フィレンツェの春【9】:イル・マニーフィコ
あらすじ:
教皇と手を組み牙を剥くパッツィ家。ピエトロの警告に、ロレンツォとボッティチェリはそれぞれ「彼女」の名と像を示しながら、都市の誇りを懸けた思想を展開する。伝説が、こうして誕生する……
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■ 海豚の紋章
パッツィは、フィレンツェの石そのものに根を下ろす。
始祖パッツィーノは十字軍の伝説だ。エルサレムに一番乗りを果たし、聖墳墓の火をこの町にもたらした。
サンタ・クローチェの領地。
アルノを越えて東へ向かう商隊。
語り継がれる武勲。
どこの馬の骨かもわからぬ「薬売り(メディチ)」がやって来るはるか以前から、この町の富と共にあった一族。
あまりにも古く、あまりにもこの町と一体の血統。
由緒あるマグニアーティ(旧貴族層)の誇りは、この瞬間も沈殿しつづける。
家紋には、二頭の海豚が跳ねる。
海のない都フィレンツェにおいてなお、彼らはこの海獣のごとくあらゆる「流れ」を知っていた。
水脈、鉱脈、そして権力の潮目。
乾いた内陸の都で、「水」の匂いを嗅ぎ分ける稀有な一族。
柔らかな曲線を描くその姿は優美に泳ぐ。
だがその曲線には、凶暴な獣性も隠されている。
広場で歓声を浴びることを知らず、詩人を抱え、画家を養う華やぎとも縁遠い。 町全体が祝祭に塗り替えられた光景は、彼らの家風には馴染まない。
だが、銀行家としての冷たい嗅覚と、この町の血肉そのものであるという自負、そして古き武家貴族の嫉妬と執念は、祝祭よりもはるかに重い塊となって、この町にこびりついていた。
そして今。
その名が、ローマから届いた湿った短い報せと結びつく。
蝋燭の炎が、わずかに揺れる。
「……パッツィ」
誰の声かははっきりしなかった。
5人が集う書斎には、重く凍てつく沈黙が再び落ちている。
■ 砲兵はプラトンを読まぬ
教皇の野心と、ロレンツォが拒絶した4万ドゥカート。
その穴を埋める別の「財布」。
名門貴族の執念と教権が結合し、メディチ家に牙を剝く。
それはイタリアの均衡を根底から覆す序曲。
行きつく先は、戦乱の巷(ちまた)。
「なるほど」
言うと、ヴェネツィア特使ピエトロ・ロレダンは、髭が生えかけてきた顎に右手を回し窓から外を眺めた。
「どおりで今宵、やけに海豚たちが跳ね回っておったわけだ」

ロレンツォ・デ・メディチは口角をあげてそれに同意する。
しかし応えるかわりにアンジェロ・ポリツィアーノに顔を向け、目で合図した。
若き官僚は問う。
「特使殿はかつて、若き日を金角湾でお過ごしになったとか」
ピエトロは外に向けていた視線を詩人にやると、表情を和らげて頷いた。
「いかにも、詩人殿。まあ三男坊の定め、体のいい人質よ。とはいえ、スルタンの宮廷ではいろいろなものを見聞きした……。海豚も飼われたのがおった。かわいい顔をしているが、その実あれは凶暴で、船底を割ることもある」
言うと真顔に戻る。
指輪のラピスラズリが、月光を受けて深い海の色を返す。
サンドロ・ボッティチェリは、その青とピエトロの言葉の合間に揺れる色を追っているようだった。
暖炉の炎の明かりを映す橙は、遠い記憶の金糸と、どこか似ている。
「トルコ人の帝国に飲まれる前の晩まで」
ヴェネツィア人が言うと、その指輪のはまった指が、窓の縁を軽く叩き始める。深い青と金の粒が、波のリズムで月光を細かく刻む。
「ギリシア人は自分たちの都を『世界の光』だと信じていた。哲学、詩、法、大聖堂、そして古代の記憶。それらが町を守ると本気で思っていた」
咳払い。そして続ける。
「……だが悲しいかな、砲兵はプラトンを読まぬ」
ロレンツォは目を閉じたまま動かない。
アンジェロはわずかに身じろぎする。
それを制し、ピエトロは首をゆっくりと振って静かに継ぐ。
「拙者からすると、お手前方のような石の町の民が、本当に恐ろしい……。美を、信じすぎておられる」
暖炉の火は甘く、いまだ苦いというのに、空気は冷える。
部屋はしばらく無言だった。オリーヴの細薪が爆ぜる音だけが時間の存在を告げる。
■ オンニサンティの光
それを視野に収めていたボッティチェリも沈黙の中で一呼吸置いた。
あらためて息を吸いかけた刹那、ロレンツォが、画家の吐息に合わせるように短く言葉を発した。
「だが……、美を忘れた都市が、長く生き延びた例(ためし)もない」
ピエトロは指を止める。
そしてフィレンツェの主の答えに満足したかのように口角を上げた。
笑みには皮肉と、それと同じくらいの抑えがたい敬意が含まれていることを、ヴェネツィア人は隠さなかった。
「そのとおり……。だから貴殿は危険なんだ。ロレンツォ・デ・メディチ」
部屋が再び沈黙に吸い込まれたとき、 赤い光を強弱させる薪が、また小さく崩れた。
乾いた音。その余韻だけが、しばらく残る。
そこへ、低く通るテノールが静かに重なった。
「……オンニサンティで、お見かけしたことがあります」
ポリツィアーノの議事録を書く手が止まる。
「夕刻でした。ちょうどアヴェ=マリアの祈祷が終わった頃で……、蝋燭の煙がまだ身廊に残っていた。窓から入るアルノの湿った風で、白い煙がゆっくりと流れていたのを覚えております……。最初は、光かと思いました」
