見出し画像

共同体への「回帰」はなぜ「解」にならないか(第四の主体のためのノート#4)


※このnoteでは4ヶ月遅れで「すばる」(集英社)誌連載の『第四の主体のためのノート』を転載していきます。『庭の話』の直接的な続編になる連載で、次の主著にするつもりで取り組んでいます。『庭の話』を読み、興味をもっていただけた人は、ぜひこちらもチェックしてください。よろしくお願いします。

1 国「家」でも「家」族でもなく

 ジョニー・ロレンスのあり得たかもしれない第二の生を考えること。それがこの連載の出発点だ。それはつまり、ゲームの勝者になれない人々のことを考えることだ。誰もがゲームの勝者になり得るということは、誰もが敗者にもなり得るということでもある。この問題に対してシリコンバレーを中心とした現代の資本主義は「成長」を手段ではなく目的化することで回答した。つまり、ゲームの勝者にならずとも、「成長」そのものを快楽として生きることが、人間の生を満たすというのだ。そして、その結果として多くの現代の労働者たちが「成長」の自家中毒に陥りつつある。この自家中毒を避けた人々は、ゲームの過酷さに耐えられなくなり、続々とアレルギー反応的に国家や家族に回帰している。
 しかしこの「回帰」は解にならない。それはなぜか? ここで思い出してもらいたいのが、そもそも国「家」や「家」族という古来より人類が備えてきた回路が、近代以降アイデンティティの置き場として再発見されてきたという歴史的な経緯だ。村落の共同体から解放された個人の多くは、都市において労働者となる。これまでのように共同体内の承認と宗教的な信仰が支えていた人間のアイデンティティは、このとき自由と引き換えにそれらを失う。そして自由を得ることで個人として生きることになった人間たちは、自己の生を意味づける回路を新たに求めた。それがより大きな共同体である国「家」とより小さな共同体である「家」族であったことは既に確認した通りだ。そしてこの二つの「家」がこれまでのようには機能しないことに問題の本質がある。国家はグローバリゼーションの中で(何度かの揺り戻しを経ながらも)確実に相対化され始めている。ローカルな国民国家の上位にグローバルな市場が存在する構造自体を覆すことはもはや現実的ではない。そして「家族」も同じだ。「家族」がアイデンティティの置き場になっていた時代とは、前世紀的な家族賃金モデルの機能した時代だ。経済成長と女性や子供への人権の拡張は、非婚化と少子化を必然的に呼び起こし、人類の何割かは確実に家族を持たずに生きる。そして家族そのものも長命化に並行して、流動的にならざるを得ない。少なくとも前世紀までのように、「家族」的なものが有効に機能することはないのだ。
 そしてこれらの古い回路への「回帰」、つまりアレルギー反応が、必然的に排外や差別に――移民差別やジェンダーギャップの激しい家族観に――結びつき、社会の分断を「加速」するのだ。

 こうした小さな歴史を追うことで明らかになったのは、すべての発端が労働者のアイデンティティの問題にあるということに他ならない。仕事――つまり経済的な生産活動を通じて――アイデンティティを確認することが難しいほとんどの賃労働者たちのアイデンティティの置き場はどこに設定されるべきなのかが、いま問われているのだ。

2 共通善とコモンズ


 では、どうしたらよいのだろうか。今日の世界において、この問題の解決策は概ね二つのパターンに分類される。
 ここで前述したマルクスの議論を思い出して欲しい。マルクスは資本主義下の賃労働の与える疎外に対して、幻想領域へのアプローチによる心理的な解決と現実領域へのアプローチによる物理的な解決の二通りの解を示した。国「家」や「家」族などの共同体にアイデンティティの置き場を再設定すること、つまり「国民」や「父/母」というアイデンティティを発見することは、前者のアプローチに相当する。このとき労働の与える疎外は解消されないが、国「家」や「家」族という、かつての村落の生活の共同体とは異なる(より大きな、あるいは小さな)共同体からの承認が個人のアイデンティティを安定させることができる。対して後者のアプローチが共産主義の実現であり、マルクスが推奨したものに相当する。マルクスは賃労働という制度を解体することで、つまり生産手段を労働者が共有し、資本家という存在を抹消することで疎外そのものを解消することを提案した。そして二〇世紀とは後者のアプローチが勃興し、無惨な失敗に帰着していった時代だと総括することができる。
 では、今日においてはどうか。右派のトレンドは従来の国「家」や「家」族の機能不全を、地域の伝統的な、生活の共同体の復権で補うという処方箋だ。前回確認したように、歴史的には国「家」や「家」族は、前近代における伝統的な生活の共同体が近代化の進行により相対的に解体し、求心力を低下させた結果として都市的な「個人」のアイデンティティの置き場として浮上してきた回路にほかならない。しかし今日の右派は、「家」族という小さな単位と、国「家」という大きな単位の間に地域に根ざした生活の共同体を再配置することで、この三者をシームレスに接続し、それぞれの機能不全を補うことを主張する。つまり、まず良き家庭人としての自己があり、その延長に良き隣人(地域住民)としての自己があり、さらにその延長に良き国民としての自己がある。この三つのアイデンティティは歴史的には対立してきたものだが、それぞれ以前のような力は発揮しないこの三者を接合することでSomewhereな人々のアイデンティティを再構築するのだ。
 この右派のアプローチはつまり、あくまで幻想領域における疎外の解消を追求していると言える。対してマルクスを引き継ぐ左派はあくまで現実領域からのアプローチを主眼に置く。つまり疎外を与える資本主義そのものの克服や縮小を主張することになる。具体的には、人類社会の内部に資本主義市場の機能しない領域を確保し、拡大することを主張する。ここでのポイントはこの市場の外部が「国家」ではないことだ。二〇世紀の共産主義国家の「失敗」を経た現代の左派のトレンドは国家という想像の共同体(イデオロギーにより、見知らぬ人間のメンバーシップを認める)ではなく、等身大の生活の共同体(顔見知りの人間同士のメンバーシップを認める)によって公共サービスを中心に資本主義市場「ではない」、そして国家の管理「でもない」かたちで運営される領域(コモンズ)を社会に拡大することを主張するのだ。

