共同体とプラットフォームの「共犯関係」について(第四の主体のためのノート #5)
※このnoteでは4ヶ月遅れで「すばる」(集英社)誌連載の『第四の主体のためのノート』を転載していきます。『庭の話』の直接的な続編になる連載で、次の主著にするつもりで取り組んでいます。『庭の話』を読み、興味をもっていただけた人は、ぜひこちらもチェックしてください。よろしくお願いします。
1 プラットフォームと共同体の共犯関係
おそらくいま、多くの人々が間違えている。グローバル化と情報化の加速のなかで、必要とされているのは共同体「ではない」。共同体はむしろ、これらのアレルギー反応として既に無数に生成されている。噓だと思うのならYouTubeやFacebookやXを数分で良いので検索すればよい。そこには判で押したように、共同性に飢えたゾンビたちが群れを形成するために彷徨っている。そして常に何らかの物語を用いて敵と味方の間に線を引いて、共同体を形成している。そのようなものは「本物の」共同体ではないと言いたくなる人も多いだろう。しかし、こうした反応こそが、既に共同体が回復している証拠なのだ。既にSNSプラットフォーム上には無数の共同体が氾濫し、そして誰もが自分たちの共同体は「本物」だが他の共同体はアテンション・エコノミーの結果として発生した地に足のつかない「偽物」の共同体だと批判して、そしてそうやって他の共同体を貶めることで自分たちの共同体の結束を固めているのだ。
SNSプラットフォームはアテンション・エコノミーに従って、タイムライン上に高速に共同性を生成する。
あるユーザーが自己の投稿に好意的なリアクションを集めようと考えたとき、もっとも効率的な選択はまず、既に注目を集めている話題に対して言及することだ。そして次に主流派の意見に強い表現を用いて、YESかNOを述べることだ。さらに、なるべく批判対象、つまり「敵」を貶める表現を用いた扇情的な投稿を心がけると効果的だ。そうすればたちまち意見を同じくする「味方」が集まり、好意的なリアクション(LikeやRepost)を与えてくれるはずだ。
あえて嫌な言い方をすれば、あなたがもし何者かになりたい、しかしなれない悔しさを抱えて生きているのなら、いまここで述べた方法を実践するとよいだろう。前述したようにこの分野でのマーケティングが発展しているので、特に今日においては政治的な話題でこれを実践するのが効果的だ。言及するタイミングと話題を間違えなければ、たちまち少なくとも数十の、多ければ数千から数万のリアクションを得ることができるだろう。十数年前には人類の大半が知らなかったことだが、不特定多数に自己の意見が承認されることは人間に絶大な快楽をもたらす。この快楽は一過性のものだが、投稿に必要なコストは金銭的にも時間的にも労力的にも極めて低く、そして(オリジナルの意見である必要がないので)知力も必要としない。そのため、ほぼ無限に反復することが可能だ。世界中の人々がこの圧倒的なコストパフォーマンスを持つ承認のゲームの快楽の虜になっているのだ。
たとえば、芸能人の不倫報道がされたとする。それを目にした人々が、不倫をしたとされる芸能人を悪しざまに罵る投稿をする。タイムラインには既に、多くのその芸能人を非難する投稿が並んでいる。その列に並び、同じ対象に石を投げることで、その人は自分は「まとも」な側に属しているのだと安心することができる。この安心の与える快楽は大きく、対してSNSへの投稿はコストが低いために、中毒化する傾向がある。だからこそこの依存的な投稿を繰り返すユーザーはもっとも経済的、政治的なマーケティングの対象になりやすいのだが、ここで重要なのはむしろこのときタイムラインにはインスタントな共同性が発生していることだ。彼/彼女の不倫を非難する自分「たち」は、倫理的に正しい側に立つ「仲間」であることの確認――それがこのタイプの投稿を行うユーザーの求める「安心」の快楽の正体だ。
そして今日におけるアテンション・エコノミーのプレイヤーは、この中毒化したユーザーの「換金」を試みる。この「換金」を「集票」に置き換えると、現代における政治的ポピュリズムの構造になる。現代において、旧「西側」先進国の多くが多党制に移行していることは広く知られているが、そこではSNSプラットフォームをその活動基盤とする小政党の台頭が顕著だ(日本国内で言えば参政党やれいわ新選組がこれに当たる)。これらの小政党の多くが、極右または極左の立場を取ることも、陰謀論的に次々と――まるで週刊少年漫画誌の長期連載作品の主人公のように――新しい「敵」を設定して求心力を得ているのはこのためだ。その手法は大別して二つあり、それは広告とサブスクリプションだ。つまりより多くのユーザーの関心を継続的に引いて広告を見せ続けるか、タイムライン上に発生した共同性を維持して共同体を形成し、サブスクリプション的に課金を促すのだ。
