頭の中をすっきりさせるために文章を書く
文章を書くのが好きだ。
自分で言うのもなんだけど、昔はまったくそんな人間じゃなかった。とにかく書くのが面倒で、読書感想文なんか大嫌い。けれど今は、気づけば言葉を綴るのがそんなに苦でもなくなっていて、改めて「人って変わるんだなぁ」と思う。
学生時代、もっともイヤだったのはやっぱり読書感想文だ。何を書けばいいのか分からなくて、机に向かいながら「感想なんてないんですけど」と心の中でつぶやいて終わってしまう。
先生には「思ったことを素直に書きなさい」と言われるけど、そもそも自分の思いを丁寧に拾うのが得意じゃなかった。
例えば『夏目漱石の作品を読んで何を感じたか?』なんて聞かれても、「うーん…」で止まる。原稿用紙を前にして時計をにらむ時間だけが過ぎて、結局テキトーな作文になってしまうのが常だった。
そんな僕が「文章を書くのも悪くないかも」と思い始めたのは、月12本の記事を強制的に書くようになってからだ。ある定額制サービスの仕事で、毎月一定数の原稿を納めないといけない。
最初は「これは無理だろう」と半ば絶望していた。一記事書くのに数時間かかるのに、それを12本? しかも毎月続く?だけどやってみると、人は慣れるというか、書かないと締め切りに追われるから強制的に頭をひねって言葉を並べる。
無理やりやっているうちに、「あれ、意外と書けるじゃん」と気づき始めた。
慣れってすごいもので、今ではむしろ「書かない日が続くと落ち着かないかも」と思うほどだ。
いまの書き方はわりと気まぐれだ。スマホでさっと書いて、後から加筆修正することが多い。書きたいことが明確なときは一気に書くし、「何を書きたいのか曖昧だな」というときは、途中で止まって放置することもある。
それでも、Xに投稿する前には多少は見返す。その見返しの作業で「この表現、違う感じかもしれない」という小さな違和感に気づく。それを言い換えるのが、ちょっとしたパズルみたいで面白い。
たとえば「悲しい」という言葉を「やるせない」「しんみり」「侘しい」などに置き換えると、ニュアンスが微妙に変わる。その変化を観察すると「これだ」という瞬間があって、それが思わぬ快感になっている。
考えてみれば、昔はそういう“単語の微調整”が心底面倒だった。「別にそこまでこだわらなくてもいいのに」と思っていたけれど、いまではそれこそが書く醍醐味なんじゃないかとすら感じる。
自分の感想を拾うのが苦手だった頃は、言葉で考えを外に出すハードルが高すぎたのだろう。でも一度慣れてみると、「書けば頭が整理される」という理屈が分かるようになり、続けていけるようになった。
そうやって書く日々が4年以上続いている。毎月12本というノルマは最初こそ重かったが、不思議なもので、いまでは「このペースが普通かも」と思える。感想文の頃と何が違うかといえば、たぶん「自分なりのペースで書いてもいい」という感覚だ。
昔の読書感想文は「正解を書く」みたいな縛りがあった気がするけれど、いまは「自分が感じたことを書いて、それが正解でも不正解でもいい」。その自由さが文章を書くのを楽にしているんだと思う。
いまも、ふとしたときにスマホを開いて何行か書いて、妙な言葉遣いに気づいたら修正し、最終的にXに投げる。
もちろん、何をどう表現してもどこかで違和感は残るんだけど、書き続けるうちにその違和感を小さくしていく作業がやみつきになる。あの読書感想文を敬遠していた過去の自分からは、想像できない変化だけれど、きっと人間ってこんなふうにスイッチが切り替わるものなのかもしれない。
昔は作文用紙にうなだれていた自分に、「言葉をまとめるのって意外とおもしろいんだよ」と伝えてあげたい気もする。
文章を書くのが好きだ。
昔は嫌いだった、面倒で言語化が苦手だったから。いつも悶々としてた。
でもいまは、それが嘘みたいに、気が向けばスマホを開いて何か書いている。驚くほど自然に。
しかもそうやって書くことで、Xではファンが増えて僕のサービスに課金してくれるんだから、こんなにお得なことはないだろう。
今や文章様様だ。
AIの力を借りつつ、これからもゴリゴリ書いていこう。
文章に関することはこちらでも書いてます。