 右派の代表として挙げられるのは、パトリック・J・デニーンだろう。デニーンの仮想敵は本連載の表現に従えばビル・クリントンやバラク・オバマという固有名詞が象徴するAnywhereな人々のイデオロギーだ。グローバル資本主義という巨大なボードゲームを自由な個人がプレイすることで、イノベーションが促進され、経済が成長する。そしてゲームの敗者には経済的な「再分配」でケアを施すことを主張する。二一世紀初頭のアメリカを、そして世界をリードしたこのイデオロギー――リベラリズムとグローバル資本主義の結託――をデニーンはSomewhereな人々の、ジョニー・ロレンスのような人々の尊厳を破壊し、強く社会を分断すると批判する。
 デニーンは二〇一八年に発表した『リベラリズムはなぜ失敗したのか』において、開拓時代から続くアメリカの伝統的な地域社会を、共同体が正しく機能していた理想的なモデルとしてその復権を提案する【1】。
 デニーンはかつての――一九八〇年代のリベラル・コミュニタリアン論争時の――共同体主義者たち(若き日のマイケル・サンデル、アラスデア・マッキンタイア、チャールズ・テイラーなど)の影響下において、以下のように考える。人間は本来は共同体的な生物である。そのため共同体の共有する価値(共通善)を学び、自己の欲望を制限することを覚えることで成熟する。この共通善は顔の見える距離感の、生活の共同体のなかで共有される。そしてこの共通善に従って生活の場である地域の問題を、自分たちの手で解決する経験を通して、自己が世界に関与し得ることを正しく実感することができるようになる。この実感が人間のアイデンティティを強く支える――これがデニーンの理想とするモデルだ。
 しかし、近代社会を形成したリベラリズムによる個人の自由の政治的な尊重とそれを経済的に可能にする今日の資本主義は、村落的な共同体の共通善――具体的にはその伝統的な慣習や、宗教的な権威――を破壊した。そのため現代人は個人の欲望を制御することを学ぶことなく、「個人」として資本主義のゲームに参加させられている。この状況に対してデニーンは今日におけるそれぞれの地域の伝統的な共同体と、それらを精神的に支える信仰や、前近代的な家族観などの回復を主張する。かつての共同体主義者(コミュニタリアン)たちの論点が国家の想定すべき人間像(「自立した個人」としてではなく「共同体の一部」としての人間を想定するほうが現実的であると彼らは主張した)や、それに基づいた社会正義の基準(ローカルな共同性、具体的には伝統や宗教)の再設定にあったのに対し、デニーンら今日の右派共同体回帰論者は具体的な地域社会の再構築を主張する点と、そしてこの古き良き地域の生活の共同体の尊重が、(移民や妊娠中絶、同性婚などの問題を通じて)ナショナリズムや伝統的家族観の擁護というかたちで国「家」や「家」族といったより大きな/小さな共同体と接続し、個人のアイデンティティを支える物語の形成を主張する点で異なっている。

 一方の左派の代表としては、ジェイソン・ヒッケルを挙げておこう。今世紀の左派に特徴的な傾向として挙げられるのは、地球環境保護の観点からの資本主義批判だ。ヒッケルはその代表者で、気候変動リスクに対応するためには経済成長そのものを断念することが必要だと主張する【2】。これは経済成長を抑制すること――たとえば経済成長と二酸化炭素排出量の比例を「デカップリング」すること――という、今日の「西側」先進国の多くが選択する対応策と鋭く対立する。つまりヒッケルは成長を前提とする資本主義経済そのものの縮小を主張する。そこで提案されるのが、生活の脱市場化だ。具体的には医療、教育、住宅、交通、エネルギーといった生活を支える領域を脱商品化して、公共化することが提案されることになる。ただし二〇世紀の共産主義国家の「失敗」を経た今日の左派は国家の肥大を肯定することはできない。そのためヒッケルの提案する公共化は国家の管理と運営ではなく、コモンズ(共通財)の地域共同体による管理によって実行されることが望ましいとされる。このコモンズにおいては資本主義の成長を目的化したゲームが機能しないため、必要なものを必要なだけ生産することになる。これによって、人類は労働時間を短縮できる。余暇として発生する時間は介護や子育てなど、再生産のためのケアに充当するべきだとヒッケルは述べる。
 国家によるトップダウンの管理ではなく、かといって市場の見えざる手による最適化に期待することもなくボトムアップの管理を、つまり中央集権的な国家ではなく自律分散的な、ただし市場とは異なる回路による管理が主張されるのだ。かつての社会主義、共産主義運動において地域の自治は政治的イデオロギーを共有して結集した労働組合や政党組織、つまりあくまで国家の統制下にある団体に担われていたのに対し、ヒッケルなどの二一世紀的な左派の考えるコモンズの管理は、より地域に根ざした生活の共同体が想定されている。この共同体は右派とは異なり、共通善のような伝統的な価値の共有は強くは主張されていない。その一方で環境保護や資本主義批判などのより大きなレベルのイデオロギーを内面化した人々が、「国家」でも「市場」でもないシステムとして生産手段(コモンズ)の共有のために地域共同体を再構築するのだ。

3 共同体回帰とその限界


 ここではデニーンとヒッケルを便宜的に例示したが、彼らの共通点はその生活の共同体への回帰傾向にある。右派(デニーン)は労働疎外を感情のレベルで埋め合わせ、人々に承認を与える国「家」や「家」族の補完物として、左派(ヒッケル)は共産主義国家「ではない」脱市場の手段として、主に地域共同体への回帰を主張する。つまり二一世紀の今日においては思想的に相容れない左右の両派が、ともに今日のリベラリズムとグローバル資本主義を仮想敵に置いて共同体への回帰をその対案として示すことで、同じ地点に着地しているのだ。
 しかし残念ながら、これらの左右の共同体回帰は「解」にはならない。皮肉な話だが、それどころかむしろこれらの左右の共同体回帰こそが、分断を加速しているとすら言えるのだ。

