スタバでSNSしてる時間を「有意義」と呼べるのか
最近、「有意義に過ごすべきかどうか」なんて話が、ふとインスタントコーヒーをすすりながら頭に浮かぶ。
家でぼんやりしているときほど、そういう「人生の意味」みたいな気の重いテーマが顔を出すのはなんでだろう。特にやることもなくて、テーブルに突っ伏すようにイスに沈み込んで、鼻先にかすかなコーヒーのにおいが漂ってくる時間。
なんとなく気が向いたからインスタントにお湯を注いだだけなのに、こういうときに限って、「果たして有意義とは何なのか」なんて考えてしまう。
不思議なのは、逆に「今、結構有意義なことしてる気がするぞ」と思う瞬間が、意外とくだらない行為だったりすることだ。
たとえば、ふらっと本屋を回っているとき。「今日は本を買いにきたわけじゃないんだけどな…」と思いつつ、新刊コーナーからビジネス書売り場へ寄り道し、小説棚でぼんやりタイトルを眺めていると、なんとなく「よし、何かいいものが見つかるかもしれない」とか「これって自分の世界がちょっと広がってるかも」なんて感じる。結局、買わずに帰ることも多いんだけど、その時間が「有意義だった」と思えるのは何なのか、よくわからない。
あるいは、スタバでダラダラとスマホをいじってるとき。あれも不思議だ。家でスマホを触ってると「何やってんだろう、これ」って感じるのに、なぜスタバだと「なんか自分、休日をうまく活用してる…?」みたいな錯覚に陥るのか。コーヒーがちょっといい香りだからなのか、周りにパソコン開いてる人が多いからなのか、ただの気のせいなのか、さっぱりわからない。
それにしても、有意義を求めようとすると、まともに休んだ気がしなくなる気がする。「今日は何もしなかったな」って罪悪感を持つのって、本来変な話だ。
家で寝てようが、床にゴロゴロしてようが、本当は何の問題もないはずなのに。狩猟民族だったら、獲物がいなければ寝てればいいし、原始的な島の人たちみたいに海を見て過ごしても誰も文句は言わない。そういう世界から見れば、「有意義に過ごさねば」という僕らの考え方はずいぶん奇妙に映るかもしれない。
何年か前に職場で、同僚が「休日に昼過ぎまで寝てたら一日が無駄になった気がする」って嘆いていたけれど、よくよく考えれば、起きていたとして何をやったんだろう。
スマホでSNSを眺めている時間を「有意義」と呼べるのか、疑わしいものだ。僕がさっきスタバで感じた「ああ、有意義だなあ」という感覚なんて、もしかしたらただの錯覚かもしれないし、家でインスタントコーヒーを飲んでいる時間と本質的には変わらないのかもしれない。
まあ、結局答えは出ない。そんなことを考えていても、有意義かどうかは「そう感じるかどうか」だけの話だし、それ自体に意味はないかもしれない。でも、別にそれでいいんじゃないかと思う。
意味がないことを気にせず受け流せるほうが、生きやすい。結局、ぼくらはただ今を過ごしているだけだし、そこに「有意義」とかいうラベルを貼るか貼らないかなんて、ちょっとした気分の問題かもしれない。
インスタントコーヒーを飲み干して、空っぽになったマグカップを見つめていると、そんなことをぼんやり考える。たぶん、これも有意義とはかけ離れているんだろうけど、まあ、いっか。
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