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フィレンツェの春【7】:祝祭の詩人

あらすじ:
祝祭の光に包まれたサンタ・トリニタ広場。ロレンツォはアンジェロとサンドロ・ボッティチェリとともに作り上げた「春」を武器にヴェネツィア特使と外交の火花を散らす。その裏では、ローマからの不穏な伝令の蹄音が近づいていた……

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■ 祝祭の光(ロレンツォのソネット)

ロレンツォ・デ・メディチは、卓越した政治家であったと同時に優れた詩人でもあった。

生涯で150編前後の詩を残すが、その多くは書斎の黙考から生まれたものではなく、都市、祝祭、舞踏、政治といった実際的な生と結びつくイメージを、俗語であるトスカーナ語で歌う。

たとえば今日「カンツォニエーレ」としてまとめられているのは、ソネット、カンツォーネ、バラッタなど、さまざまな形式と内容をもつ抒情詩群である。

1473年のヴェネツィア特使を迎える席でも、公式な記録にはないものの、メディチ家三代目当主はそのような詩を実際に披露したに違いない。

たとえば「祝祭の光」と言い慣わされるソネットは、つぎのようなものである。

世界が私たちに与えてくれた短い歩みのあいだ、
喜びは夕暮れの風のように逃げ去る。
それでも、広場の全体は生気を取り戻す、
(というのも)祝祭が人々の心を再び照らすゆえ。

人生の儚さゆえ、祝祭は見ている、
都市全体の活力(生命の力)を。
なぜなら、歌声が高く空へと放たれるところでは、
夜を超える光が、必ず生まれるからだ。

こうしてフィレンツェは、笑いが立ちのぼるとき、
過ぎ去ったどの時代にもまして、生き生きとして見える。
その時、私たちの魂は、天により近しくなるだろう。

得た名誉や富が、いったい何の役に立つというのか、
もしそれらが、祝祭が価値を持つその日に、
時を、決して落ちない恩寵へと変えるのでなければ。

ロレンツォ・デ・メディチ、「祝祭の光(ソネット)」1470頃


■ 嫉妬
1473年、サンタ・トリニタ広場。
人工の春の森は、宴もたけなわであった。

しかし、聞こえるのはロレンツォ・デ・メディチの歌声と、自ら奏でるリュートの調べ。

月桂樹と星の透かし彫り
あの日、執務室で見たときには黒檀のペグが緩んでいたが、それも今宵は完璧に調整され、陽気でありながらどこか儚い音色を響かせている。

ヴェルソ・ディ・キウーザ(締めの詩行)がゆっくりと閉じられる。リュートもまた名残惜しそうに最後の1小節の弦を震わせ、それから振動が収まるにまかせた。

静寂。
篝火の爆ぜる音だけが、広場のどこか遠くで乾いた余韻を返す。

アンジェロ・ポリツィアーノは、来賓席の後方から沈黙を見渡していた。

この若き詩人は、今やフィレンツェ宮廷における文官の柱であり、マルシリオ・フィチーノの哲学とならんで、文学の一翼を担う。

顔には、年に似合わぬ官僚の緊張が色濃く浮かぶ。
アルキテット・デッリ・スペッタコリ(祝祭の造営師)として、この重要な歓迎の宴の統括を任されたのだ。額にはうっすら汗が滲み、暗い栗色の巻毛がこめかみに張りついている。

静寂の中、若者はその主人を凝視する。
――まただ。

歌は、技巧だけを言えば決して完璧ではなかった。
声域は広くなく、高音には明らかに掠れが混じっていた。旋律も、ナポリ宮廷の楽人たちのような甘さに欠ける。
詩句にしたところで俗語であり、古典ラテン詩の洗練された均衡から見れば、比べるべくもない。

