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【短編小説】速すぎる世界と壊れた対象

ノートパソコンのファンが、小さくうなる。高橋光輝は肩をすくめ、冷えたコーヒーに口をつけた。翻訳原稿の進捗は悪くない。AIが作った下書きを整えるだけの仕事だ。
数年前なら丸一日かかっていた分量が、今では数時間で終わる。効率は上がった。速度も上がった。なのに、なぜか、心だけが取り残されていく。

文章はすでに整っている。自分は翻訳機のように、文の輪郭をなぞっているだけ。それでも金は入る。生活は回る。だが、どこか芯が抜けていた。


その日の原稿は、「対象とモノについて」と題された英語のエッセイだった。スプーン、椅子、石鹸皿。

日常に埋もれた対象が、ふと「モノ」として立ち上がる瞬間について、やたら難解な文体で綴られている。奇妙なことに、高橋はそのエッセイに惹かれていた。——これは、小説になるかもしれない。

そんな感覚は、ひさしぶりだった。思えば、自分の小説はずっと止まっていた。ウェブ記事、商品紹介、要約。文字数と締切には応えてきた。

だが、自分の中の何かを掬い上げるような言葉には、一度も届かなかった。


その夜、高橋は大学時代の恩師に連絡をとった。「"対象がモノになる瞬間"って、先生はどう考えますか」

返信は三日後に来た。「まずは、食事でもどうですか」

数日後。カウンターの向こうで、料理人が静かに手を動かしていた。衣をまとった野菜が、ゆっくりと油に沈む。音が一瞬だけ空気を震わせる。

「天ぷらは、湿度で決まるんです」隣に座った城之内がぽつりと言った。「手の温度と、油の温度。その間にしか、生まれない味がある」

高橋は黙って箸を動かした。噛んだ瞬間に、薄衣の奥から熱と香りがあふれ出す。食べものというより、時間のようだった。一瞬しか存在しない、整った温度の交差点。

原稿の一節が頭をよぎった。——モノとは、われわれが認識するより早く、すでにそこにある。


帰り道の深夜のカフェ。パソコンの電源が入らなくなった。

何度押しても、無反応。ケーブルを替えても変化はない。高橋は軽いパニックに陥った。締切間近の仕事が三つ。データにアクセスできない恐怖。


翌朝、アパートの近所にある小さな修理工場に向かった。昔ながらの工場が減る中で、ここだけは頑として残っていた。

実直そうな男が応対した。名札には「山岸」とある。

「十年選手ですね」山岸はパソコンを開き、しばらく静かに眺めていた。「マザーボードがやられてます。部品も今じゃ入手が難しい」

高橋は呆然とした。「データだけでも...」

「ハードディスクは無事です。取り出せば別の機械で読めますが、それも数日かかります」

山岸の言葉は、速度に浸かっていた日常に、唐突な減速を告げていた。

スマホだけでは心許ない。高橋は安売り店で緊急用の安価なタブレットを買い求めた。最低限の入力はできる。それで当面をしのぐしかなかった。


タブレットは使いづらかった。仮想キーボードは指がすべり、アプリの動作も遅い。三日目にして、高橋は完全に疲れ果てていた。

「部品は見つかりませんでした」

山岸から連絡があった。予想はしていたが、なお落胆は大きい。

「ハードディスクだけでも取り出しておきます。データは救出できるでしょう」

山岸は分解したパソコンの内部を指差した。
「一部の端子が焼けてます。マザーボードが限界だったんでしょう」

高橋は静かに頷いた。

「本体はどうしますか?」山岸が聞く。

高橋は迷いなく答えた。「持って帰ります」


夜、アパートの机の上にそれを置く。冷たくなった筐体。擦れたキー。何度もついた手垢。
壊れて初めて、それが「ただの道具」ではなかったことに気づく。思えば、この機械のなかで、無数の言葉を書き、消し、また書いた。
怒りも、逃避も、救いも、全部ここに吸い込まれていた。

高橋は床にあぐらをかき、引き出しの奥から大学時代のノートを引っ張り出した。めくると、余白の多いページが現れた。自分の手で、久しぶりに言葉を置く。

慣れない手つきの、ゆっくりとした筆跡。まるで「書く」という行為が、自分の速度を取り戻すかのようだった。

「これが自分の小説だ」
とまでは思えなかった。ただ、ようやく何かが、ほんの少しだけ自分の外に出た気がした。

加速し続ける世界のなかで、壊れたものと向き合う時間。それは、ほんのわずかに、世界の速度を戻してくれた。

書き続けるうちに、高橋はハッとして気づいた。

「速すぎる世界と壊れた対象」
それが小説のタイトルになるかもしれないと。

高橋は、音のしないパソコンの横で、静かに書き続けていた。



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