フィレンツェの春【10】:ふたりのアモル
あらすじ:
1474年、晩春のカレッジ荘。ボッティチェリ、アンジェロ、ルイージ・プルチはヴェロッキオのアモルを巡って議論を交わす。ジュリアーノ・デ・メディチに導かれ、一行はマルシリオ・フィチーノが主宰する知の饗宴、アカデミア・プラトニカの深淵へと足を踏み入れる。
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■ 青銅の塊
1474年、五月も終わりに近づく夕刻。
フィレンツェ郊外のカレッジ荘にも、まだ春の光が残っている。
オレンジの色彩が一粒、空気に混じる。
ロッジアの四角く落ちる影も趣を変えつつある中庭の中心で、ひとりアモルが踊っている。
愛らしく優雅なその舞のパートナーは、一匹の海豚。
翼ある幼児は頬をぷっくりさせ、戯っぽく笑う。
青銅の肌は春の残り火を受けて濡れ、しなやかな腕と軽やかな足をみずみずしく輝かせる。海豚はその柔らかな腕の動きに合わせて体をくねらせ、ともすれば逃げ出すかのように跳ねる。
人獣一体の細かなステップ。くるりと回る軽快なバッロの舞。

サンドロ・ボッティチェリはその自在さに顔をほころばせ、ため息をついた。その手は、指先を無意識に擦っている。
画家が纏う紫紺色の軽いルッコ(長衣)が風に揺れると、その向こうから、かすれ声が転がるように近づいてきた。
「こいつはどう見たって、アルノの悪童だな」
画家が振り向くのを見計らって、酒と笑いで焼けた声が跳ねる。
「大物を盗んだはいいが、持って帰るところまでは考えていなかったようだ」
言うと、ルイージ・プルチが豪快に笑っている。
皮肉が顔になったような、四十がらみのひょろ長い男。
「ボッティチェッロ!今のは誉め言葉じゃ。だって見てみろ、このふっくらとした、筋肉になりたての二の腕に、いたずら盛りの身のこなし。なんだか妙に訳知り顔で、この童はフィレンツェそのものみたいじゃないか。愛らしく、美しく……、落ち着きがなく、ずる賢い。マエストロ・ヴェロッキオに会ったら、そう伝えておくれ」

早口で語尾が軽く跳ねる。そういえばこの詩人の快活なお喋りは、いつもそうだ。目の前の悪童のバッロと同じリズム。画家は思わず笑う。
「ごきげんよう、ルイージ。あなたの舌鋒にかかると、愛の神も泥だらけですか」
画家のテノールの声を受け、詩人はこれでもかと目尻を下げた。
やにわに手にしたレベックに弓を当て、その乾いた、やはり跳ねる弦の音で「その通り!」との返事。そのまま即興のバッロを奏でてアモルの周りをひとつ回ると、ボッティチェリの前に戻ったついでに言葉を発した。
「そういえば、この間の宴は大盛況じゃったな。わしも大いに飲んで、大いに楽しませてもらった。お前さんの工房で任されたプリマ・ファティーカ(初仕事)だったとか。いや、あれは見事な労作、じつに夢のようなプリマ・ヴェーラ(春)じゃった。海千山千のヴェネツィア人どもも、目を白黒させておった」
「そんなこと言われても何も出やしませんよ。マエストロ・プルチ。お礼だけは言っておきますが。あなたが手放しで褒めるだなんて、今夜は雪になりそうだ」
画家は笑顔で、しかし空を本気で気にしている。
■ 天上と地上
「おや、これまた興味深い取り合わせですね」
しなやかで朗々と響く声。ロッジアの影から現れたのは、アンジェロ・ポリツィアーノだった。
「レベックとテノールの合奏とは」
やはり薄手の軽いウールのルッコが深緑の心地よい光を映す。
手にする分厚い写本はプラトンだろうか。フェルト帽から覗く濃い茶の巻き毛とその表情に、今日は若き官僚の気負いはない。
「ご機嫌麗しゅう、おふた方」
バッサ・ダンツァの流れる動きで頭を垂れると二人を通り越し、アモルの後ろに回る。濡れた青銅の背中に細い指先を滑らせ、続ける。
「悪童とは傑作ですね、プルチ先生。でも、アレクサンドロスが見たのは、そんな川の汚泥ではありませんよ。この海豚が跳ねてできる海の清らかな泡(アプロス)は、そこから生まれた美の女神(アプロディーテ)の記憶を呼び起こすはずですから」
ボッティチェリはやれやれと肩をすくめて苦笑した。
また始まった。こりゃ長くなるぞ。
案の定、プルチがレベックを構えて煽る。
「お、修辞学者先生(レトリクス)のご登場だな。さあ、逃げも隠れもせんぞ、どこからでもかかってこい!」
アンジェロのふくよかな朗誦が、それに応える。
汝、迷い子の神。
天上の黄金の光を翼ある背に受けて、うたかたの海を駆ける者。
その愛らしい笑みは、人を惑わすものでなく、この浮世の重力から、
我らが悲しき魂を、解き放たんがためのもの。
悪戯な黄金の矢をデルポイの聖獣と取り違えたるは、その証。
「──ねえ、サンドロ。マエストロ・ヴェロッキオが型に流し込んだ傑作は、『天上の愛』の現し身だろう?」
ボッティチェリは目を閉じ動かない。プルチの応酬を聞いてから判断するようだ。
それを確認する一拍を置いて、市井の詩人の声が跳ねまわる。
天井の情欲だのアプロディッティーノだの、
舌を噛むよな小難しいことを並べおる。
だがな、天使小僧(アンジェリーノ)よ、そなたの『天上の愛』とやら、
それは腹が減っても愛を囁くというのかな?