 たとえばデニーンのような右派共同体回帰論者の重視する生活の共同体の共通善は、常にメンバーシップの問題に直面することになる。デニーンのアメリカ社会において回復すべきとする共通善に妊娠中絶や同性婚の禁止があるが、これは望まない妊娠の中絶を望む女性や、同性愛者は「そうではない」人々より強く、それも決定的に自由を制限されることになる。このとき抑圧されるこれらの人々が、その共同体から十分に承認されていると感じるのは、そしてメンバーシップを十分に認められていると考えることは難しい。共同体の共通善に従うことと引き換えに、メンバーシップを与えられ、その承認がアイデンティティを安定させるというモデルが前近代の人類社会の基本形だ。そしてこのモデルが近代社会で大きく後退した理由も同じメンバーシップの性質にある。共同体の規模が拡大し、メンバーの多様性が上がると公平にメンバーシップを与えることができなくなる。つまりそれを実行するためにはその伝統的な共通善に従って、実質的な被差別階級の存在を是認する他なくなる。そして社会の規模が拡大し技術が発展すると、被差別階級を内包した社会は安定的な成長を継続することが難しくなる。今日の旧「西側」先進国のように分断を抱えた社会は政治的に不安定になり、産業の高度化は性別や出自を問わず個人の才能を集約することで、イノベーションを促進することを要求するため、共同性の確保のために排除を是認する論理と相容れなくなる(アメリカ国籍を有する白人男性のみを採用する方針で、GoogleやAppleが成立することは難しい)。そのためデニーンの代表する右派的な共同体回帰は、常に共同体のメンバーシップの問題に倫理的にも、経済的にも直面することになる。
 この弱点が象徴的に前面化しているのが、デニーンとJ・D・ヴァンスの関係だろう。ドナルド・トランプ大統領を支えるヴァンス現副大統領は、自身の思想のバックボーンとしてデニーンの存在を明言する。ヴァンスはデニーン同様に個人の自由よりも家族や、地域、そして国家への帰属を重視すること、そしてアメリカ社会の伝統的な「共通善」の実現をも強く主張する。ヴァンスはトランプ以上の徹底した排外主義者として知られており、同政権における移民の強制送還政策を主導する存在だ。前述した妊娠中絶や同性婚の禁止は、ヴァンスによりこうしている今、この瞬間に、主張されている政策でもある。そしてデニーンはトランプとヴァンスを強く支持している。
 誤解しないで欲しいが、ここでデニーンがヴァンスを生み出したのだと批判するつもりはない。しかしヴァンスの存在は、デニーンの考える地域の生活の共同体による共通善の確認が、メンバーシップの問題を克服できないことを強く証明する事例ではあるだろう。
 そしてポイントは、メンバーシップの問題を克服「しない」からこそ、この右派共同体回帰の言説は求心力を発揮していることだ。
 彼らの述べることを字面通り受け取れば、デニーンの主張する地域の伝統的な共同体の再生と、トランプ/ヴァンスの「アメリカン・ファースト」というキャッチフレーズが体現する全米を対象としたマーケティングとの間には、本来は大きな差異があるはずだ。しかしデニーンとヴァンスの共闘は、つまり生活の共同体と想像の共同体、共通善とナショナリズムの一致は「敵」を共有することで実現する。妊娠中絶や同性婚を禁じ、移民を排斥すること、正確にはそれらを「主張」することでそれは実現されるのだ。実際には開拓期のような村落の生活の共同体の回復は現実的ではない。しかしその回復を訴えることで連帯することは、「あの頃」へのノスタルジィと「敵」の設定によって良き家庭人、良き地域住民、そして良き国民という総合的な人間像とそれを支えるイデオロギーを再構成することは、それらをSNSプラットフォーム上で発信することは、人間の尊厳を負の感情を用いることで回復させるのだ。

 同様にヒッケルのケースも検討しよう。ヒッケルの共同体回帰は、資本主義そのものへの批判に基づいている。気候変動リスクに対応するために、経済成長の優先度を下げること――たとえば経済成長(GDP)と二酸化炭素排出を切り離す(デカップリング)戦略など――は今日において珍しくないが、ヒッケルはこのデカップリング戦略すら批判し、資本主義そのものを否定する。そもそもの目的が資本主義の批判にあるため、デカップリングが実現されると、つまり経済成長の「抑制」で十分である可能性が芽生えるとヒッケルは「困る」のだ。
 しかし実際には、先進国における絶対的デカップリングの実例は少なくない。これに対してヒッケルはその程度が来たるべき気候変動リスクに対して「十分ではない」と反論を加えているが、ここで露呈しているのはヒッケルが「不可能」であることと「未達」であることを、つまり「規範(べき論)」と「実証(観察されたものはなにか)」を意図的に混同していることだろう。たとえばIEA(国際エネルギー機関)が二〇二一年五月に発表したロードマップ「Net Zero by 2050: A Roadmap for the Global Energy Sector【3】」では経済成長を維持しつつ二酸化炭素排出をゼロに収束させるシナリオを提示しているが、これは科学的にヒッケルの主張と同等の規範で、一方がもう一方を排除したとは言えない。
 このようにヒッケルの主張はその論証の方法や有効性に多くの疑問が投げかけられている。他にもヒッケルの構想は技術開発の停滞や国家財政の破綻リスクなど、多くの批判が寄せられているが、これらは概ねヒッケルの経済成長を「抑制」するのではなく「否定」するという基本構想に由来している。
 同様にヒッケルの提示するモデルの脆弱さは、倫理面にも表れている。たとえばヒッケルはコスタリカを低い所得水準でありながら長寿と「幸福」を実現した例としてユートピア的に紹介する【4】。しかし広く知られるようにコスタリカの高福祉は過去の安定した経済成長の産物であり、また先住民と移民、都市と農村の格差が問題化されて久しい。所得格差を示すジニ係数のコスタリカの二〇二四年の数値は〇・四九二で、これはOECD加盟国の中でもトップクラスだ。つまり、コスタリカは「世界で最も不平等な国」の一つだ【5】。要するにヒッケルはこうした側面を隠蔽して紹介しているのだ。
 前述したようにヒッケルの提案する市場からコモンズへの生産移行は、競争を排除することによる技術発展の停滞が危惧されているが、それ以上に問題なのはヒッケルが生産のコモンズ化により人類が「不必要な」労働から解放され、「共同体が真に必要とし、社会のためになる仕事」――具体的には公共部門の労働と育児や介護などのケア労働――を得ると述べていることだ【6】。少し落ち着いて考えてみれば誰でも分かりそうなことだが、労働の必要/不必要を誰かが「決定」するのは、非常に危険な思考だ。ヒッケルにとっては「不要不急な」資本主義下の消費社会の産物でしかない仕事(たとえばアイドルのアクリルスタンドの生産)が、他の誰かにとっては生きる力を支えるものになり得る。この程度のことも想像できず、職業差別にもつながりかねないヒッケルの労働観には大きな疑問を感じざるを得ない。
 以上のようにヒッケルの主張する脱成長的な社会とそれを支えるコモンズの構想は、表面的なユートピアのイメージが優先され、論拠とされる事実関係の精査と実現可能性の検討に耐えられるレベルのものではない。また、そのために倫理的な問題も大きく抱えてしまっている。これは共産主義国家というオルタナティブの「失敗」以降、左派が陥った隘路の代表的なケースだろう。資本主義への批判は不正義や不平等を解消するための手段であり、目的ではない。しかし左派的に、批判的に振る舞うことを目的化することで得られる陶酔の誘惑に、人間の知性はしばしば敗北するのだ。

