撫子の前で伏見院を思う ~三鷹もくもくデッサン会参加レポ~
昔、趣味で漫画を描いたり、似顔絵を描いたりしていた時期があります。
似顔絵はともかく漫画のほうは、いま思い返すと恥ずかしさしかない中二病ストーリーでしたし、
似顔絵のほうも、顔はともかく首から下まで描くとなると
「なぜそこがそうなる? 」
「このサイズの頭に対し、なぜ肩幅がこうなる? 」
みたいなことになっていました。
東京に出て、画家の親友が出来て、
「美しい絵は彼女が描けば良い。明らかにそちらに才も、才を補うだけの情熱もない私が、才も情熱もない分野にリソースを使うべきではない。私は和歌に集中すべきだ」
と考えるように。
彼女の絵が圧倒的なので、後ろ髪引かれる気持ちも残念な気持ちも、一分たりとも生まれなかったです。
ごく自然と鉛筆を手放すことになっていました。
そんな私が、先月しばらくぶりに鉛筆を握りました。
その経緯や、デッサンをしてみて感じたことなど、少々綴ってみようと思います。
撫子の前で伏見院を思う ~三鷹もくもくデッサン会参加レポ~
「得意」より「描きたい」を選んだ友
三鷹古典サロン裕泉堂 吉田裕子さんは本当にパワフルな方で、
東進ハイスクールで教えたりご自身のサロンなどで講座をしたりするかたわら、新内節やいけばななど習い事も多岐にわたります。
その裕子さんの趣味(?)のひとつが、通信制の大学や大学院で学ぶこと。
この春、京都芸術大学の日本画コースを卒業されました。
古典講座の資料に添える絵が自分で描けたらいいなという思いもあって、日本画を習い始めたとかで。
卒業制作は『源氏物語』紫の上の亡くなるところを描く、と早くから決めていたそうです。
しかし、これは自身おっしゃるのですが、裕子さん……人物画が決して得意ではない!
動植物の絵は本当にいきいきとして、美しく愛らしく、
特に小鳥さんの絵なんかはいまにも動き出しそうな臨場感で、惹き込まれます……。
実際、初めて人に買われた絵は、いまにも飛び立とうとするルリビタキの絵。納得! しかも、もともとの知り合いとかではない方のご購入だそうです。
「得意なものと描きたいものが必ずしも一致しないのがもどかしいところ」
と美大卒業記念個展の図録にも描いていましたし、どの回か思い出せませんがVoicyでもおっしゃっていたと思います。
梶間和歌の一推し。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 4, 2026
裕子さんの描く鳥さんはどうしてこんなにかわいらしいのか……。 pic.twitter.com/kpcOsgHFWL
それでも。それでもね、裕子さんは
当初の思いを貫いて、紫の上が養女である明石の中宮に抱きかかえられ、静かに亡くなるシーンを描き切ったのです。
個展会場はこんな様子です。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 4, 2026
作家本人は18時ごろまで不在ですが、代わりに私が受付しております。
予約不要、入場無料。
ぜひ遊びにいらしてください。#個展KISEKI #三鷹古典サロン裕泉堂https://t.co/XvIDjumyyZ pic.twitter.com/LnGCJPInTy
私は彼女の卒業記念個展にお邪魔したどころか、個展4日目は8時間ほどお留守番役をしたぐらいで、
その卒業制作を含め、裕子さんの絵に長く触れる時間を持ちまして。
「親友にすばらしい画家がいる。プロでもない私が絵にリソースを使う意味はない」
と、惜しいと感じることもなく切り捨ててきた「絵」という昔の趣味を、
趣味として、「ただ描きたいから」という理由でもう一度自分に許可してもいいのかもしれない、と思ったのかな。
上手く言えないのですが、心境に変化があり、
美大入学のころから裕子さんが毎月続けてきた「三鷹もくもくデッサン会」に初めて参加することにしたのでした。
伏見院を思いながら
いざデッサン会にお邪魔して、
「花を描くなら、最初は写真より実物のほうが」
「撫子とか案外描きやすいから」
と勧められるままに、裕泉堂の撫子の鉢植えと格闘すること約5時間。
「右から追ったらここにあるはずの線が、左から追うと存在しない! ずれる! 」
「まさしく『見ているようで見ていない』!!! 」
と、「見たままに描く」ことの困難さを痛感する時間となりました。
休憩中に読んだデッサンの本にも
「デッサンの下手な人は、デッサンが下手というより、対象をよく見ていない。観察が甘い」
という旨の言葉があり、「それな」と。
(余談ですが、こちらの小冊子の冒頭はこのデッサン体験で肉付けしています)
「自然を見ているようで見ていない」
「自然を愛しているつもりで、自己都合に引きつけて解釈していただけ」
という状態だった京極派の歌人伏見院の変化――
政変を経て卑小な自我が打ち砕かれ、目の前の自然をまっすぐ見つめ真の愛情をもって描くようになる変遷を、日ごろ京極派和歌の発信をするなかで語ってきましたが、
まさしく、それな!
