③【2026年10月施行】カスハラ防止義務化|私は車で20分、インクを届けに行った。
私はふたりいる。平日の昼、会社で働く労働者の私。夜と週末、業務委託で仕事を受けるフリーランスの私。2026年10月1日、このうち片方だけが、法律に守られるようになる。
10月1日、あなたはどちら側か
会社で働く(正社員・パート・アルバイト)──会社にカスハラ対策の義務。4つの措置(労働施策総合推進法33条1項)。
フリーランス(業務委託)──この義務の傘の外。発注者からのハラスメントは別の法律(フリーランス法14条)。ただし違反しても、最後は「公表」止まり。
先に3つだけ、即答しておく。
いつから?──2026年10月1日。経過措置はない。
誰が対象?──労働者を1人でも雇う、すべての事業主。会社の規模は関係ない。そして守られるのは「労働者」。
何が義務?──4つの措置。①方針の明確化と周知 ②相談体制の整備 ③起きた後の迅速かつ適切な対応 ④著しい迷惑行為への抑止措置。
ここから先は、20年前の話から始める。
20年前、車で20分──カスハラに名前がなかった頃
電話の向こうの声は言った。「今すぐ持ってこい」。
プリンタのインクだった。お客様が店頭で自分で選び、自分でレジに持ってきて、買って帰ったインク。型番が合わなかった。それ自体はよくある話で、店に持ってきてもらえれば交換する。送料をこちらで持って郵送する手もある。選択肢は普通にあった。
だが電話の声は、そのどれも拒んだ。今すぐ、お前が、持ってこい。
私は上司に相談した。返ってきたのは一言だった。
「持っていくしかないわな」。
私は在庫棚から正しい型番を抜き、車に乗り、20分かけて届けに行った。玄関先で頭を下げ、交換し、また20分かけて店に戻った。その間、売場には私がいなかった。
理不尽だとは思っていた。でも、それ以上に進まなかった。あの要求を断っていいという根拠を、私は持っていなかった。上司も持っていなかった。会社にも、たぶんなかった。「お客様は神様」の時代で、あの電話は「熱心なお客様」で、私の40分は「接客」だった。
あの日の出来事には、名前がなかった。名前がないものは、断れない。記録もされない。誰にも相談できない。ただ各自が飲み込んで、飲み込める人から順に擦り減っていく。
それから20年経って、あの電話に名前がついた。
あの電話に、名前がついた──カスハラの定義と3つの条件
2026年10月1日、カスタマーハラスメント対策が、すべての事業主の義務になる。根拠は2025年6月に公布された改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)。義務の中身を定めるのが法33条1項で、具体的な線引きは厚生労働省の指針(令和8年厚生労働省告示第51号)に書いてある。
指針によれば、カスタマーハラスメントは次の3つをすべて満たす言動だ(指針2⑴)。
1. 顧客等の言動であること
2. その業務の性質などに照らして、社会通念上許容される範囲を超えること
3. それによって労働者の就業環境が害されること
大事なのは、3つ揃って初めて該当するという設計だ。商品に欠陥があって、お客様が事実を指摘し、交換や返金を求める。これは正当な申入れであって、カスハラではない。指針もそこは明確に除外している。クレーム=カスハラ、ではない。問題は中身と、やり方だ。
指針は類型も示している(指針2⑸)。要求の内容がおかしいもの──理由のない要求、過剰なサービスの要求、対応できないことの要求、不当な賠償請求。要求の手段がおかしいもの──身体的な攻撃、暴言などの精神的な攻撃、威圧、執拗な繰り返し、長時間の拘束。どちらか片方でも該当し得る。電話やSNS越しの言動も対象だ。
では、20年前のあの電話を当てはめてみる。
要求の内容。自分で選んで買った商品の型番違いに対して、店頭交換でも郵送でもなく「従業員が今すぐ自宅へ持参せよ」。業務の性質に照らして、家電量販店の販売員の業務に個別宅配は含まれない。過剰なサービスの要求だ。要求の手段。「今すぐ持ってこい」という電話口の威圧。断る選択肢を与えない言い方。
①顧客の言動である。②社会通念上許容される範囲を超えている。③その結果、私は40分売場を離れ、以後この種の電話が鳴るたびに身構えるようになった。就業環境は害されていた。
3つ、揃っている。20年前のあれは、今の物差しで測れば、カスタマーハラスメントだった。
もうひとつ、この指針で見落とされがちな一文に触れておきたい。障がいのある方が差別の解消を申し出ること、合理的配慮を求める意思を表明すること──これらはカスタマーハラスメントに当たらないと、指針は明記している(指針2⑴)。「強く要望する客は全部カスハラ」という運用に流れないよう、法律の側が先回りして釘を刺している。名前がつくということは、境界線が引かれるということでもある。
