フィレンツェの春【8】:春の不在
あらすじ:
祝祭の裏で届く急報。メディチの危機がとうとう具体的な形をとる。フィレンツェのみならず、イタリア全土をも揺るがしかねない事態が現実になりつつある中、ボッティチェリがぽつりと口を開く……
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■ 乾いた血
広場の熱気の外側で、馬のいななきが短く響く。
蹄の音——伝令のギャロップ。
アンジェロ・ポリツィアーノは我に返った。
詩人はすぐさま群衆の輪郭を確認する。
篝火のまわりでは娘たちが踊り子とともに鈴を鳴らし、若い貴族と商人たちはイポクラソを掲げ、楽士たちも、なお陽気な旋律を保っている。
誰も、外側の異変には気づいていない。
ロレンツォ・デ・メディチの顔がこちらを向く。笑顔のまま、目だけで頷く。
アンジェロは火の輪の外へと、まっすぐに急いだ。
夜気は冷えきっている。
宴の熱が届かない暗がりへ出ると、馬がほとんど同時に、滑るように停止する。
マレンマ種の深い鹿毛。
濃い茶色は吹き出した汗でべっとりと泡立ち、月の光を白く返す。
トスカーナの荒野を生き抜いてきた野生馬の血を引くその眼は、疲労の極みにありながら、なおも鋭い輝きを失っていない。
一瞬鼻を鳴らし、銀の雲を吐く。
騎手の肩も、馬とともに激しく上下している。
煤けた深緑のマント。厚手の縮絨ウールには泥がところどころ跳ね、上質な光沢を月に返すフスチアンの袖口には、しかしながら旅塵が固まってこびりついている。
一瞬、腰に手を回し警戒の色を見せる。
黒いフェルト帽から、やはり妙に冴えた眼光がこちらを見下ろす。
ローマからの急使。
騎手は息を整えつつ周囲を見回し、湿った革の香気を放って言う。
「メディチ家家中のお方とお見受けする。ロレンツォ様に至急……」
アンジェロは頷き、続きを制した。
「ロレンツォ閣下付き書記官、アンジェロ・ポリツィアーノ。私が預かる」
相手は眼下の少年のような姿に一瞬ためらう。
だが、見上げる眼差しが宴の中心を背負う者のそれであることを認めると、素早く封書を差し出した。
暗い赤の蝋印は、月下では乾いた血の色だった。
見慣れた6つのパッレ(球紋)。
無駄に肉厚ではなく、必要最小限の蝋の中にメディチ銀行ローマ支店の印章。支店長ジョヴァンニ・トルナブオーニの副印も添えてある。
いよいよ……。背中が、そして胸の奥が冷える。
アンジェロは半歩ずれて上体を捻ると、銀の針のようなナイフで封を切る。
数行。
ほんの数行の文面。そこに、「イーモラ」の文字が重く淀む。
首筋から後頭部にかけて、血の気がにわかに退いていくのが分かる。
――この時が、来た。
広場から笑い声が響く。
「さぞかしお疲れでしょう。すぐに熱いイポクラソを届けさせます」
言うと、若き官僚は、足早に宴の様子が見える位置まで戻った。
篝火はなお燃えている。
フィレンツェは、その主なら、どうする。
■ 宴の後
アンジェロは何かを振り払うように瞬きすると、その目を凝らした。
すべてが、まだ春の幻想のまま崩れていないことを確認する。
光の海が、彼を待つ舞台のように揺れている。
炎の熱と甘い芳香が再び頬を撫でる。
アンジェロは光の渦へ戻る前に一度だけ深く息を吸った。
胸の奥に沈んだ冷気を、中へと持ち込んではならない。
ロレンツォ・デ・メディチは、ちょうどミネルベッティ家の人々と話し込んでいるところだった。
詩人に気づいた彼は杯を下ろし、誰にも悟られぬ自然さで歩み寄る。
「……何があった」
声は笑みの形を保ったまま、しかし低く短い。
アンジェロは、袖の影に隠すように封書を示した。 蝋印の赤が、篝火の光でわずかに濃く沈む。
「例の『橋』の件で……とうとう動きが」
ロレンツォの笑みは崩れない。 しかし杯を持つ右手の指が、その銀の表面に深く彫り込まれたアカンサスの葉脈を軽くなぞる。

「ようやくか」
その一語には、宴の喧騒とは逆の温度が宿る。
「はい」アンジェロが頷くと、ロレンツォはさらに一歩近づき、耳元で囁く。
「ノストロ・ミニストロ(我らが執事:フランチェスコ・サセッティ)と……ボッティチェリも呼ぶ。今夜は長くなる。二人には、そう伝えてくれ」低い声に流れ落ちる早口。
