気づきの「けり」と、◯◯の「かな」 ~京極派スペース抄~
「心のままに詞の匂ひゆく」ように歌を詠む――鎌倉・南北朝時代の和歌文脈において異色であったこの歌論を、京極派という和歌グループは選択しました。
そんな京極派について、X(旧Twitter)にて毎週お話しています。
この記事は、そんな京極派スペースの音声を読み物として整えた京極派スペーステキスト版の一部を抜粋したものです。
2026年1月24日放送スペース「京極派の雑冬の歌」、1月28日テキスト化した「雑冬――雪ではなく心を詠む」より。
感情表出を主目的に据えた歌の多い、「雑」というジャンルの和歌について。
テキスト版の一部を抜粋しご紹介します。
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気づきの「けり」と、◯◯の「かな」 ~京極派スペース抄~
個人的には「かな」ってあんまり好きじゃなくて。詠嘆ですね。
詠嘆でくくられがちですが、「けり」と「かな」とちょっとニュアンスが違う。
「けり」って「気づき」が元々の意味になります。
自分の心の中に「来あり」。「きあり」がつづまって「けり」になったという説があるんですけど。
「心の中に入ってきた、気づいた、いま気づいたよ」ということで、気づきには驚きとか感動とかが伴うじゃないですか。良い意味の感動とは限らない、良くない意味の驚きも含めて。
気づきというのはそういう心の「ああ、そうだったのね」というものがあるので、それで「詠嘆」とか言われるんだけど、別に詠嘆したいのが「けり」ではなくて、「気づき」が元々の意味なんですね。
そう考えた時に、私「けり」は使い方によってはそんなにべったりしないという印象があるんですけど。
「かな」ってもう何て言うのかな。
「私の感動=当然あなたたちも感動するでしょ」
「私が嘆いていたらあなたたちも嘆きますよね」
みたいな押し付けがましさを感じるんですよね。
「京極派スペース抄」は以上です。ありがとうございました。
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