名前と境界線。20年前の私に一番なかったものだ。
会社がやらされる4つのこと──カスハラ防止義務化で何が変わるか
では10月1日から、会社は具体的に何をしなければならないのか。指針が求める措置は4つある(指針4⑴〜⑷)。
1つ目、方針の明確化と周知。「うちの会社はカスハラから従業員を守る」「こういう行為には対応を打ち切ることがある」──この方針を決めて、従業員に知らせること。
2つ目、相談体制。カスハラを受けた従業員が相談できる窓口を作り、相談したら適切に対応される体制を整えること。
3つ目、起きた後の迅速かつ適切な対応。事実関係を確認し、被害を受けた従業員に配慮の措置をとること。
4つ目、著しい迷惑行為への抑止措置。そして指針は、その具体例まで踏み込んで書いている。一人で対応させない。録音・録画する。一定の時間で退店を求める、電話を切る。警察に通報する。本社に共有する。弁護士に相談する(指針4⑴ロ)。悪質な事案の終点も用意されている。警告文の発出、サービス提供の拒否、出入禁止、民事保全法の仮処分(指針4⑷)。
さらに横串として、相談者のプライバシー保護と、相談したことを理由とする不利益取扱いの禁止が全体にかかる(指針4⑸)。
読み替えると、こうなる。「電話を切っていい」「一人で行かなくていい」「断っていい」を、会社が制度として従業員に渡すこと。それがこの義務の中身だ。
20年前に戻る。「持っていくしかないわな」。あの一言は、上司個人の冷たさではなかったと今は思う。彼にも渡されていなかったのだ。断る根拠も、対応の手順も、相談する先も。だから10月1日以降、同じ電話が鳴ったとき、「持っていくしかないわな」で終わらせる会社は、単に感じが悪いのではない。法律上の義務を果たしていない疑いのある会社になる。
罰則はどうか。カスハラをした客が処罰される法律ではない。義務を怠った会社に、いきなり罰金が科されるのでもない。行政の流れは、報告徴求・助言指導・勧告、それでも従わなければ企業名の公表。報告を拒んだり虚偽の報告をすれば20万円以下の過料(法41条)。軽いと感じるだろうか。私はそうは思わない。「名前がつき、義務になり、放置すれば会社名が公表される」──20年前とは、地面の高さが違う。
そして私は、ここまで書いてきて、自分のもう半分のことを考えている。夜と週末の、フリーランスの私のことだ。
私は、半分しか守られない──フリーランスとカスハラの現在地
ここまでの話は、平日の昼の私──労働者の私の話だ。
夜と週末、私はもうひとりの私になる。業務委託で仕事を受けるフリーランス。この私に「今すぐ」の連絡が来たとき、守ってくれる4つの措置は、ない。
10月1日に義務化されるカスハラ対策が守るのは「労働者」だ。指針は、フリーランスのような自社の労働者以外の人への対応についても触れてはいる。ただしその書き方は、方針を併せて示すことが「望ましい」──義務ではない。法律上の努力義務ですらなく、指針の推奨だ(指針7)。義務と「望ましい」の間には、断る根拠になるかどうかという、20年前の私が知っている距離がある。
では、フリーランスは丸腰なのか。別のルートはある。フリーランス法(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律、2024年11月施行)だ。14条1項は、発注者に対して、ハラスメントの相談に応じ適切に対応するための体制整備を義務付けている。対象は3類型──セクハラ型、妊娠・出産に関する型、そして「取引上の優越的な関係を背景とした言動」で就業環境を害する型(14条1項3号)。フリーランスにとっての「客」は発注者だから、理不尽な要求の多くはこの3号の射程に入り得る。相談したことを理由に契約を切るなどの不利益取扱いも禁止されている(14条2項)。
紙の上では、傘があるように見える。
だが、条文を最後まで読むと、この傘の骨組みが見えてくる。フリーランス法の中で、報酬関係や募集情報の義務に違反した発注者には、勧告→命令→罰金(50万円以下)という執行の階段が用意されている。ところが14条──ハラスメントの条文だけは、その階段から外されている。命令の条文は「第十四条に係るものを除く」とわざわざ書き(19条1項)、勧告に従わなかった場合にできるのは、その旨の公表まで(19条3項)。立入検査の対象からも14条関係は外れている(20条)。
同じ法律の中で、お金の話は罰金まで行き、ハラスメントの話は公表止まり。これが、フリーランスの私に用意された傘の現在地だ。