しかし、イル・メッシーレ――我らが主は「終わり」を知っている

どこで声を落とし、
どこで間を置き、
どの一語を夜気へ残せば、人がつぎの息を吸うことを忘れるのか。

それを、本能で知っている。

この詩を、この旋律を、今夜の空気の密度に合わせて微調整したのは、確かにこの自分だ。

とはいえ……、アンジェロは苦笑を漏らす。
若き詩人の嫉妬。


■ ヴェネツィア人
宴席は、まだ誰も動かない。

ヴェネツィア特使ピエトロ・ロレダンもまた目を閉じ、杯を持つ右手を止めている。

薬指の印台指輪も動かない。
こちらを向いた印面は、ラピスラズリの青地の中央が銀の線で区切られ、それぞれ3つずつ六芒星の配置で金があしらわれたものだ。

このロレダン家紋章を支える深く澄んだ青も、炎の光を吸収して黒く、夜の海の蒼に沈む。

潮風に鍛えられた瞼だけが細く開く。
内側の灰青色の瞳が、炎の向こうのフィレンツェの主を測っている。

歌を聴いていなかった目ではない。
少なからず旋律に捕らえられた目だ。
だが、それは今や値踏みする目に変わっている。

ヴェネツィア人は、どれほど感動しても、心の片側で勘定を続けるものだ。その冷静さこそが、海の共和国の命脈を今日までつないできた。
アンジェロはそれに気づくと、むしろ安心した。

―― よろしい。
そう簡単に魅入られてしまうような相手では困る。

と、ピエトロはゆっくりと杯を卓に置き、大きく手を叩いた。
これを合図に、春の広場が拍手と歓声の渦に一気に巻き込まれる。

ロレンツォはリュートにキスし、流れる動きで満面の笑みを八方に返した。


■ 二頭の獅子

群がる人々の列に愛想を振りまきながら、ロレンツォは杯を手に特使のほうへと歩み寄った。足取りは軽く、和やかに踊るように。

「ロレダン殿。アドリア海のたおやかな波音に慣れたお耳に、無調な歌を失礼いたした」

ピエトロはフィレンツェの主と目を合わせると、もう一度手を叩いた。
「……なんのなんの、感服いたした、メッシーレ。ロレンツォ殿の陽気で懐かしい歌も、このうららかな森ではまた格別に響きますな。……エーゲ海の波間で聞いたなら、セイレーンの魔法よろしく、我が身を船の帆柱に縛りつけて警戒するところです」

「魔法?」
ロレンツォはにっと歯を見せた。

「私はただ、はるばる御足労をかけた友人をもてなそうと、少しばかり焚き木を多めにくべただけ……。その香しい火が、硝煙の匂いを一時でも晴らすことができることを願って」

ピエトロは眉を上げて杯を掲げ、 その影の奥で目尻の皺を見せると、ゆっくりと焚火の花に視線をずらした。

アンジェロは、そのやり取りを息を詰めて見守っていた。
天と地ほども異なりながら、しかし兄弟のようにも見える二頭の獅子が、互いの爪の鋭さを静かに確かめ合っている。


■ 宴の熱

むしろ危険なのは、この町の人々のほうだった。
サンタ・トリニタ広場の空気は、彼らの熱病に浮かされかけている。

頬を赤らめた若い絹商人たちは、杯を掲げるたび歓声を上げ、イポクラソ(スパイスワイン)をこぼす。
娘たちは踊り子たちとともにオレンジの枝を髪に挿して鈴のように笑う。
古参の貴族たちでさえ、メディチ家を守銭奴の僭主扱いすることもすっかり忘れ、いつのまにかその厳格な表情を崩している。

宴の熱が、どこかで焼ける蜂蜜の甘い香りとともに、人々の身分をゆっくり溶かしている

アンジェロはその様子を観察しながら、無意識に爪を噛みそうになるのを堪える。

―― 行き過ぎるなよ。

祝祭は火に似ている
弱ければ人は震え、強すぎれば理性を焼く。
春はその危うい均衡の綱渡りをしている。


■ 頬を見る者
そのとき、背後から少し高めの、よく通るテノールの声が彼を呼ぶ。

「わが天使(アンジェロ)は、こんなに美しい晩だというのに、詩人の顔をどこかに置き忘れて来てしまったらしい」

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)

アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。
通称、サンドロ・ボッティチェリ。

画家はいたずらっぽい少年の目を詩人に向け、ニヤリと笑う。
アンジェロより九つも年上のはずだが、彼らの間には年の差がまったく感じられない。

彼はミニストロ・デッレ・グラツィエ(美神たちの執事)として、やはり今夜の美術統括を任されていた。

アンジェロは肩越しに振り返る。顔がほころぶ。
「そういう君も、ウェヌスに匿われてどこかに姿を消していたようだね、アレクサンドロス?」

画家はふっと真面目な顔になり、年下の詩人の冗談に答えずに呟いた。
「……人の顔が、みな赤くなりすぎている。君は人の流れを気にしているようだが」

そこで詩人も我に返る。
詩人は魂を、画家は頬を見る、か。そう、君の言う通り、私は韻律より人間の流れのほうにばかり気をとられていた」

画家の痩せた頬に火の粉が迫り、手前で灰になって落ちる。

「なるほど。どうやら、火を少しばかり焚きすぎたようだ……。けれど、それだけに、熱が届いていないところもよく見える」

アンジェロは、返事の代わりに視線を巡らせた。

スピーニ家の老人は笑顔だが、警戒の色がこびりついている。
パッツィ家の若者たちは指で杯の縁を鳴らしつつ、陶器のような横顔を見せる。
毛織物組合の商人たちは上機嫌に歌い、会話を続ける。
シニョリーアの執政官たちは、酒杯と黒トリュフのタルトの影でヴェネツィア側の反応を探っている。

そして、ロレンツォ・デ・メディチ。

森の中央で立ち回り、やはりにこやかに歯を見せている。
だがアンジェロには分かる。

ヴェネツィア人と対決していてもなお、彼は誰よりも冷静に、この自分よりもはるかに慎重に、この季節全体を把握している。

歓声の強弱。
特使の沈黙とその意味。
炎の勢い。
月桂樹の列の左右。
酒の回り。
楽士と踊り子の疲労。
群衆の熱。

そのすべてを測りながらこの宴を作り上げている。
詩の一篇を編むように。

アンジェロはふと、胸の奥にある奇妙な感覚に気づいた。
羨望。そして、わずかな恐怖。

もし詩が本当に人間を動かせるのだとしたら、それは紙の上ではなく、今、このような場所でこそ可能なのかもしれない。
灰になった火の粉とともに、いつの間にかサンドロも姿を消していた。


■ 火が触れ合う音
獅子たちの応酬は続く。

「山に囲まれたこの町で、このような見事な、しかも塩漬けでないチョウザメが食せるとは。故郷(くに)でも、これほどの美味に会うことは難しい。しかもワイン蒸しは拙者の大好物」
ヴェネツィア特使は海の佳肴をレモンとともに頬張り、豪快に柑橘酒で流し込んだ。

そして、口を優雅に拭うと言葉の調子を変える。
「……硝煙を紛らすために、これほどの贅を尽くされる」
ひとつひとつ、噛みしめるような抑揚。

間。ロレンツォは少し眉をあげ、促すようにその続きをじっくりと待つ。
ピエトロは杯の縁を指でなぞりながら、 視線の先にある火炎の、さらに向こうにあるものを見るように目を細めた。

「東方の皇帝も、贅を尽くした挙句に二千年も続いた都を失いましたな……。このうっとりするような幻の春の後に来るのが、果たして実り豊かな季節なのか、それとも……すべてを焼き尽くす猛火をともなうものなのか。……フィレンツェの主はどうお考えか」

と、そのまま継ぐ。
ロマーニャの橋。これが何やら今、折れかかっている様子。火は、森の中だけで燃えるものでもありますまい」

アンジェロは息を呑む。

イーモラ。 ローマ教皇シクストゥス4世が野望の足掛かりとする都市。
これがローマの手に渡れば、フィレンツェが、そしてやがてはイタリア全土が火の海になる。――ヴェネツィア人が、ついに仕掛けてきた。