現代は資本主義とそれのもたらした消費社会化により個人が孤独に社会に対応させられている時代なのだ、だからこそ共同体の復古が、あるいはオルタナティブな新しい共同体が必要なのだと訴える人々は後を絶たない。しかし、私たちはまずこのようなメッセージを自己の「共同体」、いや党やサービス(サブスクリプション)への投票/課金の誘導ではないかと疑ってかかるべきだろう。
実のところプラットフォームと共同体は共犯関係にある。SNSプラットフォームはタイムライン上に高速で共同性を構築し、それを高速で解体する。そしてアテンション・エコノミーのゲームのプレイヤーの半分は広告ではなくサブスクリプションによる集票/換金を目的としており、彼ら/彼女らはタイムライン上に発生した共同性を、多くの場合「敵」を定期的に入れ替えることで維持し、「共同体」をそこに形成しているのだ。
このときSNSプラットフォーム上に形成される共同体は前近代における村落のような生活の共同体でもなければ、近代における国民国家のような想像の共同体でもない、「情報の共同体」だ。
この「情報の共同体」は、経済単位としての側面が弱い。そのために前近代的村落のような地域共同体やJTCと揶揄される日本的企業などの生活の共同体より流動性が高い。また、国民国家のような想像の共同体とは異なり、見知らぬ人間同士による価値の共有ではなく、継続するとアカウントを相互フォローするレベルの弱いつながりは避けられない。そのため、経済的なインセンティブの共有という基盤がなく、かつメンバー間の感情に強くその求心力を依存するために常にメンバーシップの再設定が、つまり内外の「敵」がより強く必要になる。これが左右を問わずこの種の「情報の共同体」が常にカーストの下位のメンバーを迫害するか、外部の「敵」を貶める投稿をシェアし続けている理由だ。
そう、実際に発生しているのは共同体の機能不全ではなく、共同体のメンバーシップを問わない公共空間=社会の機能不全だ。つまり情報技術により進化した資本主義の与えるメリトクラシーとアテンション・エコノミーのゲームは、「社会」を侵食している。しかし今日においては多くの人が共同体の喪失こそがその原因であると考え、市場におけるゲームの構造的問題を直視しない。しかし実際に左右の共同体回帰運動を少し観察すれば明白なことだが、共同体は既に回復されている。このような時代だからこそ、共同体への回帰が必要なのだという彼ら/彼女らのロマンチックなナラティブによって、SNSプラットフォーム上で動員された寄る辺なき人々が「情報の共同体」に糾合され、Qアノンのような陰謀論を信奉するサークルやバラモン左翼的な成功者のブランディング目的の団体が無数に発生している。既に共同体への回帰は情報技術の支援を受け、十二分に果たされている。しかし問題はこのような「情報の共同体」たちの氾濫する世界が、ジョニー・ロレンスのような「何者でもない」人々をより強く追い詰めていることだ。
多くの人々は、彼を包摂できる共同体が必要なのだとしたり顔で述べる。しかしそれは現実に対する認識として間違っている。右派が回帰を主張する共同体はジョニーを包摂する代わりに他の誰かを排除することになる。対して左派の共同体回帰論者がロマンチックに語る「コモンズ」は彼を救われるべき、哀れな存在として受け入れるだろう。しかしあなたがもしジョニーならそういった共同体に、ヒーローたちに救われるべき脇役として包摂されることを望むだろうか。おそらく、あなたの人生が不遇なのは移民たちが不当に保護されているからだと述べる右派の共同体回帰論のイデオロギーのほうがジョニーを惹きつけるだろう。そして彼はポピュリストたちの養分になる。ジョニー・ロレンスは共同体への回帰では決して救われない。ヒスパニック系の移民の増えた地域に暮らすジョニーが、スペイン語が理解できないことを商店主にからかわれたとき、彼がドナルド・トランプが移民を一掃することに期待「しない」ためには何が必要か。それが問題なのだ。
2 二一世紀のリベラル・コミュニタリアン論争
したがって共同体への回帰は「解」ではない。しかしおそらく、この結論は多くの読者の反発を呼ぶだろう。私はこれまでも同様の趣旨のことを何度か述べたことがあるが、そのたびに同じような反発を受けている。そしてそれは端的に言えば、共同体のアルファ雄に、「父」(もしくはそれを支える「母」)になることを最大の自己実現として考えてきた、「栄光の三十年」に呪われた人々からの反発だ。あるいは共同体の下位のカーストに位置づけられることや「敵」として排除される弱者のことを考えることができない、想像力を欠いた人間たちからの反発だ。