撫子を、花を、葉を、見ているようで見ていない自分の観察の甘さを痛感する時間となりました。
それでもなんとかかんとか描き上げたのがこちら。


吉田裕子さんの裕泉堂 #三鷹もくもくデッサン会 に初めてお邪魔してきました。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 11, 2026
デッサンたのしい……!#お絵描きhttps://t.co/ooJxh66Zy3 pic.twitter.com/8REtn8I3tv
伝統や常識に囚われず「見たまま、感じたままに描く」ことがいかに困難か、京極派の初期の詠草からは察せられるのですが、デッサンでもまったく同じである……。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 11, 2026
見ているようで見ていなかった政変前の伏見院、愛しているようで愛していなかった初期の小松奈々よ🥲︎#京極派https://t.co/BXkfuJ4J4C
なんだか楽しくなって翌月も参加。


#三鷹もくもくデッサン会 2回目の参加でした。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 2, 2026
「なんか、雀が雀じゃない鳥みたいになって……」
「顔が凛々しいのよね。小鳥は小鳥でも川原とかにいそう」
「たしかに、庭にいる小鳥ではない」 pic.twitter.com/s76MC97ocj
「絵は描き手自身が投影されるっていうし、和歌さんかわいいというよりしゅっとして凛々しいからそれが反映されたんじゃない? 」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 2, 2026
その解釈でいきます!
趣味って、いいね
以前、三鷹駅前のびのび句会の合同句集が出たよというご案内記事を
「趣味で続けた俳句が、和歌ガチ勢の私を少し優しくした話」と題して公開しましたが。
そちらにこんなことを書きました。
同じく裕子さん主催、私が講師を務める「裕泉堂歌会」。
こちらの参加者には、もとからセンスがよく、国語力もあり、読ませる歌を詠む方もいれば、
勉強の仕方がわからないのかな、または勉強に充てる時間やエネルギーのないなかで、ありあわせの知識と身近な経験から歌を創って出しているのかな、と見える方もいます。
文法に弱さのある作品、詩情の扱いに弱さのある作品、時に音数の合っていない作品に出会うことも。
以前の私は、そうした作品を見るたびに「な、なぜ……???」と思ったものでした。
なぜそうした歌を詠むことができるのか、ほんとうに、心底わからなかったのです。
けれども、自分が俳句で同じようなことをしていると気づいたとき、そうした歌を詠む詠み手の心情がはじめて理解できた気がしました。
彼らは「手を抜いている」のではなく、そもそも短歌や和歌に人生を懸けていない。
自分の人生を豊かにする趣味としての熱量で関わっているだけなのです。
それは、私が俳句に対して持っている熱量と同じなのでした。きっと。
俳句に人生を懸けていないから、「句会前日にひねり出し、電車に乗る10分で推敲し提出する」ぐらいの向き合い方になる。
多くの歌会参加者も同様で、和歌や短歌はあくまで趣味・経験の一部として嗜んでいるにすぎず、歌会にもその熱量で参加しているのだ。
ああ、そういうことか、と腑に落ちた瞬間でした。
ほとんどの方にとって、和歌や短歌は人生の一部であり、人生そのものではないのだ。
私にとって俳句が人生そのものではないように。
そういう気づきをとおして、和歌ガチ勢の私が添削や指導でちょっとばかし優しくなれた、というエッセイだったのですが、