ロレンツォは一拍置くと、杯を軽く揺らしながら応じる。
「我らが故郷を南北に繋いできた、あの小さな橋……。確かに、あれは多くの火種を抱えているようですな。アドリア海の女王も、ペテロの鍵がどう転ぶかを占っているご様子」

ピエトロは遠くにやっていた視線をロレンツォに戻し、不動の沈黙で答える。ロレンツォは頷く。

「火種がどこにあるかよりも……、 誰が、その火を扱うか。それが肝要とは思いませぬか、ピエトロ殿。 ロマーニャの風向きは、この頃特に変わりやすい。 だが、火を恐れていては、 炉も、鋼も、パンも作れませぬ」

ピエトロの灰青の瞳がその言葉に反応し、わずかに揺れた。
「火を扱う者が賢明であれば、 確かにそうでしょう。 とはいえ」
彼は杯を置き、 低く響く声で続けた。
「火を求める者が多すぎる所では、火はしばしば持ち主を選ばぬもの。そうではござらんか?」

二人のあいだに、風がひとつ通り抜けた。銀の燭台の炎がわずかに揺れ、その揺れが、言葉より先に広場の空気を緊張させる。

ロレンツォは笑みを崩さない。 だがその春の仮面の奥に、 アンジェロは鋭い光を見た気がした。

「だからこそ、 友の来訪はありがたい。海の民は、火の広がり方をよく心得ておいでだ。そして我々、石の街に住む者は……火をどこで抑えるべきかを知っている」

ピエトロはふたたび杯を取り、 静かにロレンツォの杯に触れ合わせた。
「ならば、 互いの知恵が交わるところに、 新しい季節が生まれると信じましょう」

アンジェロは胸の奥で、 二人の言葉の温度を測った。
これが外交というものか。 火と火が触れ合う音は、 篝火よりも静かで、 はるかに熱い。


■ オルペウス
沈黙が二人を包む。 今度はロレンツォが銀の杯をピエトロのそれへ軽く当て、その沈黙を受け流す。

「少なくとも今夜、この広場にあるのは、セレニッシマの友人を歓迎する意志のみ。あなたがたが海を統べるのとおなじく、我々は『美』を統べる。それを互いに確認することから、新しい季節は始まりましょう」

ロレンツォの笑みにピエトロもわずかに口角を上げ、彼らは酒を干した。

「決まりですな。ピエトロ殿。貴殿にお見知りおきを願いたい者たちをここに」
フィレンツェの主は特使に歯を見せて笑うと、素早くこちらを向き、手筈通りに軽く頷いた。
サンドロの痩せた姿も、やはりどこからか、すでに現われている。

「アンジェロ・ポリツィアーノと、サンドロ・ボッティチェリ。今宵、ここに見事に春を呼び込んだ者たちにござる」

詩人と画家は一礼し、ボッティチェリは気負う様子もなさげに二人と言葉を交わす。

だが若き詩人の意識はなお、ロレンツォ・デ・メディチという男に囚われていた。

この男は、ただ詩を書くのではない。
人間の感情そのものに韻律を与えている

歓声。
沈黙。
陶酔。
警戒。
笑い。

それらすべてを、カンツォーネに仕上げるのだ。

喉がカラカラに干上がっていることに気づく。

もしこれが詩人の到達点なのだとしたら、
冥府の王を動かしたオルペウスは、やはり国を動かしただろうか。

その時。
広場の熱気の外側 、アルノ河岸へ抜ける夜の向こうで、馬のいななきが短く響いた。
石畳を打つ蹄の音がそれに続く。
遅参した貴族の馬の速さではない。

伝令のギャロップ

アンジェロは反射的に我に返る。
ほんの刹那、ロレンツォの目から笑みが消えたように見えた。

篝火が爆ぜる。
舞い上がった火の粉が、夜空へ散る寸前、血のような赤みを見せた。


―― 春が終わる。


Continua → フィレンツェの春【8】:春の不在

■ 登場人物と目次


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