 このようにデニーンとヒッケルのケースにはそれぞれ今日の左右両派の陥った共同体回帰の限界が露呈している。
 デニーンの代表する右派は社会の分断を否定しながらも、今日においてはその分断をより加速している。それは、排外主義に直結するものであり、問題の解決になるどころか、今日的な問題の温床以外の何物でもない。仮に共同体への回帰が、ジョニー・ロレンスのようなSomewhereな人々のアイデンティティの問題を解決するとしてもこの「解」は、つまりメンバーシップの境界の問題を必要悪として放置する彼らの言説は、その共同体の内部で劣位に置かれる女性や、排除される移民の問題を再生産してしまう。いや、そうすることで集票を行うポピュリズムが既に多くの国民国家を制圧している。彼らの掲げる共通善は、メンバーシップの問題を超えられないどころか、新しいものへ「進化」させているのだ。
 対してヒッケルの代表する左派的なコモンズ論の多くが初歩的な知見や事実関係を軽視した(もしくは都合よく無視した)、イメージ優先のユートピア論に陥っている。つまり否定が目的化しておりオルタナティブな解として成立していない。残念ながら、まるでパンがなければケーキを食べれば良いと主張するような彼ら彼女らの言説を、自己ブランディング以上のものに評価するのは難しい。この問題についてはその語り手の多くが安定した地位を持つ政治家や大学に所属する研究者、高名なジャーナリストや文化人であることを、指摘せざるを得ないだろう。そして前述したように、こうした左派エリートのマリー・アントワネット的な語り口こそが、Somewhereな人々の尊厳を傷つけ、分断を生み出しているのだ。

4 共同体についての小さな歴史


 以上述べたように左右の共同体回帰は、今日におけるAnywhereな人々とSomewhereな人々の分断への抵抗として発生している。しかし、右派のそれはより深刻な分断を社会にもたらし、左派のそれは既存の分断を加速している。
 なぜ、このようなことが起きているのか――それが私がここで問題にしたいことだ。

 彼らは口を揃えて述べる。良き共同体を回復せよ、と。今日の近代的なリベラリズムと資本主義の結託は、伝統的な村落の共同体を破壊し、人間を個人化した。その結果として、現在の社会の分断が発生している――これが今日における左右の共同体回帰論者の共通理解だろう。
 彼ら彼女らが共同体への回帰を主張する理由はそう、難しい話ではない。人間は社会的な動物であり、そして社会の基礎単位は生活を共にする家族や、地域の共同体に他ならない。人間がこうした共同体を欲望することは生物的に自然なことで、それを批判する必要もない。そのために共同体が「解」だと述べられたとき、多くの人々がそこに人間本来の姿に回帰することだと考え、「正当」な選択だと了解するだろう。しかしその「正当」に人間が感じる、感じやすい、感じて「しまう」ことこそが、現在の状況を生み出しているのだ。
 この謎を解くために、前章でアイデンティティについての小さな歴史を追いかけたのと同じように、ここでも共同体についての――正確には人間が失われたものの回復、抑圧されたものの回帰としての共同体への欲望についての――小さな歴史を追いかけてみたい。

