【映画評】『殺し屋のプロット』(2023) 「絶対悪」の気配
『殺し屋のプロット』(マイケル・キートン、2023)
評価:☆☆☆★★
デヴィッド・フィンチャー監督『ザ・キラー』を凌駕するLAネオ・ノワールの誕生! というあまりに大げさな煽り文句に釣られ、それなりに期待して観に行ったのだが、残念ながら、期待には遥かに及ばない凡作だった。
急速に記憶が失われる病気を患った殺し屋が、息子が犯してしまった殺人の罪を隠蔽するため、残された僅かな時間で、人生最後の大仕事に打って出る――という物語。
「殺し屋」とは誰か。「組織」に依頼され、指定された人物を殺して報酬を得る、闇の世界のプロフェッショナルである。人が人を殺すという、この世界がどうしても必要とする根源的な暴力を引き受ける汚れ仕事であり、標的が殺される本当の理由を知らずともこなしていくことのできる職業だ。
主人公ジョン・ノックスは、これから殺す標的が麻薬取引に関わっていようが人身売買に関わっていようが興味を持たず、相棒がべらべらと標的の悪行について喋るのも制止するような殺し屋である。自分の暴力の意味を自分で考えるまでもなく、「組織」に従属している限り、自分の仕事には自分の与り知らないところで何かしらの意味付けがなされているはずだ――とでも考えているのだろうか。
では、「記憶を失っていく殺し屋」とは何者だろう。自分がどういう組織に属しているかも、誰に命じられて人を殺してきたかも忘れていく殺し屋――それはつまり、自分の暴力が「意味付け」を失っていく世界に投げ出された殺し屋であるだろう。別の言い方をすれば、自分の暴力には元々意味などなかったのだ、と気づいていく殺し屋だ。暴力の応酬には元々「根拠」など何もなく、人はただ無意味に人を殺しているだけだったのだ――という真実こそ、「殺し屋」が、認知症になることを通じて気づいてしまうものだったはずである。
だからこそ、ノックスは、劇中でしみじみ、「自分は標的たちについて何も理解していなかった。彼らは、敵営に落ちた兵士でしかなかったんだ」などと呟いてみせるのだ。――とはいえ、このようなセリフは、むしろ、ノックスが、標的について「奴らは悪人だから殺されても当然なのだ」と自分に言い聞かせるような性格だったのでなければ、活きてこないものでもあっただろう。キャラクター設定に不統一感があることは否めない。
いずれにせよ、映画は、認知症のノックスが投げ出された、道徳的判断とも組織の決定とも無関係に人が人を殺してしまうむき出しの現実を、観客の前にさらけ出さなければならなかった。そして残念ながら、この作品はそれに失敗していると言わざるを得ない。
最大の理由は、ノックスの息子マイルズが殺してしまう人物が、絵に描いたような極悪人だったことである。
マイルズがこの男を殺した理由は、自分の16歳の娘(つまりノックスの孫)が妊娠させられたことである。男は、娘以外の10代の少女たちにも性的な画像を送らせており、児童ポルノの前科もあり……、いわゆる「凶悪犯罪者」だ。
まあ、あまりに記号的な人物で、はっきり言って興ざめなのだが、しかし、マイルズが自分の殺人を父ノックスに告白した段階では、まだ、マイルズが自分の罪を軽くするために被害者を悪く言っている可能性もあった。息子の虚言の可能性をほのめかすことで、その後の展開に不穏な影を落とす――というような作劇もできただろう。
しかし、その後の場面で警察が被害者について捜査するにつれ、出るわ出るわ、被害者が実際に「凶悪犯罪者」だった証拠の数々が。
極めつけなのが、男の衣服をまくりあげたら現れる、ハーケンクロイツの入れ墨だ。ペドの上にナチ!
