【短編小説】鬼灯の天ぷらと空虚な中心
打てば音がする油の湿度。平野は白い布で掌を拭った。天ぷらは手の湿り具合で決まる。
平野の指先は、油の音に反応して微かに震えた。揚がる音の高さで、天ぷらの芯が読める。
若熊山の大関昇進記念の盃が、天ぷら屋「若衣」の片隅に銀色に輝いている。その光が平野の手元を照らしていた。
「天ぷらは日本文化の本質ですね」とカウンター越しに高橋が言った。
「バルトは日本文化の特徴を『空虚な中心』と表現しましたが、天ぷらこそ、その極致ではないでしょうか。薄い衣の中に素材の本質を閉じ込める」
自称小説家の高橋は、週に一度は訪れる常連客だ。少々喋りすぎるきらいはあるが、ありがたい。
「本物の天ぷらは、表層にこそ本質があります」と高橋は続けた。「衣の向こうに何かがあるのではなく、その境界面そのものが天ぷらの本質なのです」
平野は無言で天ぷらを揚げ続けた。
きつねいろに揚がった天ぷらを高橋の前に置く。サクサクとした音と香りに高橋は満足げな表情を浮かべた。だが、それを見る平野の目には、どこか虚ろな影が宿っていた。
未完のまま終わった相撲人生同様、彼の天ぷらにも魂が入っていないと、彼だけが知っていた。
その夜、閉店間際に常連の草野が訪れた。無口な男だ。小さな紙袋を差し出す。
「何かな?」
紙袋の中には、薄褐色の球体が入っていた。紙風船のようだった。
「食用ほおずき」
草野は一つを取り出し、ガクを丁寧に剥いてみせた。中からオレンジがかった実が現れる。
「生で」と言って、口に入れた。
平野も一つを手に取った。軽く揺らすと、中の実が僅かに動く気配。薄い皮の向こうにある重み。口に含むと、言葉にできない甘さが広がった。
「天ぷらにしてみるか」
閉店後、平野は独りで特別な天ぷらを作った。衣をつけた実を油に落とす。しかし何かが足りない。
ふと思いついて、ガクごとのほおずきを手に取った。そのまま衣をつけ、油の中へ。薄いガクは一瞬で膨らみ、小さな風船のようになった。
一口噛むと、パリッとした後、ガクの中から漏れ出す香りと甘さに彼は驚いた。
空虚と思われた殻の中に、確かな充実があった。
翌週、高橋が訪れた時、平野はその天ぷらを出した。
「これは?」
高橋が一口かじると、驚きの表情を浮かべた。
「ほおずき...ガクごと?」
平野は頷いた。
「素晴らしい!」高橋の目が輝いた。「これこそ『空虚な中心』の具現化です」
その時、店の扉が開き、若熊山が入ってきた。大柄な体に威厳を漂わせながら。
「平野、久しぶり」
若熊山はその特別な天ぷらに気づき、一つ手に取った。
「これは...」
「ほおずきのガクごと」
若熊山はしばらく黙って天ぷらを見つめ、ゆっくりと言った。
「外側は脆いが、中身は濃密だな」
平野は静かに答えた。
「こうでなければ、天ぷらじゃない」
若熊山の目が開かれた。その眼差しには、二人だけが理解できる意味があった。
「お前らしい天ぷらだ」
その日から、「若衣」のメニューには「ほおずき」が加わった。注文する客はまばらだったが、それでも平野は毎日作り続けた。
「サクサクしているのに、繊細な味わい」と女性客が言った。「皮も身も柔らかいのに、なぜか芯がある」
「作り方は、内緒です」と平野は微笑んだ。彼の笑顔には、もう虚ろな影はなかった。
薄い殻の中に核を持つ天ぷら。それは彼の人生の体現だった。一見空虚に見える空虚な層が、内なる充実を守る器だと気づいたのだ。
平野はほおずきのガクを見つめた。それは紙のように薄いのに、確かな存在感がある。
空っぽだと思われた自分の中にも、何かがあるのかもしれない。
「空虚な中心」は、空っぽではなかった。
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