 最初に検討したいのは私たちが感じる共同体への回帰が、人間本来の姿――「自然」への回帰――を想起させるという問題だ。
 まず、立ち止まって考えてもらいたい。そもそも「自然」に還るとはどういうことか。近所に動物園があれば、ぜひ足を運ぶと良いだろう。できれば、猿山を設け猿の群れを飼育している動物園が良い。そこには自然発生した群れが存在している。アルファ雄と呼ばれる、もっとも身体能力に秀でた雄猿が一党を率いて群れの秩序と安定を図る一方で、雌猿と食料を優先的に確保する。それは他の多くの猿たちが、このアルファ雄に虐げられることを意味する。自然に「還る」とは、前近代的な村落の共同体に回帰するというのは、この状態に還ることを意味するのだ。
 もしかしたら人間と猿は異なるのだ、人間の共同体はそのようなものにはならないと述べたくなる人もいるかもしれない。その通りだ。しかしそれは生活空間を共有する――つまり顔見知りによる――生活の共同体を超えて、見知らぬ人間との間にも共同性を確保する段階に、つまり国家のレベルに達した想像の共同体のレベルでのことだ。想像の共同体では法システムが機能するが、生活の共同体(のみが存在するケース)では猿山のそれと同じように力関係(人間関係)が支配する。村のマジョリティの意思に従わない住民はカーストの下位に置かれ抑圧されるか、排除される。結婚や職業選択、信教、思想、良心の自由は存在せず、実質的に共同体内の人間関係により決定される。
 猿の群れがアルファ雄を頂点とするヒエラルキーを形成するときに、そこには現実世界における力関係の序列のみが作用している。この秩序は強くシンプルな構造を持つが、武器を用いた狩りや計画的な灌漑を用いた農業など、柔軟で高度な協力関係を構築できない。そのためメンバーのある程度自発的な秩序への服従と協力が必要となる。そこで幻想領域からのアプローチが、つまり言語を用いた物語的なアプローチが機能する。暮らしの中での感情的なつながりをベースに、メンバーが共通の祖先を敬い、神に従い、それらの伝統的な言い伝えや神話により定められた規則を慣習として受け入れることで秩序が形成される。この秩序は物語が与える共通善(価値)の共有によってもたらされる。この共通善の存在が、ばらばらの人間の集合に一体感を与え、人間に利他的な動機づけを行う――これが人間の共同体、前近代的な生活の共同体だ。生活の共同体のベースはメンバー間の感情にあるので、共通善の支える伝統や慣習は人間関係における服従を正当化するものとして――たとえば父親の決めた結婚を子は拒否できない理由として――機能する。つまりこの段階ではまだ人類は猿山のアルファ雄による統治を、効率化しているに過ぎない。
 ターニングポイントは国家の形成にある。人類が狩猟採集生活を営んでいた時代の非定住のバンドから、農耕牧畜を中心とする村落へと移行してもこの共同体はダンバー数を超えない、比較的閉じた人間関係の中で安定していた。しかし複数の共同体を従える国家の出現――大規模な治水による農業生産の向上や街道の整備による広範囲の交易などを可能にする――は、閉じた人間関係の中の感情をベースにしたコミュニケーションによって形成される共同体を「超えた」レベルでの秩序の形成を要求する。そのためメンバー間の感情ではなく、物語が共同性の基盤となる。生活の共同体ではあくまで感情によるつながりを正当化し、サポートするものに過ぎなかった「物語」が前面化するのだ。古代社会において複数の国家を束ねる帝国が、しばしば「国教」として宗教を必要としたのはこのためだ。吉本隆明は国家を「共同幻想【7】」の一種だと位置づけ、ベネディクト・アンダーソンは国家を「想像の共同体」と定義する【8】。近代社会のベースとなる国民国家とは、そのメンバーがその国家という想像の共同体のメンバーであるというアイデンティティを有することを基盤に成立している国家のことだ。このとき人間は生活の共同体から解放され、自由を得た「個人」として考えられている。自由な個人が国家と(社会)契約し、国民としてのアイデンティティを獲得する。「国家」や「家族」が、前近代的な生活の共同体から解放された個人のアイデンティティの置き場として「発見」された歴史については、既に確認したとおりだ。
 現在の左右の共同体回帰は、グローバル資本主義化と情報化により、相対的に国民国家がその機能を低下させていることを背景に生まれた運動だと位置づけられる。
 しかしこの国家を正常に機能させるためのサブシステムとして、あるいは国家を廃絶するためのオルタナティブとして村落の共同体へ還ることを選択することは、「自然」の姿に――猿山に――人間たちの世界を多かれ少なかれ近づけるのだ。そしてポイントは、「にもかかわらず」人間はこの「自然」に「猿山」に回帰することを欲望「してしまう」ことだ。この謎を解くためのキーワードは既に繰り返し出現している。

 ここで注目するべきは再分配や宗教、そしてジェンダーなどにおいて相容れない態度を示す左右両派の共同体回帰が、ある点において奇妙に一致する現象だ。それは国家的「想像の共同体」ではなく、地域コミュニティや職場のような等身大の「生活の共同体」によりアイデンティティ不安をケアするという発想だ。
 右派の共同体回帰は、歴史的には対立してきたものであるはずのナショナリズムや宗教(「想像の共同体」を形成する)を召喚することで、等身大の、ローカルな生活の共同体を再建しようとする。
 対して左派の共同体回帰は脱資本主義と脱国民国家を同時に追求するために、消去法的に選択されている。そのために実効性や倫理性が追求されないまま展開する傾向があることは既に述べた通りだ。そして左派のコモンズ的な共同体回帰は、その効用を十二分に説明できないために、本来は右派の選択であった共同体による承認の確保をそのアドバンテージとして説くことになる。ヒッケルがコスタリカをユートピア的に紹介して「幸福」を持ち出すのはそのためだ。
 そう、キーワードは「承認」なのだ。

5 承認と共同体


 そもそも共同体とは交流のある人々の集団が、まるでひとつの生き物のような一体感を共有している状態のことを指す(そのため、共同体はしばしば疑似人格化される)。人間が自己を共同体の一部として認識するのは、そうすることで承認が確保されるからだ。共同体の物語は、その共同体のメンバーに承認を与える。その村落の共同体のメンバーであるという理由で、他のメンバーから尊重され、相互扶助の対象となることで人間は一定の尊厳を確保することができる。言い換えれば、人間は共同体のメンバーシップを得ることで、とりあえず「何者か」になることができる。共同体が保持されている限りは、その共同体のメンバーの一員としての承認が保証されるのだ。人間は所属する共同体やメンバーの尊厳が傷つくと、まるで自分が傷ついたように、ときにはそれ以上に痛みを感じる。それはその人のアイデンティティが個人ではなく、共同体というより大きなものと結びついているからだ。いわゆるJTCと揶揄されがちな古い昭和的な、つまり村落的な共同体に近い組織運営をする企業や団体の従業員が、職業を尋ねられたときに実際に携わっている仕事の内容ではなく所属する組織の名前を答えてしまうのはこのためだ。

