369本の衝撃と、今週やったこと
いやさ、369本は多すぎでしょう。
1. 6週間の滞在が残したもの(まだ掴みきれていない感覚)
今週の最大のトピックは、ニュージーランドから来日し、6週間の滞在を通じて東京で制作した写真家・ウィリアム・リンスコットのアーティストトークに参加したことだった。
正直、いまもまだ“掴みきれていない感覚”が残っている。けれど、残り方が妙に濃い。言葉にしようとすると、まず出てくるのはこの仮説だ。
リンスコットがやろうとしていたのは、ノンアカデミックな〈ヴァナキュラー写真表現〉だったのではないか?
ここでいうヴァナキュラーは、「上手い/正しい」を競う場所から少し離れたところで、生活の肌触りや関係の圧を含んだまま立ち上がる写真のことだ。学術でも美術制度でもない、けれど“雑”とも違う。むしろ、そこにしか残らない倫理がある。
そして、その美学と倫理を語る補助線として、トリン・T・ミンハの〈近傍で語る(speaking nearby)〉が持ち出されたのだと思う。
「代弁する」のでも、「外部から見下ろす」のでもなく、対象を奪わず、しかし沈黙もしない。近づきすぎないが、離れすぎない。あの距離感の技法。写真の現場で、ずっと欲しかった言葉がそこにある気がした。
2. バッチェンの〈退屈な写真〉へ――民族誌的転回は“ほどく”ためにある
この話は、僕の中でジェフリー・バッチェン「スナップ写真――美術史と民族誌的転回」の〈退屈な写真〉問題に繋がっていった。
スナップや日常写真は、しばしば「退屈だ」と切り捨てられる。けれど、その退屈さは、写真の価値が“作者中心/撮影者中心”の物語に回収されるとき、外に追いやられるものの名前でもある。つまり、退屈さは欠点ではなく、制度が取りこぼすもののサインかもしれない。
だから僕は、〈民族誌的転回〉こそが、人間中心・撮影者中心の写真制作や写真史の絡まりをほどく、具体的なきっかけになると思った。
実際、その後バッチェンがヴァナキュラー写真批評へと進んでいく流れは、いま思い返すと自然に見える。
「近傍で語る」という距離の取り方と、「退屈な写真」をめぐる制度の視線。ここが繋がった瞬間、今週のトークは単なるイベントじゃなくなった。僕の読書と制作のラインに、確かに差し込まれた感じがした。
3. Hal Fosterを“いま”読み直す理由――「外部に行けば真実がある」という誘惑
その流れで、過去に読んでノートにまとめていたHal Fosterを読み直すことになった。
僕がこの論文を“いま”読む理由は単純だ。写真の現場でずっと起きていること――
「他者(外部)に行けば真実がある」
という誘惑と、そこに張り付く倫理と制度の罠を、いちど逃げずに言語化したかったからだ。
外へ行く。現場へ行く。異文化へ行く。周縁へ行く。
それ自体は、たぶん正しい。少なくとも、僕もそこに賭けてきた。
でも同時に、その“正しさ”がいつのまにか免罪符になり、作品が社会貢献PRに回収され、倫理が自己演出の装置になる瞬間がある。しかもそれは、悪意で起きるというより、「良いことをしているつもり」のまま起きるから厄介だ。
ここを、ヴァナキュラー写真の美学と倫理として、もう一段深く捉え直したい。僕の今週は、だいたいこの一点に収束していた。
4. もう一つのトピック――読書ノート用プロンプトを更新した
もう一つのトピックは、新しい読書ノート用のプロンプトを作ったことだ。
そもそも僕は、読書ノートのプロンプトをアップデートするために『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の読書ノートを書いていた。
目的は、文章術の習得というより、「読書→思考→執筆」の回路を、いまの自分の制作や批評の速度に合わせて組み替えることだった。
すると見えてきたのが、アカデミック・ライティングなるものが“技術”である以前に“制度”だ、ということだ。
そして、その制度への批判のラインに、ミンハの〈近傍で語る(speaking nearby)〉がきれいに立ち上がってくる。
つまり僕の中ではこうなった。
アカデミック・ライティング=制度としての「書き方」
speaking nearby=制度に対抗する「距離の取り方/語りの倫理」
だからプロンプトも更新した。
アカデミック・ライティングと〈近傍で語る〉を、同じ原稿の中で“二重書き”できるように。
(同じ事柄を、制度の言語でも書く。でも同時に、奪わない言語でも書く。どちらかに回収されないように。)
するとアカデミック・ライティングなるものが制度であり、その批判としてミンハの〈近傍で語る(speaking nearby)〉が語られるということがよくわかった。
そして、アカデミック・ライティングと近傍で語るの二重書きをするプロンプトにアップデートした。
5. そしてメタの提案――「毎回、メタプロンプトから生成したほうがよくないっすか?」
プロンプトはまた書くと思うけれど、いまChatGPTから、こんな提案をもらっている。
「毎回、メタプロンプトから本番プロンプトを生成してもらったほうがよく無いっすか?」
これ、地味に効いている。
“書く”前に、“書く装置”を生成する。
読書ノートの前に、読書ノートの生成器を立ち上げる。
やりすぎにも見える。でも、たぶん僕がやりたいのはまさにそこだ。
撮ることが、撮られることや、撮らされることや、撮れちゃうことに絡め取られていくように、書くこともまた制度に絡め取られていく。ならば、書く前に距離を設計するしかない。
今週は、イベントに参加した週であると同時に、距離を設計し直す週だった。
参考文献(メモ)
ジェフリー・バッチェン「スナップ写真――美術史と民族誌的転回」
Hal Foster “The Artist as Ethnographer?”
トリン・T・ミンハ(Trinh T. Minh-ha)「speaking nearby(近傍で語る)」概念
『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』
ハッシュタグ案(20)
#今週やったこと #写真 #写真批評 #ヴァナキュラー写真 #speakingnearby #近傍で語る #トリンTミンハ #民族誌的転回 #ジェフリーバッチェン #スナップ写真 #退屈な写真 #HalFoster #制度批評 #アカデミックライティング #読書ノート #プロンプト #生成AI #行為主体性 #撮る撮られる撮らされる撮れちゃう #noteエッセイ