これはもう、被害者男性の肉体ではなく、『殺し屋のプロット』という映画の上に刻まれてしまった汚点としてのタトゥーだろう。繰り返すが、映画が描くべきだったのは、道徳的な価値判断とは何の関係もなく人が人を殺してしまう、「シニシズム空間」とでも言うべき寒々しい現実だったのである。こんな記号的な「絶対悪」を登場させてしまったら、その時点でおしまいだ。
当然ながら、ここに現れているのは、「シニシズム空間」へと足を踏み入れることなく、究極的な道徳観だけは何とか温存しておきたいキートン監督の欲望に他ならない。
何が善で何が悪なのかが直感的に理解しづらい現代社会において、無理矢理にでも「善」の側につこうとする者は、大抵の人間が「悪」と見なすであろう分かりやすい記号を持ち出してきて、それを過剰に叩くことで安心したがるものである。それ自体は大昔からの人類の習性というだけのことかもしれないが、この習性は、冷戦体制が崩壊し、グローバリズムの時代に突入して以降、なおさら顕在化しやすいものだろう。
「児童虐待者」とは誰か。「ナチ」とは誰か。それらは要するに、かつて、西側資本主義社会をその「外部」から脅かしていたものの亡霊に他ならない。「ナチ」=ファシズムについては言わずもがな、第2次世界大戦で封印された、「資本主義」と「共産主義」のオルタナティヴである。
そして、「児童虐待者」。自分たちの社会を脅かす連中が自分たちの子供をさらっていく――という恐怖は、西洋社会に刷り込まれた根源的なトラウマのようなものであり、社会の混乱期には、度々モラル・パニックとして表層化するものである。冷戦体制の崩壊とともに、単純にソ連を悪と名指ししていれば良い時代が終わろうとする頃、アメリカでは、「悪魔崇拝者が儀式のために児童を虐待している」というデマが流れ、根拠のない告発が続出する事態となった。「児童虐待者」は確かに絶対数の多い人々ではあるだろうが、その人々がネットワークを形成して明白な意志を持って社会に害を与えているというイメージには、独特のものがある。要するにそれは、共産主義革命のリアリティが決定的に失われつつあった社会で浮上した、革命派のネットワークを代替するものとしての「敵」の具体的イメージなのである。
そして今日、右派であれ左派であれ、敵にペドフィリアのレッテルを貼って攻撃する振る舞いはありふれたものとなっている。こうした振る舞いが、特定の政治勢力の背後に邪悪な「ネットワーク」の気配を嗅ぎ取りたい欲望の表れであることは明白だ。ハーケンクロイツのタトゥーを入れるような「バカウヨ」に児童虐待者のレッテルを貼る『殺し屋のプロット』然り、だ。
現在では地上から抹殺された「革命」――すなわち、「この世界」を根底から変えてしまうかもしれない力は、亡霊となって、ある時は「ナチ」の姿をまとい、ある時は「児童虐待者」の姿をまとい、世界の至る場所に潜んで、「この世界」を生きる人々の安心・安全を脅かしているわけである。彼らは、革命が不可能な――ということは何者も変革主体にはなれないはずの――世界で、極めて主体的に、この世界へと害を与えようと画策しているらしい。ということは、彼らと敵対し、彼らを排撃する側もまた、自らの主体性において世界を守ったことになるだろう。敵主体を名指しすることは、自分自身を「主体」化したい欲望の現れに他ならない。
さて、ノックスにとって「組織」とは、自分がただの犯罪者ではなく、プロの「殺し屋」なのだと担保するものだったとも言える。それは、ノックスの暴力に意味を与える一つの「主体」であり、ノックス自身の主体性を担保するものでもあった。だが、認知症が進行するにつれ、ノックスにとっての「組織」は、世界のどこかにあるらしいが実態がよくつかめない、「気配」のようなものでしかなくなっていくのだろう。それはさながら、世界のどこかでネットワークを張り巡らせているらしい、「革命」の亡霊たちのような気配であるはずだ。ノックスが投げ出されることになる世界は、「主体」が「気配」としてしか存在できない空間であり、また、どのような「気配」も道徳的根拠を持つことのできない空間だったはずである。そこでは、ただの殺人とビジネスとしての殺人、極悪人による犯罪と正義の制裁を分かつものは何もない。グローバリズムの時代のむき出しの現実において、暴力とはそのようなものでしかあり得ないだろう。
つまり、この映画は、病気を通じて「主体」を喪失し、現代的な「現実」へと投げ出されていく殺し屋を描くはずのものだったのだ。だが、「児童虐待者のネオナチ」という記号が映画の中に投げ込まれることで、ノックスは、「現実」に出会うことなく、「絶対悪」という敵主体と対峙する者として、自らの「主体」を保ってしまうこととなる。
しかし、本当は、ノックスと彼の息子は、映画の中で、「児童虐待者」や「ファシスト」よりもわずかでもマシな人間で居続けてはいけなかったのだ。
ノックスたちをそのように描けなかったところに、この映画が凡作の水準を超えられなかった理由があることは言うまでもない。すなわち、「絶対悪」から切り離された安全地帯の外へと観客を連れ出すことができなかった、ということである。
なお、「児童虐待(誘拐殺人)者」と「ファシズム」というテーマを取り上げた映画としては、フリッツ・ラング監督の1931年作『M』が必見だ。少女連続殺人事件が起きた都市で、警察とマフィアがそれぞれ別個に殺人者を追う――という特異なストーリーの犯罪映画である。ナチ政権樹立前夜のドイツで作られた作品とあって、フィルムには異様な緊張感が刻み込まれている。
1980〜90年代のアメリカを恐怖に陥れた「悪魔崇拝者による児童虐待」というデマについては、吉永進一の論文「記憶の中の悪魔」(『吉永進一セレクション第二巻 洗脳・陰謀論・UFOカルト』国書刊行会、所収)、ならびに2023年制作のドキュメンタリー映画『サタンがおまえを待っている』が要参照。
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