――見よ、このふくらはぎを。
酔いどれどもとアルノで泳ぎ回った挙げ句、肉屋からサラミをかすめ取ってきたに相違ない。
「……なあ、ボッティチェッロ。マエストロ・ヴェロッキオが型に流し込んだ傑作は、市場の悪餓鬼のひとりだろ?」
ボッティチェリは目を開き、真顔で息を吐いた。
「……天上か、地上か」
その時、アモルの足元の影がわずかに揺れ、その踵が空気を切る音を止める。青銅のつるりとした肌に橙と緑が軽やかに重なり……、水面に現れては消える、ひとつの春の色になる。
風に運ばれるオレンジの香りの奥に、温められた水の匂いが混じる。
花はもっとも甘く香る寸前に腐敗を始める。
庭のどこかでまた水が一滴、石に落ちた。
■ イル・ベッロ
するとロッジアの奥から、柔らかな、深く響くバリトンの声が流れてきた。
「ひとりのアモルに大の大人が三人がかりとは。げに卑怯なり」
不意を突かれた三人が振り返ると、すらりとした長身の若者が肩を揺らして笑っている。
象牙色のルッコの上からでも見てとれる鍛え上げられた身体は、剣や槍はもとより舞踏会でも他を圧倒するしなやかさを備えている。
細面の顔。笑っているが、つねに愁いを帯びた大理石の表情。
さっぱりと寸分の隙もなく整えられた巻き毛が、春の残り火で赤金に染まる。
ジュリアーノ・デ・メディチ、「イル・ベッロ(美しき者)」。

「アンジェロにサンドロ、プルチ先生。花の都のサンタ・トリニタ(三位一体)が、そろってまたフィチーノ先生を怒らせるつもりですか」
若い二人は笑顔を返したが、プルチはレベックを指ではじく。
「おお、我が愛しのマルス、今日も今日とてまた一段と惚れ惚れする男っぷりよ。怒るだって?あの聖職者殿は、荒ぶる軍神とはわけが違うわい……。しかもわしらは、もっぱら学問的興味から、天上の愛が腹を空かすか問答しておっただけ」
柔和なマルスは晴れやかに笑う。
「ふふふ、その議論は、もう暖炉の前でちらほら始まっていますよ。先生方は皆お揃いです。プラトンはもちろんアリストテレスの注釈や『内的生活』の話で、盛り上がりを見せているところ。フィチーノ先生は『始まる前からこんなに騒がしいとは』と嘆いておられる。けれども、そのご本人が一番嬉しそうだ」
アンジェロは目を嬉しそうに細めた。
「では……、完成したのですね、フィチーノ先生のご著作が」
ジュリアーノは頷き、軽いウインクとともに返す。
「その通り」
「プラトンの言葉が、また我らの言葉になる」
若き詩人が言うと、春風がロッジアを抜けた。
「古代が、また口を開く」
プルチは鼻を鳴らした。
「ふん、口を開くのは結構。だが説教は勘弁願いたいもんだ。『汝、飲むために宇宙の中心の掃き溜めに生まれたり』ってな。そうだろ、酒樽小僧(ボッティチェッロ)?」
ボッティチェリも満面の笑みだ。
「はいはい。もう耳にタコができましたよ……。でも、そういうものも無いといけませんね。さもないと、フィレンツェは修道院になってしまう」
「おお、これぞ至言!さすが、典雅なる線の詩人の言うことはひと味もふた味も違う」
プルチがレベックを掲げる。
「今の勝負、マエストロ・ボッティチェッロの裁定により、わしの勝ち」
「いや、サンドロは何も判定してはいないと思いますよ」
ジュリアーノが大きな肩をバリトンで揺らす。
「……ただ、現象を見ているだけ」
その言葉に、ボッティチェリは少しだけ目を伏せた。
視線の先では、春の光を浴びた青銅のアモルが今にもまた踊り出さんと片足を浮かせている。