誤解のないように書いておく。私は「だから無意味だ」と言いたいのではない。相談体制の義務があること自体、数年前にはなかったものだ。ただ、昼の私と夜の私を並べたとき、守られ方には確かな段差がある。昼の私には、会社の窓口があり、対応の手順があり、電話を切る根拠が制度として渡される。夜の私には、自分しかいない。
私はふたりいる。そして10月1日、片方だけが傘の中に入る。
自分に、返ってくる──「顧客等」には取引先も含まれる
ここまで「守られる側」の話を書いてきた。最後にひっくり返す。この法律は、あなたと私を「する側」としても名指ししている。
指針の「顧客等」は、店のお客様だけではない。取引先の担当者、契約交渉の相手方、施設利用者の家族、近隣住民までが例示されている(指針2⑷)。BtoBの電話も、メールも、射程の中だ。
つまり、こういうことだ。私が仕事で発注する側に回ったとき、納期を詰めるとき、ミスの対応を求めるとき──その言動が範囲を超えれば、私は相手の会社にとっての「カスハラをする顧客等」になる。10月1日から、相手の会社には私への対応を打ち切る根拠が、制度として渡される。
そしてもうひとつ。20年前、「持っていくしかないわな」と言った上司。あの席に、いまは私が座っている。部下が理不尽な電話を受けたとき、隣で顔色を変えている部下に、私は何と言うのか。
「持っていくしかないわな」と言わずに済む道具が、今度は義務として、私の会社にも渡される。方針、窓口、対応の手順、打ち切りの基準。それでも私があの一言を口にしたなら、今度こそ、それは会社と私の不作為だ。20年前は名前がなかったから仕方なかった、という言い訳は、10月1日で失効する。
この法改正は、被害者の私と、加害者になり得る私と、上司としての私を、全員まとめて呼び出している。
建前かもね。最初は。
正直な予想を書いておく。
10月1日、多くの職場で起きるのは、たぶん地味なことだ。朝礼で方針が読み上げられる。イントラに相談窓口の内線番号が載る。研修の受講案内が来て、様式が1枚増える。現場は変わらないじゃないか、紙が増えただけじゃないか──そう言いたくなる光景だと思う。
建前かもね。最初は。
でも、私はこのシリーズで同じ形を2回見てきた。公益通報の窓口も、育児介護の制度も、最初は紙だった。それでも、窓口があるから通報の選択肢が数えられるようになり、制度があるから取得率の低さが数字として突きつけられるようになった。名前がつくと、数えられる。数えられると、放置が「未対応」として記録される。建前は、現場が変わるための最初の足場だ。
20年前の私に足りなかったのは、勇気ではない。根拠だった。「その要求はお断りします」の後ろに置く、一枚の紙。10月1日から、その紙を用意することが、すべての会社の義務になる。
最後に、持ち帰りをひとつだけ。10月になっても、あなたの職場に方針の周知も相談窓口も見当たらなかったら──それはあなたの我慢が足りないのではなく、会社の義務が果たされていない可能性がある。各都道府県労働局や労働基準監督署内の総合労働相談コーナー(全国378か所)で、労働者からでも事業主からでも、無料・予約不要で相談できる。
あの日、車で20分走った私に、この記事を届けることはできない。でも、今日どこかで「今すぐ持ってこい」の電話を受けたあなたには、間に合う。
建前かもね。最初は。
労務の専門家(裏付けで社労士事務所5年・30社以上)
出典
一次資料を直接確認したもの
・改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)
・事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年2月26日厚生労働省告示第51号)
・特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(令和5年法律第25号)法律全文(公正取引委員会)
・総合労働相談コーナーのご案内(厚生労働省)
その他
・e-Gov法令検索「労働施策総合推進法」「特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律」
本記事は制度の一般的な解説と、筆者自身の体験に基づく個人の見解です。個別の判断は、厚生労働省・お近くの総合労働相談コーナー等でご確認ください。
同じ「届かない法改正」シリーズの記事です。
この記事の伏線は、①の最後に置いてありました。12月には守られて、10月には見送られる、同じ私の話。
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