから「こんな人懐っこくて笑顔に溢れる子供たちになって、頑張ったわね」という言葉をいただきました。
しかし「自分はドイツにいながら日本流の子育てを目指してやってきたが、正しかったのか自信がない」と私。
するとAさんは「ここはドイツなんだからそんな事しなくていい。日本人のお母さんみたいに完璧じゃなくてもいいし、ここでできる範囲でやればいいのよ」と言ってくださったのです。
この4年半、そこが一番自分を苦しめていたことは分かっていました。でも「ドイツ流の子育てをしたくない」という強い意志があり、それを変えることもできず。その葛藤を誰にも口に出せずにいました。もちろん母にも、子育ての辛さについてここまで核心的な事は伝えたことがありません。
Aさんの言葉に、私は肩をそっとなでられたようでした。そして今まで抑えていた感情が一気に溢れ、それ以上話を続けることができませんでした。
強い母、吐けない弱音
私が母に弱音を吐くことができなかったのは、「母を心配させたくない」という思いからではありません。
母は典型的な昭和の「強い母」でした。弱音を吐かず、他人にも子供にも厳しい。そして子供を褒めることはしませんでした。かと言って母娘の仲は悪かったわけではなく、ただ「本音で語る」ということをあまりやって来なかったのです。
母は子供4人を育て上げ、私が高校生の頃父を亡くしてからは家を守ってきました。そして自身の義理の母である祖母を100歳まで自宅で介護。そんな母に弱音をぶつけることは、私にはなかなかできませんでした。
しかし、思いもかけずAさんをきっかけに本音を吐露した私。私がずっと抑えていた気持ちを知って、母も涙を浮かべていました。
Aさんはいつも、さりげなく核心をついてきます。今回は私が素直に吐き出せなかった思いを引き出し、親子関係の課題にまで切り込んで…。
この食事会がなければ、恐らく私は母に弱音を吐くことはできなかったでしょう。
それからは母の滞在中、私も少しずつ母に子育てに関する弱音をぶつけることができるようになりました。
自分が母になって
私自身も母となり、自分はというと…母とは比べ物にならないほど子供に弱音を吐いています。悲しい事があれば子供の前でも泣きます。私は母のように強くなることができません。しかしその代わりに、子供たちの前では「正直でありたい」のです。
彼らが道に迷った時、助言が欲しい時、弱音を吐きたい時、喜びを分かち合いたい時…
その時に寄り添える母になりたい。それは私が母に求めていたもの。そして40年近く経ってやっと母と分かち合えるようになったもの。
もしかしたら、子供たちに尊敬されるような母にはなれないかもしれない…。でも子供たちと私が心を許し合える存在になることが、私なりの母への親孝行なのかもしれません。これは"反面教師"ではなく、”母から学んだこと”だからです。
きっと母は心の中で思っているけれど、絶対に口にしない言葉。
「生まれてきてくれてありがとう」
私は毎日子供たちに伝えています。母が言えなかった言葉を代弁するように…。
見出し写真は本文の内容とは直接関係ありませんが、私が日本に住んでいた頃に母と訪れた「三峰神社」の写真を選びました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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