【短編小説】拳を握れば抱きしめられない
暮れていく商店街。
スポーツ店店主、茶土タケルは斜めに落ちる陽を見つめていた。工事フェンスが立ち、「ショッピングモール建設予定地」のポスターが風にめくれている。
グローブを修理する手は止まらない。破れた縫い目をつなぎ合わせる。網膜剥離で引退した元世界チャンピオンの指先は、今も正確だった。
「タケルさん、明日の会合来てくれるよね?」八百屋の松田が声をかけた。
「ああ」
店内には古いチャンピオンベルトが飾られている。その横には恩師・中村の言葉を刻んだ額。
「世界は一人では作れない」
翌日の商店街会合は騒然としていた。
「あんなのが建ったら客が減る」「ショッピングモールを追い返すべきだ」
商店街の顧問弁護士、佐藤が言った。「独自の魅力を作れば、単なる反対より効果的でしょう」
沈黙を守っていたタケルが立ち上がった。
「子ども向けのボクシング教室なら、俺にもできる」
ポスターに集まった子どもたちの中に、不登校気味の少年・健太がいた。隅に立ち、誰とも話さない。
タケルは黙って小さなグローブを健太に手渡した。
その日の帰り際、健太の母親がタケルに近づいてきた。
「実は学校でいじめられていて…何か、自信をつけさせたくて」
タケルは頷いた。
ある日の練習後、健太が残ってタケルに話しかけた。
「先生、僕、あいつらを見返してやりたいです」
タケルは健太の拳を取り、グローブを外した。
「気持ちは分かる」声は低かった。
「でも気をつけろ。復讐心を武器にすると、いつか自分も傷つく。お前を傷つけた相手と同じものになってしまう」
「拳はな、壊すためじゃない。守るためのものだ」
健太は黙って帰っていった。
翌週の月曜日、電話が鳴った。
健太がいじめっ子たちと喧嘩になり、一人を病院送りにしたという。
校長室で待っていたのは、怒りに満ちた保護者たちだった。
「元プロボクサーが子供に暴力を教えるとはどういうことか」
廊下の隅に座る健太の目は腫れていたが、どこか満足したような光があった。
その夜、タケルは拳を見つめていた。
拳には力がある。しかし師匠の言葉が蘇る。
「力の使い方を間違えれば、それは単なる破壊でしかない」
かつて自分も同じだった。誰よりも強かったが、何を守っていたのか分からなくなっていた。
健太は今、その曲がり角に立っている。
「僕が正しいことをしたのに、なんで先生は怒るんですか」次の練習の日、健太の声は震えていた。
「先生が教えてくれたんじゃないですか。自分を守るために…」
「お前は守っていない。壊したんだ」
「あいつらが先に…」
「力には責任が伴う。それが分からなければ、ただの暴力だ」
健太は黙った。
「でも、あいつらは何人もで僕を…殴り返したっていいじゃないですか」
「俺も、俺の師匠も、昔は学校で孤立していた」タケルは壁のポスターを指さした。タケルが世界タイトルを防衛した時のもの。それは、彼の最後のポスターでもあった。
「お前と一緒だ。師匠はボクシングを始める前、喧嘩で入院した。『初めて人を殴り倒した感覚は忘れない。それは、力を持つという錯覚だ』とな」
「俺もだ。強くても、大切なものが見えなくなっていた」
「構えてみろ」
ある夕方、黒塗りの車が商店街に現れた。
スーツ姿の男たちが店を訪れた。
「土地は既に売買契約が進んでいる」主任らしき男が資料を叩いた。「10年で客3割減だ。俺だってこんなことはやりたくないが、現実を見ろ」
タケルは男達を睨みつけた。
「殴るか?」男が笑う。「元チャンピオンが暴力沙汰を起こせば、ニュースになるぞ」
タケルの拳が震えた。一瞬で決着がつくことは分かっていた。
ふと、健太の顔が浮かんだ。「拳は守るためのもの」と、俺は言ったはずだ。
タケルは拳を開いた。「話があるなら、会合に来てくれ」
翌日、健太が店に来た。
「僕、聞きました。黒い車の人たち、ヤクザなんですって」健太の声は震えていた。「先生、怖くないですか?」
練習後、黒塗りの車がまた現れる。エンジン音が商店街に響き、男たちが店に入ってくる。
「反対運動を続けると、こうなる」
男の一人が、石を投げつけた。
窓が割れ、健太の腕を掠めた。
「健太!」
タケルは健太の側に急ぐ。
うっすらと、血が滲む。
「次は窓じゃすまないな」
—そのとき、空気が一瞬で変わった。
タケルは立ち上がった。
拳が握られる。
白くなる指の関節。
筋肉が記憶している。
左から入って、右ストレート。
一瞬で終わる。一瞬で壊せる。
健太の息遣いが止まった。
男たちが身構える。
師匠の声が聞こえる。
「世界は一人では作れない」
健太が見上げている。
その目に映るのは、何だ。
英雄か、いや、それとも。
—拳が、開かれた。
「ここはリングじゃない、暴力は無用だ」
タケルは重い口を開く。
「なあにカッコつけてんだ。殴ればいいじゃねぇか」
「手ェ出せば終わりだもんな、元チャンピオンさんよ」
男達の声は微かに震えている。
タケルは拳を開いたまま、一歩前に出た。
「終わるのは、お前らのほうだ」
低い声だった。
男たちは顔を見合わせ、舌打ちして引き下がった。
健太がぽつりと呟いた。「先生、すごい…殴らなくても勝ったみたい」
数週間後、健太が新聞を持ってきた。小さな記事―商店街とショッピングモールの連携案が合意されたという。強引なやり口が、佐藤弁護士の追及の対象となったらしい。
「先生。僕たちの教室、続けられるの?」
「そうみたいだな。だから、お前は今日も構えろ」
窓からは陽の光が差し込み、壁の古いグローブが温かな色に輝いていた。その隣の写真には、若き日のタケルと中村が並んで写っていた。
タケルの指先は、また一つ破れたグローブを修復し始めた。
「世界は一人では作れない」師匠の言葉を刻んだ額のとなりに、もう一つ額が飾られていた。
「拳を握らねば守れない。拳を握れば抱きしめられない」
拳を握るときは守るために。拳を開くときは抱きしめるために。
そして強さとは、その間を選ぶ力。