デッサン体験も同じ。
もし私が絵の先生に
「見たまま描けばいいのに、どうして見たまま描かないの? なぜ主観を入れるの? 主観が入るから変なところに線が来るんでしょう? あなたの絵が下手なのは全部あなたのエゴのせいですよ」
と言われたら、しんどいよね……。
本人は見たまま描いたつもりであり、その「見たまま」が「つもり」であるからこそおかしな線になっているわけなのに、
「なんでそうするの? 」
と言われたら、グサッと来そう。
だからといって
「それは『つもり』に過ぎないので、先入観を取り払ってください。きちんと見て、きちんと描いてください」
とだけ言われても、それが簡単にはできないから苦労するわけで。
それらはすべて真実である。
しかし、真実はしばしば人を傷つける。
私は幸い、世界を冷徹に見つめる京極派和歌に日ごろから親しんでいるので
「それ全部あなたのエゴですよ」
「先入観を取り払ってください」
と言われたら
「それが難しいのだが、そうすべきであるということは少なくともわかる」
と思えるけれど、
大半の人にそんな環境はないのだから、まあ、せめて
「先入観を取り払う努力を常日ごろからしていると、数年後にお歌が変わっているかもしれませんね。心の目の曇りを取り払うことを意識して生活してみてください」
ぐらいが良いバランスなのかなあ。
何度も何度も
「私は指導者に向かない! 一生プレイヤーでいる! 」
と心に決めては、ご縁があって指導側にもう一度立つ、ということを繰り返して。
俳句をとおしてなるほどと気づき、
今度はデッサンをとおしてなるほどと思う。
和歌・短歌指導者としてのレベルは、こうした葛藤のなかでいくらかは上がっているでしょうか。
すばらしい画家の親友がいたとしても、趣味で絵を描くことに意味がないわけではない。
人としての幅を広げる意味でも、趣味ってやはりよいものなのだな、と思いました。
それはそれとして、デッサン会への参加は今後も続けてみようと思います。
三鷹古典サロン裕泉堂 吉田裕子さん、いつも貴重な機会を本当にありがとうございます!
裕泉堂デッサン手帖
デッサン会への参加記録はこちらにつけてゆこうと思います。
三鷹もくもくデッサン会
三鷹古典サロン裕泉堂主宰吉田裕子さんのイベントです。
こちらをフォローのうえ、イベントの更新をお待ちください。
和歌物語の維持メンバーになる
和歌創作や発信といった活動を、経済的な不安定さに左右されることなく、これからも精力的に続けてゆきたいと願っています。
基本的な作品や文章などは、できるかぎり無料または低価格で、広く開かれた形で届けてゆきたい。
そのためには、この活動を支える側に回ってくださる方の存在が欠かせません。
「梶間和歌の活動や生き方に意義を感じている」
そして
「経済的に余裕がある」
という方には、この活動の維持メンバーとしてご参加いただけましたら幸いです。
noteのチップやメンバーシップなど、 ご無理のない形で、ぜひ。
もし、寄付という形に躊躇のお気持ちがありましたら、低価格のコンテンツのご購入という形でも等しく有難いです。
もちろん、作品や記事を読んでくださること、私の発信を受け取ってくださること、それ自体が私にとって大きな力。
経済的に余裕はないけれど価値や意義を感じている――そんな皆様からのスキやシェアなどにも、あらためて、心より感謝申し上げます。
今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。
この記事を書いた人


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