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支援の場で専門家が言葉を選ぶ責任

以前、このような記事を投稿しました。

今回は、精神科やカウンセリングの世界で
時々聞こえてくる言葉について考えてみたいと思います。
それは、
「この患者は構ってちゃんだから」
「察してちゃんだから扱いづらい」
というような言い方です。


こうしたレッテルは、
医療者側、支援者側にとって
確かに「理解しやすい分類」かもしれません。

「またこの人は注目を集めたいだけなんだ」
「本気で助けを求めているわけじゃないんだ」

そうやって心の中で線を引けば、
日々の業務や支援の負担が少し軽くなることもあるでしょう。

でも、ここで立ち止まって考えてみたいのです。

■ 人は「必要がないこと」を必死にしない

臨床現場でよく感じることですが、
人は“必要がないこと”を、
必死になってまですることはありません。
たとえそれが周囲から見て

  • 理解不能であっても

  • 不快であっても

  • 迷惑だと感じられるものであっても

その人にとっては、「今、生きるために必要だから」行っている行為です。

「構ってちゃん」という言葉は、表面上は「依存的」「幼稚」といった説明かもしれませんが、その本質は相手への嘲笑や切り捨てです。
そして、その嘲笑を敏感に察知した人はどうするでしょうか。

そうです。

  • もっと深い苦しみを語らなくなる

  • 些細な体調変化も言わなくなる

「どうせまた笑われるだけだ」
「面倒な人間だと思われるだけだ」

そうやって、本当は早めに検査や治療が必要だったことを隠し、静かに悪化させていくことも少なくありません。

■ 言葉はナイフにも、糧にもなる

僕はいつも思います。

支援者が発する言葉は、
相手にとって糧になることもあれば、ナイフになることもあると。

もちろん、支援者や医療者だって一人の人間です。
理想論だけで動けるわけではありません。

でも、だからこそ、
言葉の向こうにいる“生きようとしている誰か”を、
完全に見失わないようにしたいと思うのです。

■ 治療構造とは何か

治療構造とは、簡単に言えば

治療の枠組み
時間、頻度、対応範囲
治療者と患者間の暗黙のルール

を指します。

この枠組みが安定していることで、患者さんは安心して話ができ、治療者も無制限に消耗せずに済む。

まるで、泳ぐためのプールの壁のようなものです。
もし壁がなければ、水はどこまでも広がってしまい、泳ぐことそのものが不可能になるでしょう。

臨床現場では、

  • 夜間にリストカットをした患者さんが救急に来る

  • 「このままでは危険だから医師に連絡を」となる

ということがあります。
このとき、治療者側は悩むことになります。

夜中に呼ばれることで、「リストカットをすれば会える」という条件付けを強めるかもしれない
しかし、呼ばれなければ、「自分は見捨てられた」という絶望を深めるかもしれない

治療構造を守るために「今は会わない」と決めるか、
関係構築のために「ここで会う」ことを選ぶか。

どちらにもリスクがあり、どちらも決して簡単ではありません。

若手の精神科医へのコメントで、
「最初はむしろ巻き込まれて学んだ方がいい」という意見がありました。

僕も同感です。
治療構造は確かに大切ですが、構造を守るだけでは関係は築けません。

相手の世界に足を踏み入れ、泥にまみれてでも共に在る覚悟が、治療者には時として必要です。
一方で、踏み込みすぎると自分自身を保てなくなることもある。

■ 治療構造の真の意味

治療構造の本質は、ただ硬直したルールを守ることではなく、
「この人とこの状況に最適な枠組みは何か」を考え続けることです。

そして、その枠組みを支える柱は、

  • 治療者自身の安定

  • 患者への深い理解

  • 絶対的ではないが、できる限りの誠実さ

だと、僕は思います。

■ 支援者だって人間

夜間救急で呼ばれ続ける医師、
終わらない相談に疲弊するカウンセラー、
家庭でも仕事でも支援を求められる人。

「支援する側」であっても、僕たちも一人の人間です。

眠れない夜もある
何もできない自分に無力感を抱く日もある
ただただ怒りや苛立ちが湧く日もある

誰かを助けたいと思う人ほど、その理想と現実の落差に苦しむことがあるでしょう。
だからといって、
疲れているからといって、

「構ってちゃんは面倒」
「またリスカかよ」

といった言葉を、不特定多数が見るSNSで発信してしまうと、それを見た当事者や家族はどう感じるでしょうか。

「やっぱり迷惑なんだ」
「助けを求めるなんて、してはいけないことなんだ」

そう思わせる一言は、時に命を絶つ引き金になり得ます。

■ 専門家としての言葉は「社会的メッセージ」になる

医療者や心理職は、個人としてSNSに投稿しているつもりでも、「専門家としての言葉」として受け取られます。

それは不自由でもあり、でも、だからこそ慎重でなければならないのだと思います。
もちろん、心のうちで苛立つこと自体は誰にも止められません。

大切なのは、

  • その苛立ちをどこに吐き出すか

  • 誰に向けて発信するか

を選ぶことです。

■ 支援者も支援される必要がある

僕は思います。

  • 支援者が疲弊している社会は、結局当事者も守れない

  • 支援者自身が支援されることで、初めて支援が循環する

無力感も、苛立ちも、悲しみも、どれも「支援する人間」である前に「一人の人間」として自然な感情です。

だからこそ、自分を守り、支援者同士で支え合う仕組みが必要なのでしょう。

言葉はナイフにも、糧にもなる。
もし今日、あなたが誰かに優しい言葉をかけられなかったとしても、それを責める必要はありません。

ただ、
あなたの言葉が未来をつくる力を持っていることだけは、覚えていてほしいと思います。


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