 共同体とはひとつの物語である。民俗学ではその人物が「狐憑き」であることを信じられる範囲が、その村落の共同体のメンバーシップの範囲であるという比喩がしばしば用いられる。ある共同体でユーモラスで常に話題の中心にいるようなリーダー的な人物が、別の共同体では他のメンバーが彼より年長の男性ばかりであるために「使い走り」のような役割を負わされるように、それぞれの共同体の、それぞれの物語によりメンバーの「配役」が決定されるのだ。
 共同体という言葉の表面的な、ハートフルなイメージに憧れを抱く人は少し想像してみればいい。あなたが「桃太郎」の役なら――その共同体の主人公であり、猿山のアルファ雄ならば――さぞかしそこは居心地のいい共同体だろう。犬、猿、雉といった重要な脇役であったとしても、そうかもしれない。出番は少ないが桃太郎を育てた老夫婦役でも悪くない。しかし、あなたが名もなき村人Aの役であったときあなたは果たして納得できるだろうか。あるいは共同体の「敵」として征伐される「鬼」の役を与えられたときはどうだろうか。共同体とは、猿山の秩序を物語で安定化させたものに過ぎない。そのため、本質的に強者に奉仕するシステムなのだ。

 このように共同体には大きな副作用が存在する。それは端的に述べればその閉鎖性にある。産業革命以降の人類は共同体の支配する村落を捨て、都市に移動しその多くが広義の賃労働者へと移行した。資本主義下の賃労働は多くの疎外をもたらす。しかし人類の大半は、疎外の少ない村落の共同体のメンバーであるよりも、疎外の大きい都市の個人であることを選択した。それは共同体の持つ閉鎖性と、その結果発生する不平等と不正義を回避するためなのだ。
 そのため近代社会は社会から共同体を可能な限りアンインストールし、自律的な個人を対象にしたものにアップデートしてきた。今日においてもっとも巨大な想像の共同体である国民国家が、グローバル資本主義市場の拡大により、徐々に相対化され始めているのも基本的にはこの流れにある。
 個人としての意識は近代の産物であり、前近代の人間は共同体の一部となることに疑問を抱かないのだ、それが人間の「本来の」姿なのだと、したり顔で述べることも可能だろう。しかし、共同体の一部としての意識がいかに強く、アイデンティティが希薄だったとしても生物としての個体が消滅することはない。人間は共同体的な生物で、個人としてのアイデンティティを追求する近代以降の人間は誤りだと述べるなら、あなたがまず、思想や良心の自由、結婚や職業選択の自由などもすべて捨ててから述べるべきだろう。あるいは、かつてインドに実在した寡婦を焼き殺す風習を持つ共同体に転生し、焼殺される運命を甘受してから述べるべきだろう。
 あるいは私たちの形成するオルタナティブな共同体にはカーストなどない、すべてのメンバーが対等だと述べる人もいるかもしれない。もちろんすべてのスターリンはソビエト連邦は労働者の天国だと述べるだろうが、仮にこの台詞を信用したとしても何の反証にもならない。まず制度の未発達な集団ほど、人間関係による支配が自然発生しやすく、その人間関係=文脈の支配は迫害とハラスメントの温床であることは、集団論、組織論の基礎的な法則だ。

 共同体はその維持のために、メンバーシップのある程度の新陳代謝を必要とする。
 そもそも、感情により接続される生活の共同体は厳密にそのメンバーシップを定義することが難しい。しかし共同体はメンバー間の承認の交換によって動機づけられているので、メンバーは常に共同体の範囲を確認しようとする。これが結果としてメンバーシップの訂正(新陳代謝)として表れる。具体的には共同体のメンバーと、そうではない人の、「友」と「敵」との確認が継続的に行われることになる。
 JTC的な職場やボス猿の支配する論壇の党派などの昭和的な共同体から、連合赤軍やオウム真理教などカルト的な共同体に至るまで、この国の「飲み会」がその場にいない人間の欠席裁判になりやすいのはそのためだ。そしてその「敵」が一定の間隔で訂正されることで、メンバーシップが訂正されることで、メンバーは改めて自己に与えられた承認を確認する。このメンバーの承認の確認への欲望を満たすことで、共同体は求心力を維持するのだ。連合赤軍がその活動の末期に、メンバーの粛清を反復していたことは広く知られている。彼ら彼女らは活動の末期において、メンバーの内部粛清に明け暮れたことで知られる。たとえばそこでは、山岳に設けた基地での訓練に、化粧をして訪れたメンバーを革命に対して真剣に取り組んでいないという理由で集団リンチを加え殺害したというケースが知られている。これは、国家の打倒という巨大な目標が非現実化したとき、それでも共同体を維持するためには、打倒「できる」敵を必要としたと考えれば説明がつく。