資本主義の(メリトクラシーの)ゲームの作用しない場所が必要だと私が述べると、ほとんどの人々は強く頷く。しかし続けて、ただしそれは同時に共同体のメンバーシップを問わない場所(公共空間)でもなくてはいけないと述べるとその表情はたちまち曇る。この論点は、あるタイプの人々のアルファ雄、つまり「父」になることや、それを支える「母」やそれに依存する「子」の欲望を、共同体内で安定した位置を獲得することで安定した承認を得ようとする人々の、倫理的な問題を露呈させてしまうためだ。「父」に所有される「妻子」はまだ、「父」というアルファ雄を認めることで保護を得られるが、共同体はその秩序の維持のために下位のカーストを、その求心力の維持のために外部に「敵」を要求する。この作用から目を背けることが許されるはずがない。
繰り返すが、私は共同体の存在そのものを否定しているのではない。家族も国家もその他の共同体たちも、かたちをかえながらこれからも人間という存在を支え続け、そして呪い続けるだろう。そして共同体への回帰によって解決できる問題とそうではない問題があり、共同体への回帰で救済できる人間と、できない人間がいる。ロマンチックな語り口で共同体への回帰を主張する人々は総じて、そのときに共同体の下位カーストに置かれる人々や、共同体の「敵」として排除される人々のことを都合よく忘却する。しかし――特に今日においては――この種の「寄る辺なき個」の、「忘れられた人々」の、ジョニー・ロレンスのような人々の包摂手段を講じない限り「社会」は維持できない。私たちはこの現実から、目を背けるべきではない――そう、私は述べているのだ。
それはあるタイプの人たちには「痛い」現実なのかもしれない。しかし仮にこの世界に最低限の自由と平等を実現するのならば、私たちはその痛みを受け入れる他ない。不本意に「父」に「所有」されている「妻子」や共同体の下位カーストに置かれた人々の痛みは、そして「敵」として排除された人々の痛みは、より強くそして致命的なものなのだから。
しかしおそらくそれでも共同体を「解」としなければ気が済まない人々は納得しない、いや「したくない」だろう。特にある程度年齢を重ね、共同体のアルファ雄(父)であることや、それを目指して努力してきた人々はサンクコストの問題から心情的に現実を受け入れることは難しいからだ。
たとえばあなたが共同体のアルファ雄になる夢から覚めない、そして自己より弱い存在――妻子や部下――を庇護することで自信を維持したい「矮小な父」なら、こう述べるかもしれない。とは言え何らかの価値(共通善)を共有しない限り、マクロなレベルでは社会は機能しないのではないか、と。つまり個人の権利(人権)を尊重するというイデオロギーを共有する(広義の)共同体が機能しない限り、結局はばらばらの個人の集合としての「社会」もまた成立しないのではないか、と。その通りなのだが、私も、そして歴史的にも誰もその点を否定してはいない。私が述べているのは、その共同体の共通善の担い手は決してあなたがロマンチックに語る、あなたがアルファ雄(父)に、主役になりたくて仕方がない――あるいはアルファ雄(父)の取り巻きとしていい思いをしたくて仕方がない――等身大の共同体であっては絶対に「いけない」ということだ。あなたのような自分より弱い誰かを所有しないとプライドが保てない卑しい人間のために、誰かが犠牲にならなければいけない理由はどう考えても存在しないからだ。
少し教科書的な解説を加えるなら、この最低限の共通善(人権、つまり自由と平等)の維持は、今日においては国民国家が担っている。なぜならば、それは可能な限り大規模に保持されることが望ましく、現状においては国民国家が最大規模の(想像の)共同体に他ならないからだ。そしてそれは決してあなたの役割ではなく、民主主義により運営され、制御される国家の役割以外ではあり得ない。特定の誰かを「父」にしない。近い役割を果たす人間はオープンでフェアなルールで選び、可能な限り監視して、抑制する。少なくともそれがもっともリスクが低い選択であるというのが、今日の人類の暫定解だからだ。
そう、この問題――社会を維持するために必要な共同性とはなにか、共同体と社会との関係はどうあるべきか――という問題は数十年前に一度、論争を経て一定の決着を見ている。その論争とは、一九七〇年代から九〇年代にかけて主にアメリカを舞台に展開した「リベラル・コミュニタリアン論争」だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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