画家の声は静かに響く。
アンジェロは息を殺してそこにある顔を見た。しかし声は、どこか遠く離れたところから聞こえてくる気がする。
「祭壇脇で、ヴェールが揺れたのです。振り返ったその横顔に、ほんの一瞬だけ、西日が差した。金ではなく……、銀でもない。うららかな春の午後、水面にだけ、すぐに浮かんで、消えてしまう……そんな夢のような……、けれどもはっきりとした、眩い色でした」
彼はそこで言葉を探すように一旦口をつぐんだ。
ロレンツォ以外の目が、画家の頬がこけた面長の顔に向けられる。
「私はその時初めて、頭でではなく、心から……、体の底から、本当に分かったのです……。なぜ古代の詩人たちが、美を女神として描いたのか」
部屋は目を閉じたまま、聞き耳をたてている。テノールの囁きが続く。
「……そして、都市は、壁や軍隊で生きるのではない。ほんの一瞬でも、人がこの世界は美しいと信じられる限り……、町は、決して輝くことをやめない。たとえそれが滅び去ろうとも、その輝きは、いつまでも残る、ということを」
言うとボッティチェリは目を閉じ、痩せた体をその葡萄酒色のズッポーネ(外衣)の中に縮こまらせて、夜の観察者に戻った。
■ 春の名前
――いつまでも、残る。
アンジェロは無意識に、何度も繰り返した。
繰り返すうち、画家の瞳の中に垣間見た気がしただけのおぼろげな姿が、次第に輪郭をともなった像を結ぶ。
それは、今宵の祝祭に足りなかったもの。
このフィレンツェにとって、こんなにも近くにありながら見つけられずにいた、本当の春。
ロレンツォ・デ・メディチは、目を閉じた顔を暖炉に向けたまま動かない。微笑の仮面を取り払ったその顔は、橙の色を映すとずいぶん若く見える。
一拍の間を置いて、やはり赤く染まったその唇から、ひとつの名がようやく、零れて落ちる。
それは、母音の一音一音を慈しむように確かめるディアレーフェの韻律で、ゆったりと歌われたかのように響いた。
刹那、部屋は炎もろとも凝固する。
詩人と画家がそれに反応し、喉を締め付けられたように、閉ざしていた口をさらに堅くした。
——シモネッタ・ヴェスプッチ。
フィレンツェの主は、いつのまにか双眸を見開いていた。らんらんと輝いている。
アンジェロは今まで感じたことのない、言葉にならない悪寒に震えた。
目の前にいるのは、自分が知る若き主人ではなかった。
24歳の若者に戻るとき、彼は決まって歯を出してニッと笑う。
友のすべてをありのままに受け入れる、あのきらきら輝く眼で、ホメロスやプラトンを語る。かつての恋愛話を、現在の厄介ごとを、歌にして笑い飛ばす。大きい鉤鼻から出る早口は、あまりに鷹揚で懐が深く、あまりに儚く愛おしく……、
要するに、あまりにも人間的なのだった。
しかしここで言葉を発しているのは、そんな陽だまりのような若者ではない。暖炉の奥に潜む古い柱礎の石が、長い眠りから目覚めて人間の姿を借りた、そんなもののように見えた。その声は、彼自身の胸から発せられたものではないように、ひんやりと聞こえる。
「美は、我らの上に降りるものだ」
低く、深く、 空気そのものをゆっくりと押し広げる響き。
アンジェロは思わず息を止めた。
声が天井に触れ、そこから静かに降りてくる。
「それは人の手ではつくれぬ。ただ、訪れる。そして、選ぶ……。フィレンツェは、その選ばれた都市だ。ならば、世界はその選択に従うほかない」
詩人は羽ペンを握った指の震えを感じた。
主人が口にしているのは、甘美な歌の修辞などではない。
フィレンツェに彼女がいるという事実。
この単純な事実こそ、その確実な証明だ。
これは同盟の制約であり、宣戦の布告であると同時にまた、信仰の告白でもある。
ヴェネツィア人が突きつけた冷徹な現実に対し、フィレンツェの主は「美そのものによる選択」という紛れもない事実で応酬する。
それは途方もない傲慢のようにも思われた。
しかしその圧倒的な思想の告白の質量に、詩人の心臓は激しく脈打ち、めまいすら覚えた。
炎がぱち、と鳴る。 この町が、主の決意に応じている。
アンジェロはふと、宴で聞いた歓声を思い出す。
パッレ!パッレ!
イル・メッシーレ!
ロレンツォ!
ノストロ・カポ!
——イル・マニーフィコ。
誰かが、そう叫んでいた。
最初は酔客の即興だった。
だが、一人が口にすると、それは不思議な速さで伝播していく。
偉大なる者。
それは本来ならば、王に対する呼称だった。
貴族でもないひとりの男に向けられるには、不似合いな尊称だった。
——そういえば、あの日、それを自分も口にしていた気がする。
アンジェロは視線を上げ、息を整えた。
炎を前に、その光を目に宿す24歳の若者。
政治家、銀行家、外交家、そして学芸の庇護者にして祝祭の詩人。
そして今、この瞬間、教皇と貴族の権威をふたつながらに敵に回し、これと対峙する男。
もしフィレンツェが、一人の男に「春」を託すのだとしたら。
民衆はすでに、その名を知っていたのかもしれない。
Continua → フィレンツェの春【10】:ふたりのアモル
■ 登場人物と目次