 かつて柄谷行人は『探求Ⅰ』でウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を援用しながら、共同体の本質について論じている。ある人物が言葉の使い方(方言など)を間違えたとする。その共同体のメンバー(地元の人間など)がそれを笑ったりすることがある。このとき笑う側の人間は、何かの規則に従ってそれは「違う」と感じるのではなく、ただ経験的に、いつも自分たちが使っている使い方と「違う」と感じるだけだ。規則はむしろ、こうした体験の積み重ねから、ボトムアップに生成される。こうして共同体がメンバーに自覚されていく【9】。
 つまり連合赤軍の例で考えると、組織が粛清を生むのではなく、粛清が組織を生む――メンバーシップを訂正することで延命させている――のだ。実際に今日においてこの個人化の進行した資本主義社会において、共同体の復権を唱える集団は少なくない。職場の運動会や忘年会をやりたがる昭和的な職場から学会や論壇の党派まで、あるいは社会実験的なオルタナティブな共同体を自称する集団まで、「やっぱり人間にはこういうものが必要なのだ」とロマンチックに共同体への回帰を語る人物は少なくない。しかしこうした共同体の夢を見る前に、彼ら彼女らが内部の下位カーストや外部の「敵」を設定し、それらを貶めることで求心力を確保する動員を行っていないか、つまりその共同体が負の感情を用いた動員に支えられていないか、メンバーシップの訂正(粛清)の歴史を反復していないかを点検してみるべきだろう。
 あるいはもし身近に、共同体を更新しながら維持するために「父」となり、責任ある主体となるべきだとアジテーションする人間が周りにいれば、あるいは「父」を引き受ける自己を愛するタイプの人間がいれば、彼ら彼女らの周辺を点検してみるべきだろう。そこにはかなりの高確率で、彼ら彼女らを「父」にするための人柱が、所有されるべき「妻子」の役や、共同体の求心力を維持するための「敵」――集団リンチの対象となる人柱――が存在しているはずだ。
 ここに歴史的に人類が共同体から個人へ、社会の構成単位を移行させてきた理由がある。共同体とはアルファ雄の代表する強者のための、マジョリティのためのシステムだ。だからこそ、メンバーシップを持つ内部の人間に承認を保証することができる。しかしそれは共同体が敵を、生贄を、人柱を必要とすることを意味する。いま、この瞬間は必要としていなくても、共同体がその正当性を持続するためにそれは必ず要求される。これが共同体の限界なのだ。

 共同体への回帰は、人間に猿山のアルファ雄になる夢を見せる。あるいはアルファ雄に媚びて、無難な位置を確保する卑しい夢を見せる。生物的に男性であるかどうかとは別のレベルで、一定の割合の人間は本能的「父」に、猿山のアルファ雄やそれに近い存在になることを欲望する。この欲望の現代的な表現として資本主義の与える疎外を解消するために共同体へ回帰せよという左右の立場を超えた大合唱が発生しているのだ。
 政治家や大学教員、企業の経営者、文化人といった、既に権威や権力を手にしている人物が共同体回帰を主張するとき、多くの場合彼ら彼女らは都合よく自分たちの置かれた恵まれた場所のことを忘れている。既に権威や権力を手にした人々にとって、多くの場合は共同体はさぞかし居心地のよい場所になるだろう。特にこれらの権威を手にした人々が、何者でもない人々の共同体に「降りてきた」ときに、共同体の周辺やカーストの下位に置かれることはほぼない。
 もちろん自分はそのような手段は取らない、良き父であると宣言することはできる。しかし、反論にはならない。ここで私が述べているのは、人間が個人と国家、個人と市場の関係を基盤とした今日の社会を反省し、再び共同体に足場を置いたものに回帰することの不正義とリスクに他ならないからだ。あなたが自分は良き父であると宣言することは、あなたの自己愛を満たすだろうが、それ以上のものではない。仮にあなたが本当に良き父であるとして、では今、共同体のカーストの下位や周辺に配置されて、苦しめられている人々にあなたのような良き父に巡り合うまで、耐え忍ぶべきだと告げるのだろうか。
 共同体への「回帰」は「解」にはならない。それはアルファ雄や、相対的にそれに近い位置を占めることのできる「強い」個や、彼/彼女に媚びることで中位のポジションを確保する人々にとっては「解」になるに違いない。共同体の維持のために、定期的に「敵」を再設定し、自分より弱く、周辺に配置された人間に石を投げることでメンバーシップを確認し続ける生き方を選ぶ人々にとっても、安定した承認の供給装置になるだろう。しかし世界にはそのような強い個だけがいるのではない。そして人間はサイコロを振り、出た目によってはどこの、誰でも「弱い」存在になり得るのだ。

 また、今日においては思想や文化など、経済活動から切り離された領域(現実領域ではなく、幻想領域)において、しかし国家のような見知らぬ人間同士の形成する「想像の共同体」ではなく顔見知りたち(またはアカウント把握をする人間間)に閉じたかたちで共同体が形成されることが常態化して久しい。これは、いわば「生活の共同体」と「想像の共同体」の中間的な性質をもつ。これを本連載では便宜的に「情報の共同体」と呼びたいと思う。
 この「情報の共同体」はもっとも、経済(現実領域)から遊離している。かつての「生活の共同体」は今日においては、その機能を大きく低下させているものの伝統的に経済単位そのものであり、国家の代表する「想像の共同体」は見知らぬ多数の人間を巨大な経済単位に統合するための物語装置に他ならない。しかしこの「情報の共同体」は経済(現実領域)から遊離しているためにもっとも流動性が高い。加入と離脱も低コストだ。そのため、今日のSNSプラットフォーム上に氾濫することになる。政治的イデオロギーによる動員から、アニメやアイドルをテーマにした趣味のサークルなど、地域の共同体(地域コミュニティ)「ではない」共同体のことをテーマコミュニティと呼ぶが、今日におけるテーマコミュニティの特徴はそれが見知らぬ誰かとの「想像の共同体」ではなく、生活の場から切り離された領域において交流する「情報の共同体」である点だろう。今日の情報産業を駆動する大きな要素の一つであり、政治(民主主義)においてはもっとも巨大な集票要因となっているアテンション・エコノミーは、この情報の共同体をベースに行われている。ここで紹介した左右の共同体回帰の言説も、表面的には生活の共同体や想像の共同体の復権を主張しているが、実態としては情報の共同体への動員を用いた集票やブランディングと考えればよいだろう。
 そしてポイントはこの「情報の共同体」は経済基盤をもたない(つながりが薄い)ために承認の問題が前面化し、よりイデオロギーや人間関係への没入が強化されることだ。歴史の浅い、新興住宅地をホームタウンとするスポーツチームのファンやサブカルチャーのファンが過激化しやすいのはこのためだ(個人的なことだが今まで私は二度「殺害予告」を経験しており、それはそれぞれ浦和レッズと京都アニメーションの過激なファンによるものだった)。情報の共同体ではより「敵」を排することで、「味方」から承認を獲得する回路が前面化するのだ。