アンジェロは理解する。 宴の後の「夜の評議」。
さらに、ロレンツォは視線だけで広場の向こうを示す。
ヴェネツィア特使ピエトロ・ロレダンが、マグニアーティ(旧貴族層)の若者たちとともに杯を交わし、穏やかに談笑する姿がそこにあった。
「ロレダン殿にも、悪いが来てもらう」
「よろしいのですか、こちらの手の内を明かすことに……」
驚いて応じるアンジェロの唇を人差し指でいなすと、ロレンツォは再び笑みを整えた。
「それが目的よ」
短く言うなり、春の主は杯を掲げて人々の名を呼びながら群衆の中心へ戻っていく。 その背中には、光と影のくっきりとした明暗が揺れていた。
アンジェロも静かに息を整え、封書を確認する。
祝祭の音は香りとともにまだ続いている。
だが、夜はすでに別の顔を見せ始めている。
■ 異形の城塞
パラッツォ・デッラ・シニョーリア(執政官の宮殿)。
この市庁舎宮殿は、サンタ・トリニタ広場からほど近いシニョーリア広場に鎮座する。
後年「ヴェッキオ宮」と呼ばれるものだが、1473年にその名はない。
いずれにせよ、フィレンツェの政治的な威厳を象徴する建物である。
中世の影がそのまま石と化したような、異形の城塞建築。

ファサードは積み上げられた巨石が歯のように噛み合い、いくつもの隙間が、それぞれの闇を沈める。
圧倒的な石の塊の質量は、町中の冬の冷気を集めたものよりもさらに冷たく、重い。
祝祭の音が届いたところで石壁はそれを吸い込み、沈黙に解体して外界の歓喜をことごとく拒み続けることだろう。
そして、塔。
建築家の名を冠して呼称する習慣はまだない。
当時は「宮殿の塔」、あるいは単に「トーレ(塔)」と呼ばれ、その鐘が鳴ること自体が政治行為であり、共和国のあらゆる「声」を伝えるものとして機能していた。
しかし今、塔は沈黙のしじまにある。
非対称の配置で宮殿から生えるこの建築物が、夜の建物全体の不穏さを増幅させる。
冬の空に深々と突き刺さる漆黒の剣の威容。
その刃は分厚くなまくらで、それだけになお禍々しい。
■ パッツィ
「夜の評議」は、私室と公室が複雑に絡み合う二階の奥、 その最も閉ざされたロレンツォの書斎で開かれる。
春の主の顔をしていた男の横顔は、今や政治の凍てつく影に覆われている。宴のための豪奢な錦織の衣服を着たまま、胡桃材の重々しい机を前に、部屋の最上座を占める。
全員に目くばせし、口火を切る。
「ロマーニャの橋が落ちた。ノストロ・ミニストロ、どう考える?」
発言を促されたのは、彼の右手に座るフランチェスコ・サセッティ。
メディチ銀行総支配人、当年五二。
長年欧州全土の支店を統括し、莫大な富を動かしてきた男。その顔には、冷徹な計算高さと数々の修羅場をくぐり抜けてきたことを物語る深い皺が刻まれる。

「はい、教皇聖下によるイーモラの買収は、確定と見てよいでしょう。しかし、教皇庁の懐具合では4万ドゥカートもの大金は到底出ません。 わがメディチ銀行が融資を断ったとなれば、他の『財布』を見つけたと考えるのが妥当です」
声は低く、乾いている。 ロレンツォは頷きもせず、ただ杯の縁を指でなぞる。
サセッティは続ける。
「くわえて……閣下が他のすべての銀行に教皇庁への融資を禁じていた以上、何者かがその禁を破ったことは明白 」
淀みなく明確な回答。空気の規則的な振動に合わせて蜜蠟の火が揺れ、彼の重厚な長衣の暗紫色が光を吸収する。
まだ誰も口にしていない損失を、すでに計算し終えている表情。
沈黙に部屋の空気がわずかに沈む。総支配人は続ける。
「……テゾリエーレ・アポストリコ(聖座財務官)たるメディチ銀行を差し置いてこのような事態になったとあっては、我らの信用は……」
刹那、ロレンツォは眉を上げ、静かにこれを継ぐ。
「地に堕ちる」
間。重く淀む空気。
それを、紙の擦れるかすかな音が震わせた。
戸口の脇に控えていたボッティチェリが、どこからか手にした羊皮紙を折ったり伸ばしたりしている。
画家の眼は、カンテラの光のオレンジに照らされた4人の顔に向けられ、瞬きを忘れている。
メディチ家当主の秘めたる怒り。
銀行家の老獪な執念。
ヴェネツィア特使の冷たい沈黙。