天上か、地上か――あるいは。
静かに微笑する画家を横目に、ジュリアーノが促す。
「さあ皆さん、泥仕合もほどほどにして、大広間へ急ぎましょう」
■ 饗宴の光
石段を上がって二階へ近づくにつれ、階下の庭の空気が確実に遠ざかり、かわりに丸みのあるざわめきが降りてくる。
笑い声。杯の触れ合う硬質な響き。リュートの低い爪弾き。誰かが朗々と読み上げるラテン語。そこへ別の誰かが被せるギリシャ語の引用。そして、陽気な話し声。これらが和音となって迫る。
オレンジの夕暮れはまだ残っているものの、その香りは変わっていく。
蜜蝋。細薪。赤葡萄酒。そして古い革表紙の乾いた匂いと、新しく湿った革の香気。
ピアノ・ノビレ(主階)は、すでに饗宴の光に満ちていた。
そこでは、光そのものが議論を交わす。
壁際の燭台には幾本もの蝋燭が揺れ、大広間の重心を支える「1465年の暖炉」の火も、控えめにではあるが、すでに赤金の呼吸を始めている。
そのゆったりとした反射が天井の格間装飾を照らし、青や深紅の織物の上を流れてゆく。窓はまだ開け放たれ、夕闇へ沈み始めるフィエーゾレの丘の空気が、薄く入り込んでいた。
大広間には、すでに二十を超える人々が集う。
「……そう、だから問題は、『魂』がどこまで自らを認識できるかだ」
扉口近くで学生と議論するのは、クリストフォロ・ランディーノだった。
彫りの深い目は穏やかだが鋭い。片手には杯、もう片方には羊皮紙の束を抱えている。
この師弟のやりとりを、ドナート・アッチャイウオリがにこやかに見守る。
ある者は身振り大きく議論し、ある者は長椅子に腰掛け、写本を回し読みし、窓辺で囁き合う若者の横では、年嵩の学者らが訳知り顔で葡萄酒を揺らす。
誰かが喚く。
「いや、それはアリストテレス的形相の誤った解釈に過ぎん!」
と、すかさずどこからか、また誰かが応酬する。
「そうだ、プラトンならもっと高く飛ぶ!」
「そうだ、そして飛んで飛びすぎて、天球に頭をぶつけるのだ!」
笑い。
■ 原動天
そして、マルシリオ・フィチーノ。
この柔らかな喧騒の中心でゆったりと微笑んでいる。
新プラトン思想を主導する哲学者。
小柄で痩せているが、この場全体を包み込み、そこに第一の運動を与える「原動天」として光を静かに撓ませる。
その聖職者の顔には疲労が忍ぶ。しかし双眸を彩る淡い青は、不思議なほど若々しく輝いている。彼は暖炉脇に立ち、肩をすくめて傍らのジョヴァンニ・カヴァルカンティになにやらぼやいている様子だった。

「おや」
フィチーノはジュリアーノ一行に目をやると、静かな声を、祈りのリズムで喧騒に割り込ませた。
「おやおや、おやようやく……、春の悪童たちが揃ったようだ」
広間のあちこちから笑いが起きる。
ジュリアーノもにこやかに肩をすくめる。
「先生、私が力ずくで引っ張ってこなければ、彼らが来る頃には、もう朝になっていたことでしょう」
「ほ、ほう?」
フィチーノは驚いた表情を見せたと思うと、すぐにまたいつもの黙考者の顔に戻った。
すると、大広間に散在していた喧騒がふっと静まる。
一斉に、手を取り合うような間。
アカデミア・プラトニカの主はその静寂を確認すると、やにわに開会を宣言する。
「では、その証明として、プラトンを擁護していただきましょうか。今宵のプロレゴメナ(導入の議論)にちょうどいい――ジュリアーノ・デ・メディチ殿」
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■ 登場人物と目次
