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カネ・コネ・チエの「三位一体格差」と受け皿としての「推し活」について

昨日、箕輪厚介さんと話した。今日はその対談を通して(加えて一晩経って)考えたことを書き留めておきたい。来週あたりに動画が出るので、そちらを参照してもらいたいのだけどそれは要するに「格差」の問題だ。この格差は経済格差だけではなく、知識格差や社会関係の格差でもある。今日の知識社会×メリトクラシーの支配において、この三つは結果的に結びつくことが多く、「持てる者」と「持たざる者」の分断と格差の拡大は止まらなくなっている。

この記事などで書いた通り、「持てる者」はメディアに依存せず、独自に情報を得て同じ「持てる者」同士で吟味する。今日のアテンション・エコノミー下においては、人間のすべての発言は(無意識のものも含めて)ポジショントークの側面が大きく拡大するために、それを「割引く」コストが大きい。言い換えれば、それがメディアやそれの乗るプラットフォーム上の言説である時点で、ある意味「質が低い」ものになる。だから、ある程度の資金、知力、コネクション(僕はよくないことだと思うが、この三者は結びつきやすい)のある人間はメディアに依存しなくなっている。勝手に勉強し、情報収集し、仲間内で議論している。

その一方ですべてが究極的には(かつ比喩的には)チケットと広告とサブスクに結びつくメディア上の情報は、どんどんポジショントークの色彩が強くなる。そしてあらゆる意味の「貧者」のためのものになっていく。経済力、知力、コネクションのすべてが貧しい人々(人類の大半はこちら側になる。繰り返すが、僕はこれは最悪なことだと思っている)は、しかしこのメディア上の情報やコンテンツに頼るしかない。

そしてここからがまた最悪な話なのだが、ここで猛威を振るうのは「推し活」的な精神安定剤としての信仰対象の供給だろう。特に普通に考えれば、ここにたどり着くであろう「持たざる者」同士の連帯(コネクションの獲得)がうまく行かない人(コミュ力が低い、チャームが低いなど)は、まず安定剤的に信仰対象のコンテンツに依存し、そしてSNSで同じ信仰対象を「推す」人とつながることでかろうじてコネ(連帯)を得ようとするだろう。

それは「この子を応援してあげたい」というアイドルだったり、なんとかヒットさせてあげたいと思わせるような「イマドキ珍しいかつての世界名作劇場的なノリの良心的なアニメ映画企画」だったりするのだが、もっとも求心力のあるものは、間違いなく「政治」だ。「政治」は友敵のゲーム、「敵」を貶めて仲間内での承認を確かめ合う行為がもっとも正当化される分野であるために、もっとも効率よく、そして強く寂しい人の承認欲求を埋め合わせる。これが、今日のトランプ現象以降の極右(左)台頭の背景なのだ。

要するに僕はいま、かなり悲観的な未来予測をしている。しかし多分、こうなる。なって欲しくないがすでに少しずつ、こうなっていっている。

しばらくはこの「カネ・コネ・チエ」の三位一体格差がどんどん広がり、持たざるものの中でより追い詰められた人からどんどん広義の「推し活」でより搾取されるルートに入り、そしてより重篤な人から過激化する。そして「持てる者」はどんどんその世界を嫌って、「自分たちの世界」を作っていくだろう。おそらく、「上の世界」の住人と「下の世界」の住人、グッドハートのいうanywhereな人々とsomewhereな人々の分断は、また位置レベル上がるだろう。それは端的に言えば自分の人生を生きる層と、推し活的に他人の人生に感情移入して生きる層だ。

「持てる者」たちは「持てる者」たち同士で、SNSの外部で連帯し、閉じている。そして「持たざる者」の底辺に近い位置に配置された人々は、それぞれの信仰対象を見つけて次々と帰依し、その精神を安定させるために過激な行動に出る人も増えている。好きなアイドルの出る映画は、5回も10回も見て「成績を作ってあげる」的な意識のもとに行われる「推し活」はすっかり定着したし、その延長で信仰対象のアニメの「自分の信じる正しい解釈」とは別の解釈をする人間を「興行の成功のために」延々と罵倒する……といった攻撃的な行動に走るようなケースももはや珍しくない(笑)。これから数十年は常に参政党的な実質的なカルトによる政治勢力がこれくらいの規模で存在する状態が継続するだろう。

つまり経済、産業構造的に「カネ・コネ・チエ」が三位一体になりすぎた結果、それをセットで保たない層から順番に、広義の「推し活」でしか支えられなくなっていっている。そしてその依存の度合が高いほど、過激化し、他者への攻撃衝動を抑えられなくなる(そのため、やはり「政治」がもっとも依存対象に選ばれやすい)のだ。

「持たざる者」は「推し活」でしか、信仰対象を持つことでしか自分を支えられなくなりはじめている。その信仰対象は、コンテンツビジネス的に提供されるものか、政治的動員になる。前者は消費期限が(菊池風磨のように戦略的に開示しない限り)隠蔽されているために、多くの人々は一定期間熱狂し喜んで搾り取られて冷め、次の信仰対象を見つける……といったムーブを繰り返す。したがって長期的には後者のほうが人間を支えて「しまう」だろう。

これ、どうしたものだろうか……みたいなことは、僕もこの数年ずっと考えている。

メインはやはり経済というか、産業構造からのアプローチで、僕も基本的にはこの線で考えている(『すばる』連載の『第四の主体のためのノート』はその方向)。

ただ、ここはせっかくなので少し別の角度から考えてみたい。

いくつかルートがあって、

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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