文官の若き焦燥。
彼らの強烈なコントラストが、その網膜を焼く。
永遠に続くかと思われた重い空気を、唸るような声がこじ開ける。
「……つまり裏切者は余を、すなわちフィレンツェを、敵に回す覚悟を決めた、ということだ」
そこへ、窓際からヴェネツィア人が無機質に口を挟む。
「ロレンツォ・デ・メディチ殿、貴殿との約束を反故にした者が誰であれ、『橋』が落ちたとなれば、この二つ海の地の天秤が崩れるは必定……。セレニッシマはメディチの獅子身中の虫よりも、まずそちらのほうを気にすることでしょう」
カンテラの火が揺れる。
机に敷かれたマムルーク絨毯の幾何学模様が、光の移動で体積を得る。
フィレンツェの主は窓際には目をやらず、その絹のような、なかば金属のようなウールの質感を凝視しながら口角を上げ、静かに答える。
「アドリアの女王が秤を案じるというのであれば……、その虫こそ、大いなる秤に最初に手をつけた者。断じて放置するわけにはいかぬ……。その汚らわしいブタのような手を、ひねり潰す」
「マルゾッコ(フィレンツェの獅子)は、腹で悪さをする虫が既にわかっている、そういう口ぶりだが」
ピエトロが目を細めて問う。
ロレンツォはヴェネツィア人の波で洗われた目尻の皺を認めると、顔を向けてニッと歯を出して笑う。
ピエトロは目を見張る。
宴で見せていたものとは正反対の、鋭く凍てつく狂気が混じる微笑。
「いかにも……。だからその点については御心配には及ばぬ。ノストロ・ミニストロ」
サセッティは素早く事もなさげに、ヴェネツィア特使に向かって言う。
「教皇聖下からの最後通告以来、われわれはあらゆる手段を講じて教皇庁を中心とした金の動きを探ってまいりました。そもそも4万ドゥカートもの大金、秘密裏に動かせるものでもありません。為替手形をメディチ銀行を経由せずに発行するとなれば、派手な動きが出ます」
ロレンツォは頷き目を見開く。
そして総支配人の語尾に被せてたっぷりと、その名を口にした。
「……パッツィ」
■ カンナエ
ボッティチェリは、無意識に羊皮紙を揉みつづけている。
部屋の全体を捉える視界の奥、暖炉脇に置かれたカッサーパ(長持椅子)には、カンナエの戦いが蝋燭の明かりに浮き出ている。
彼の師匠、フィリッポ・リッピの巧みな絵筆で蘇る古代ローマの激戦。

重装歩兵の累々たる骸。
密集陣形をもって最後の抵抗を試みる兵(つわもの)たち。
盾が幾重にも重なる円環。
その中心、死の定めの真っただ中に、光が灯る。
ハンニバル率いる騎兵の群れが、左右から一気にこれを平らげる。
―—しかし、見よ。
銀の帯のアウフィドゥス川は彼らを支えてなお横たわり、その向こうに立ち上がる砂塵には、金の粒子が混じる。
不意に、画家は呟いた。
「今夜の宴には、春が足りませんでした」
誰もすぐには意味を解しなかった。
アンジェロだけが、わずかに顔を上げる。
ボッティチェリは手元をそのままに、月を見上げて続ける。
「花輪も、詩も、金糸もありました。ですが……欠けているものがあった」
相変わらず乾いた皮のこすれる音、そこへ静かな、高めのテノール。
「いま、分かりました」
暖炉が爆ぜる。「都市そのものが、不安を知っていたのです」
ピエトロは無言のまま、画家に目をやる。
その視線を知ってか知らずか、ボッティチェリはなおも続ける。
「人は美しいものを前にすると、不安を忘れます……。ですが今夜、人々は、これを忘れきれてはいなかった」
画家は、そこで初めてロレンツォひとりを見た。
「だから、本当の春が来なかった」
ロレンツォの指先がほんの一瞬だけ震えたのを、アンジェロは見逃さなかった。
おそらく、春が来なかったのではない。
春を呼ぶ「器」を、まだ見つけられていないだけだった。 祝祭の中心に置かれるべき何かが、まだ現れてはいないだけなのだ。
フィレンツェの主の眼差しに光が灯る。
暖炉や蜜蝋の炎ではない。それは政治家の冷徹と美を信じる者の熱狂が、分けがたく混じる静かな火だった。
と、アンジェロの印象を裏付けるように、ロレンツォは宣言する。
「この町に、美を思い出させてやらねばならぬ」
Continua → フィレンツェの春【9】:イル・マニーフィコ
■ 登場人物と目次
