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「綺麗事」と言われて、なぜ私たちは止まってしまうのか


「それ、綺麗事だよね」


この一言で、
言葉を飲み込んだこと、
立ち止まったことはありませんか?

やってみたいと考えていたこと。
いいなと感じていたこと。
大切にしていた想い。

それらが一瞬で、
「現実的じゃないもの」に変わってしまう感覚。


なぜたった一言で、
私たちはこんなにも簡単に止まってしまうのでしょうか。

▼vol.1はこちら


「綺麗事」とは


「綺麗事」という言葉は、

広辞苑(第六版・第七版)では、
「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」とされています。


本音と建前の“建前”の部分であり、
行動を起こす気持ちや取り組む気持ちがない、
その場限りの言葉や取り繕った言動を指す言葉。

と言えるのだろうと思います。


本当に「綺麗事」?


ただ、私には少し違和感が生まれます。

たとえば、

こうしていきたいという望みや、
目指している未来のイメージがある場合。

たとえそれが今の自分とかけ離れていたとしても。
現状と大きな差があったとしても。

時間をかけてひとつずつ成していこうとしていたり、
必要な変化を引き受ける覚悟があったりするのであれば、

それは、「綺麗事」とは言えないのではないか? と。

「覚悟がないから綺麗事なんだ」と
言われることもあるかもしれません。

でも、

なぜ、それが「ない」と断定できるのでしょうか。
なぜ、この先も行動しないと言い切れるのでしょうか。

それは、本来わからないはずです。


また、「綺麗事って、なんですか?」でも触れたように、

どう取り組んでいくかを模索している段階、
自分なりのタイミングを計っているところ、
という人もいるかもしれない。

そう考えると、

安易に、

「現実離れしている」
「行動が伴っていない」

と言えることって、
ないのではないかと感じるのです。


「止まる」理由


「綺麗事だよね」と言われると、

その言葉の中には、

「実情にそぐわない」
「現実離れしている」
「行動が伴っていない」
「体裁だけ」

といった意味合いが含まれていて、

「無理」
「できない」
「ダメ」

そんなレッテルを貼られているように感じます。


だから、止まる。


動こうとしていた意欲や、
こうしていこうああしていこうと期待を胸に模索していた気持ちが、
一歩引いてしまう。
戸惑ってしまう。


人によっては、

望みを持つことそのものが、
怖くなってしまうこともあるかもしれません。


「止まる」こころの動き


私たちは、

「ちゃんとしないと」
「大人としてこうあるべき」

といった、

人や社会、常識といったものから
大きく外れてはいけないという意識を、
無意識のうちに持ちやすいものです。

気づかないうちに、

「外れないこと」
「間違えないこと」
「浮かないこと」

にアンテナが立ちやすい状態になっている。

そして真面目な人ほど、

「ちゃんとしているか?」
「ズレていないか?」
「おかしなことを言っていないか?」

と自分に問い続け、

何かをやろうとしたとき、
何かを言おうとしたとき、
とブレーキがかかりやすく、

「それって本当に大丈夫?」
「現実的じゃないんじゃない?」
「ちゃんとしてないと思われない?」

そんな声が、
自分の中から自然に出てきて、
自分自身を縛ってしまう傾向があります。


そしてそこに、

「綺麗事だよね」

という言葉が重なった瞬間、

「あ、やっぱりそうかもしれない」
「私、ズレてるのかもしれない」

そんな感覚に襲われやすく、

自分は何か間違っているのではないか? と、
立ち止まったり、自分の感覚を引っ込めたりしてしまう。


まるで、
真っ直ぐ進もうとしていた道の手前で、
「その先は行き止まりだよ」と言われたみたいに、
とても素直に。


「基準」は「わたし」


「ちゃんとしないと」
「大人としてこうあるべき」
「外れてはいけない」

その基準は、
本当にあなた自身が必要としているのものですか?


過去に、

  • そんなの無理だと言われた

  • ちゃんと考えなさいと言われた

  • 現実を見なさいと言われた

または、

「誰誰ちゃんは…」
「みんなは…」
「普通はこうだよ」

と言われたことがあったかもしれません。


そのたびに私たちは無意識に学習します。

「これは言わない方がいい」
「これはやらない方がいい」
「これは現実的じゃない」

そして、

「ちゃんとしないといけない」
「言われたことに従わないといけない」
「人と違うことをしてはいけない」

と。

もちろん経験にもよるし、
環境や人間関係にもよるし、
個人差はありますが、

そんな経験の積み重ねが、
今現在の自分自身の基準として形成されていきます。


だからこそ、

「綺麗事だよね」と言われたとき、
本当に止めているのは相手ではなく、

その言葉に反応した、自分の中の基準です。


外からの言葉は、きっかけに過ぎません。

止まるかどうかを決めているのは、
いつも自分の内側です。


「基準」を、選び直す


では、どうすればいいのか?

「気にしないようにしよう」とする必要はありませんし、
反応しないように「強くなろう」とする必要もありません。


ただ、
「なんで?」
「どうして?」
とふり返る時間を持ってください。


  • なんで私は止まろうとしたのか?

  • その判断は、基準は、どこからきているのか?

  • なんでやりたいんだった?

  • 止まる理由は?

  • 私は、どうしたい?


これは本当に無理なことなのか。
それとも、過去の経験からそう思っているだけなのか。

今の自分の気持ち、基準、判断を再確認する時間。


この問いを持つだけで、
思考の流れは変わります。


止まることが問題なのではなく、

  • 無自覚に止まってしまうこと

  • 止まり続けてしまうこと

に気づけることが、大切です。


それに気づけたとき、
「自分の意思で、選ぶ」ことができるようになります。


「綺麗事」と言われたら


その言葉の前にあるものではなく、
その言葉の“あと”に、自分の中で何が起きているのか。

少しだけ、見てみてください。


止まるのか。進むのか。
それとも、もう少し掘り下げたり様子を観たりしてみるのか。

どの選択が正しいということではありません。


「“私は”これを選択する」と、意図を持って選択すること。


そこには、現実を変えていく力があります。


次回は、vol.3として、
「“綺麗事”で片付ける人は、何を見ているのか」
の視点を整理していきます。

綺麗事vol.3はこちらから


ここまで読んで、
「なるほど」と感じた方もいるかもしれません。

けれど同時に、
「じゃあ、どうすればいいの?」
そんな感覚が残っている方もいるのではないでしょうか。

この“わかったのに動けない状態”については、
以下でお話しています。


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美結(みゆ)|“目に見えない関係性”を読み解く人 応援、ありがとうございます。いただいたチップは、執筆や対話・探究を続けるための活動費に使わせていただきます。