【短編小説】七つの光は空を照らす
窓の外には水平線が広がっている。
なのに、樹の空は狭かった。
港を見下ろす。二十四階から見えるコンテナは、積み木のように小さい。あの中に何が入っているのか、誰が運んでいるのか。考えたことがなかった—いや、考えないようにしていた。
「西園寺さん」
田中部長の声が背後から突き刺さった。コバルト輸入の資料。フェアトレード認証。従来より三割高。
「無理だ」資料が机に叩きつけられる音。「理想論で飯は食えない。ここは君のお母さんの慈善事業じゃない」
樹の内部で何かが軋んだ。養母、と訂正したい衝動。その衝動への嫌悪。その嫌悪への罪悪感。感情が感情を産んで、もつれた糸のように胸の奥で絡み合う。
廊下に出ると、同僚たちの声が聞こえてくる。
「やっぱりね。七光りで入社して」
「成果出せないくせに、理想だけは一人前」
足が止まった。確かに自分は西園寺の名前で入社した。でも、それがどうだというのか。みんな何かしらのコネがあるではないか——そのとき、自分の思考の醜さに気づいて愕然とした。
午後、高岡トレーディングの社長がやってきた。高岡慎一郎。六十代、穏やかな笑顔の裏に鋭い眼光を宿している。
「フェアトレードの件、お聞きしています」
「コストが…」樹は口ごもった。「結局、母の名前がなければ何もできないのかと」
「面白いことを言いますね」高岡の表情が変わった。「私の祖父がよく言っていました。『コントロールできることとできないこと、区別せよ』と」
「あなたが西園寺として生きること。それを変えられますか?恥じることで現実が変わりますか?」
高岡は微笑んだ。
「現実を見に行きませんか。アフリカに」
コンゴの空は、樹が見たどの空よりも高かった。
赤土が舞い上がり、白いブラウスを染めていく。空港から採掘現場までの道のりで、樹は胃の奥がざわめくのを感じた。緊張のせいではない。何かが自分の中で動き始めているのを感じていた。
「お疲れさまです」
男性が出迎えた。アフリカ系の血が混じった顔立ち。汗で濡れたシャツの袖を無造作にまくり上げている。
「城田健一です」手を差し出しながら、人懐っこく笑った。
「樹です」
「ああ、西園寺のお嬢さん」城田の笑顔に嫌味はない。「フェアトレードをしに来たって?どうです、想像通りでした?」
樹は首を振った。想像していたのは、もっと単純な光景だった。もっと分かりやすい「貧困」と「搾取」。映画で見たような、涙を誘う風景。
「ところで、僕の祖父の話、聞きます?」城田は採掘現場を見回しながら言った。
城田は楽しそうに語り始めた。「ギャンブルで全財産を溶かして、借金まみれ。で、先先代の高岡さんに拾われて」
木嶋彩花。その名前を樹は知っていた。
「ある日、木嶋彩花って写真家の作品を見たんです。それで目が覚めちゃって。高岡さんに志願してアフリカ事業を始めたんです」
「僕の父は、その事業で現地に派遣されて、僕の母と出会った。だから僕がいる。便利で面倒な立場ですよ。日本とコンゴ、両方の言い分が聞こえるから」
三日目の夕暮れ、樹は採掘場を見下ろす丘に一人で座っていた。風が頬を撫でていく。東京では感じたことのない、乾いた風だった。
「綺麗ですね」
城田が隣に座った。
「はい…こんなに空が広いなんて」樹は呟いた。「東京では、空なんて見上げたことがありませんでした」
城田は微笑んだ。
「最初、みんなそう言います」
「みんな?」
「日本から来る人たち。でも、たいてい一週間もすると『早く帰りたい』って言い始める」
樹は不思議そうに首をかしげた。
「なぜですか?」
「不便だから。シャワーも満足に浴びられない。食事も口に合わない。虫もいるし、病気のリスクもある」
樹は周りを見回した。確かに不便だった。でも——
「私は帰りたくありません」
城田の表情が曇った。
「お嬢さん…」
「ここにいると、本当の自分になれる気がするんです。東京では、息が詰まりそうでした」
翌朝、樹は作業服を着て現場に現れた。
「今日は私も手伝わせてください」
城田は困った顔をした。
「お嬢さん、これは見学です。作業は危険で——」
「私、ここで働きたいんです」樹の目は真剣だった。「日本に帰っても、また同じことの繰り返し。ここなら本当に役に立てる気がするんです」
城田は長い間、樹を見つめていた。やがて、ゆっくりと首を振った。
「お嬢さん、それは逃避です」
「逃避?」
「あなたがここで感じている解放感、それは旅行者の特権なんです。いつでも帰れるから、全てが美しく見える」
城田の声に、今まで聞いたことのない疲労が混じった。「僕もそうだったんです。日本にいるときは『アフリカの血』を誇りに思い、ここにいるときは『日本人としての合理性』を頼りにする。どこにいても、自分は『特別』だと思っていました」
「私はここの現実と向き合いたいんです」
「あなたは現実を知らない。教育もまともに受けれない現実、水すら飲めない現実、飢えて死ぬ子供がいる現実」城田の声から陽気さが無くなった。「そして、僕たちのような『中途半端な存在』が、その現実を商品化している現実も」
樹は息を呑んだ。
城田は続けた。「僕は毎日、自分に問いかけるんです。僕は解決者なのか、共犯者なのか。都合の良い立場で、別の搾取を作り出しているんじゃないかって」
「それを知りたいんです」樹の声が微かに震える。
「あなたは自分の限界すら知らない。僕の祖父は言いました。『限界と向き合え』って。あなたはまだ限界と向き合ってない」
その夜、樹は一人で星空を見上げていた。東京では見えない星が無数に輝いている。
城田が近づいてきた。
「明日、帰国便の手配をしました」
樹は振り返らなかった。
「私…邪魔でしたか?」
「そんなことはありません」城田は優しく言った。「でも、これ以上ここにいても意味がない」
「どうしてですか」
城田は苦笑した。「『旅は人を成長させる』。本当、何度聞いたことか。安い物語ですよ。でも、お嬢さんの成長は、ここじゃ無理だ」
「どこにあるんでしょう」樹の声は小さかった。「私の場所は」
「東京です」城田は断言した。「あなたが逃げ出したいと思っている、その場所です」
風が吹いて、赤い砂が舞い上がった。樹は目を細めた。
城田は立ち上がった。
「お嬢さん、日本に帰ったら限界までやってください」
そして、微笑んだ。
「それでも無理なら戻ってくれば良い。今度こそ、根を張る気持ちで」
空港に向かう車の中から、虹が見えた。この時期には珍しい、スコールの後だった。
一ヶ月後の東京の空は、狭かった。
同僚の山上が近づいてきた。
「西園寺さん、例のプログラム、承認されましたね」
段階的改善案。利益の二パーセントから始める教育投資。完璧ではない。でも、現実的だった。
「アフリカ、どうでした?」山上が聞いた。
樹は少し考えた。
「空が、広かったです」
山上は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
港の風景が、今は少し違って見えた。コンテナの向こうに、城田健一がいる。矛盾と限界に向き合い続ける人が。
東京の空は狭い。でもどこかの空と繋がっている。そんな当たり前のことに気づく。アフリカの空の広さは、確かに自分の一部になっていた。例え、逃避だったとしても。
答えは見つからないが、問い続けることはできる。そして、わかっている事実もある。
七光りは消せない。
「それなら、みんなを照らしまくってやる」
あの広い空にかかる、虹のように。
