贈り物が教えてくれた愛着
妻から買ってもらったものが、どうしても捨てられない。
緑色のパーカーやからし色の半袖シャツ、それに上巻を熱心に読んでいた時にプレゼントされた「暴力の人類史」の下巻――特にそのへんは代表格だ。
大抵は誕生日やクリスマスにもらうんだけど、たまに何の脈絡もなくリーボックのポンプフューリーや、ジャーナルスタンダードのコートをプレゼントしてくれる時もあって、嬉しい時もあれば「合う服持ってないけど使うかな……」と戸惑うこともある。
実際、からし色の半袖シャツはけっこういい生地らしく、妻も「着てよ」と不服そうに見てくるんだけど、酷暑の時期には逆に暑苦しく感じるし、涼しいときは薄いから寒い。
初夏に着るのがベストなんだろうけど、そのタイミングを逃し続けて、もう3年くらいクローゼットで眠ってる。自分で言うのもなんだけど、使ってないのがバレバレだから、妻は内心ちょっとガッカリしてると思う。
でも、捨てられない。
昔はこうじゃなかった。
親が買ってくれたでかいリザードンの貯金箱もゴミ袋に突っ込んで捨てたし、太鼓の達人のソフトは近くの古本市場で売ってお小遣いにした。
母親から、買ってもらったのに間違って同じ本をまたプレゼントされたときなんかは、友達にあげてたし。
プレゼントをあっさり処分する習慣は、ASDの気があるからなのか、機能性を失ったらすぐ手放すタイプだった。
それなのに、妻からのものだけは別扱い。
コートも、からし色のシャツも、読み終えた下巻の本も、「うーん使わないんだけど」と思いながら手が止まる。
機能的にはほぼ意味をなしてないし、場所も取るし、何より着る気配ゼロなのに、捨てるとなると罪悪感みたいなのがある。
妻は別に「絶対捨てるな」って言わないけど、なんとなく“妻の気持ち”を勝手に想像してしまうのかもしれない。
思い返せば、捨ててる記憶がほぼないものは、「どこか」に積んで放置しているだけかもしれない。僕自身が忘れっぽいから、実際に捨てたのかどこかにしまったのか、曖昧なことは多い。
でも妻のプレゼントだけは、曖昧でも残しておきたい気持ちがある。それが情緒ってやつなのか、昔の自分にはなかった感情だと、我ながらちょっと面白い。
いつか、もしかしたら、パーカーやシャツを手放すかもしれない。
でもいまは、「使わないけど捨てない」でクローゼットにそっと置いてある。
機能性や合理性でいえばどう考えても不要なのに、妻からもらったというだけで“居座れている”モノに、少しだけ愛着を感じるのもまた不思議だと思う。
妻との話はこちらでも書いてます。
