『余命婚活』第3話 #創作大賞2025 #ミステリー小説部門
≪第3話≫
扉を開けた瞬間、焙煎されたコーヒー豆の匂いが鼻をかすめた。
焼きたてのフィナンシェがレジ横のショーケースに並んでおり、空気中に漂うバターの香りで肺がいっぱいになる。
午後6時前。空はほの暗く、通りを歩く人々の足取りはどこかせわしなかった。
カフェ「le silence(ル・シランス)」の奥、壁際の丸テーブルに、静かに本を閉じる女性の姿があった。
オフィスカジュアルのような淡い紺色の上下のスーツに、控えめなシルバーのピアスがミディアムヘアの内側から微かに光る。
目が合うと、彼女は微笑を浮かべて立ち上がる。
「神道みなみさまですね。お待ちしておりました」
名乗ることなく、まるで当然のようにそう言われ、わたしは片手に持っていたスマホから数日前に届いた案内通知の画面を開く。
女性はスマホの画面に視線を落とすとわずかに頷いた。
「確認できました。では、ご案内いたしますね」
彼女に続いて通されたのは、カフェの裏手にある小さな個室。
「あちらが小柳先生になります」
防音の扉が閉じられると、街の喧騒はすっかり消えた。
カフェの雰囲気とは打って変わり、まるで貸し会議室のようなシンプルな内装の部屋の天井から吊るされたプロジェクターからは一筋の光が放たれ、正面にはスクリーンが大きく構える。
壁には厚いカーテンがかけられ、白い長机が2つ対面型に配置され、椅子はそれぞれ2脚ずつ置かれていた。
そのスクリーンを背後に、資料を整えている女性がひとり。
黒髪を低くまとめ、しわひとつない白衣を纏(まと)って、こちらの足音に気づき視線を上げた。
彼女は資料を束ねたファイルをパタンと閉じ、静かに微笑みかける。
「ようこそ。初めまして、小柳と申します。どうぞ、おかけください」
緊張しながら椅子に腰を下ろす。室内は静かで、時計の針が動く音さえも吸い込まれていく。
カフェというより、どこか——面接室のようだった。
「まずは、このプログラムの基本的な理念について、ご説明いたします」
小柳先生は長机の上にタブレットを置き、そこに表示された文字をゆっくりと指で追う。
「Quiet Courtship(クワイエット・コートシップ)」
——静かに、誠実に、選択する婚活体験。
「私たちは、短期間のスピードマッチングではなく、深度のある対話と心の記録を重視しています。
いわばこれは、“記録される婚活”です。あなた自身の選択と、そこに至るまでの思考の軌跡——それを一つの物語として、丁寧に残していく」
「記録……?」
「はい。すべては、あなた自身の“内面の変化”を中心に設計されています。
本日この場では、まず“視聴セッション”を体験していただきます」
「視聴セッション……?」
小柳先生がリモコンを操作すると、部屋の照明がふっと落ちた。
プロジェクターが作動し、スクリーンにはある女性の横顔が映し出された。
彼女は、私と年齢も雰囲気も近い女性だった。少し不安げで、けれど懸命に笑おうとしていた。
「かつてこのプログラムに参加された方です。一定の段階に進んだ方に限り、記録を参考映像としてご提示しております」
過去に——?
「プライバシーを保護するため、映像には一部加工が施されていますが……ぜひ、ご自身と重ねながらご覧ください」
画面の女性は、小さなカフェでひとりの男性と会話していた。
はじめは他愛のない会話。だが、数分経つと、そのやりとりが急にぎこちなくなる。
女性が質問に答えると、男性は無言になり、そして——彼女は笑いながら視線を逸らした。
「この瞬間、彼女は“選ばれなかった”ことを悟っています。
私たちはここで、“どの言葉が、どの仕草が、彼女の心に連動しているか”を詳細に記録しています」
映像はそこで一時停止された。
スクリーンの中の彼女の顔は、うまく感情を隠しているようにも、壊れかけているようにも見えた。
「……これは、観察ですか?」
私は思わず尋ねた。
「いいえ。“記録”です」
小柳先生の口元は、あいかわらず微笑を保っている。
「観察されることで、人は初めて、自分の感情を見つめ直すことができる。
だからこそ、私どもが提供している本プログラムはあなたを“内面から”変えるのです」
薄暗い室内のなかで、その言葉だけがひどく輪郭をもって響いた。
「あ、言い忘れてましたが……。」
小柳先生は私のすべてを見据えたような目で得意げにこちらを見つめている。
「あなたは、先程の映像の中で、あの女性がこのプログラムの参加者だと、そう思って観ていたのではないですか?」
私はその瞬間、喉の奥が苦しくなるような感覚に陥った。
小柳先生はまたあの微笑を浮かべ、こう続けた。
「そのようですね。本プログラムに参加された方は、男性の方ですよ。
女性はあくまで記録の対象者、の対象者です」
……記録の対象者、の対象者?
それがどういう意味なのか、まだ頭の中で咀嚼(そしゃく)しきれないうちに、わたしは半ば誘導されるように映像の続きに促された。
再び映像が再生され、数分経ったころ──
先程までは女性の方に気がとられていたからか、そこに映し出される男性の姿に、どこか居たたまれないというか、居心地の悪さというものを感じた。
顔や声には修正がかけられているため確信ではなかったが、心臓の鼓動が、耳の奥でじわじわと響き始めている。
──いや、そんなはずはない。
けれど、その人物の仕草や言葉に私は息を呑んだ。
「……修平……?」
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