6 「弱さ」をめぐって


 誤解しないで欲しいのだが、私は共同体そのものの存在を決して否定しない。それは人間がものを食べ、家族を形成し、その生に意味を求めるのと同じように本能的な活動だと考えるからだ。しかし、社会を前近代のように共同体をベースにしたものに、個人の上に共同体を置く考えに、絶対的に反対する。それは共同体の中でカーストの下位に置かれた人々や、共同体の求心力を維持するために排除された人々を実質的に遺棄し、諦めを要求することを意味するからだ。
 いつか、あなたを迎え入れてくれる共同体が世界のどこかに存在するはずだから、それを探せというのはもっとも愚かな忠告だろう。それこそが強者の論理だ。世界には、自分をある程度の位置で許容してくれる共同体を探すコストとハードルが高い状態に生まれ落ちた人々がいる。その国の被差別階級に置かれた少数民族や、障害者を思い浮かべればいい。このように不利な状態でゲームをプレイすることを強いられた人々にとって、自由に居場所となる共同体を探せばよいという新自由主義的な思考は実質的にメリトクラシーよりもさらに後退した、機会の平等すら考慮しない市場原理主義に等しく、今日の社会の分断の原因となっている。
 共同体をベースにした社会は、弱者を包摂しない。このシンプルなハードルを、今日における左右の共同体回帰論は超えられていない。彼ら彼女らの共同体への回帰は、現代の資本主義の否定を目的化した選択、つまり「……ではない」ものとして選ばれたものだ。そのため右派のそれは現実的な地域の生活の共同体の再建ではなく、想像の共同体に基づいたナショナリズムの昂揚の口実として消費され、左派のそれはロマンチックなナラティブによるブランディングに留まり、実効性が検討されないのだ。

 たとえば前述のヒッケルが代表する左派共同体回帰(コモンズの共同体自治)の流れにある論集が、国内でも二〇二三年に発売されているが、そこではある駅前商店街での実践例がひとつの「解」として紹介されている【10】。そしてここで紹介されている例は、ほとんどデニーンら右派の主張する古き良き共同体のビジョンと変わるところがない。そこでは古着屋や楽器店の店主が、客の七割と顔見知りになり、生活の共同体が立ち上がっている。そして面倒見のいい店主が若者たちの進路相談に乗り、定期的に飲み会や交流会が開かれている。私もこうしたつながりの豊かさを、否定したいとは少しも思わない。このような個人商店の取り組みから、地域再生や自治を見直すことにも強く同意する。しかしこうした商店街の共同体の盛り上がりに、単なる商品交換を超えた価値がある、オルタナティブな共同体内の贈与経済の萌芽である――という誇大広告的な判断については、大きな疑問を持たざるを得ない。
 それはこの商店主たちの面倒見の良さや善良さを前提とする議論にまったく意味はないからだ。ここで紹介されているケースではその商店主が善良で面倒見の良い人物であったが、別のケースではそうは限らない。意地悪な見方をすれば、逆に少年に虐待を加えるケースも想定できる。つまり属人的な要素に左右される――「たまたま」その人が発揮する善良さに期待する――議論には、残念ながら何の意味もない。たとえばこの商店主が余所者や被差別者には商品を売らないと判断したときにどうなるかを考えればいいだろう。私が暮らす新宿区には、アジア系を中心とした外国人が多く、少し前に近所にある有名な飲食店が日本人以外の入店を拒否して波紋を呼ぶという「事件」があった。生活の共同体による「自治」とは、ハートフルな人情話をもたらす一方で、このような被差別者への歯止めを失うことを意味するのだ。
 またそもそも、生活の共同体による寄る辺なき個人の包摂をシミュレーションするにあたって、出入りしている商店の店主と交流したり、喫茶店やスナックなどの常連客と関係を築くことができるレベルのコミュニカティブなパーソナリティを想定することに、ほとんど意味はない。そもそも彼ら/彼女らはさまざまな理由から、こうしたコミュニケーション・スキルを獲得できないために孤独なのだ。
 同様に国内では「子ども食堂」を通じて地域の共同体を再生するといった議論が、左派的なコモンズ論を中心に散見される【11】。しかしこの言説も同様の問題が指摘できる。いわゆる転勤族の家庭に生まれた私は、八〇年代の地方を転々として少年時代を過ごしたが、当時の私のような余所者で、病弱で、あまり社交的ではない少年がこの「子ども食堂」を安心して利用できる条件はひとつしかない。そこに共同体が「ない」ことだ。付近の子供たちが常連化し、共同体をそこで形成していた場合、当時の私はそこに寄り付くこともできなかっただろう。それは君が臆病な少年だったことが問題だと諭したくなったあなたは、既に強者の論理――精神的な新自由主義の論理――に毒されている。「余所者」の、病弱な、孤独な少年に食事を与えられない子ども食堂に、果たして何の意味があるというのか。
 残念ながら、左右を問わず多くの共同体への回帰を訴える言説がハートフルなエピソードを消費することにより、このような基礎的な問題を見落としている。付記するなら個人商店を中心とした地域再生も、子ども食堂も、既に大きな成果を上げているケースが多く、高いポテンシャルをもつ取り組みであることは疑いようがない。しかしそれがこの種の言説のもとに共同体の再生に接続したときに、そこに生まれるのは共同体のカーストの下位に置かれる、排除される、障害や出自や家庭環境などさまざまな理由からそこに接続すらできない本当に「弱い」立場に置かれた人々の実質的な遺棄なのだ。

 近年ではシリコンバレー的な技術主義とこの種のユートピア的な共同体回帰言説が合流することも珍しくない。前述したようにシリコンバレーのルーツにはかつてのヒッピー・ムーブメントがあり、資本主義の外部としてオルタナティブな共同体とそこでの贈与経済が主張されることには、少なくともアメリカ文化史的には必然性があるのだ。 

ここから先は

5,955字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。