【短編小説】ある男の崇高な対象
冬の朝の光が、古い欄間を通って床に幾何学模様を描いていた。
山岸文化センターの展示室で、村上詩織は一つの作品を前に立っていた。
「無限の窓」
複数の鏡と光学レンズを組み合わせたこの装置は、見る角度によって果てしない廊下のようにも、底なしの井戸のようにも見える。三年前から学芸員として働く彼女は、その繊細な構造と、そこに託された意図を理解していた。
だが、理解することと、伝えることは別だった。
この美しさが誰にでも見えるわけではない。時折、心の奥に小さなもどかしさが芽生える。
エントランスのドアが開く音がした。
「どうぞ、お入りください」
振り向くと、二週間前にも訪れた男性が立っていた。「西野誠」と記帳していたと思う。前回は作品を見つめたあと、困惑した様子で帰っていった。
「今日は人が少ないですね」
「ええ、小原さんの作品、ちょっと難しいですから」
詩織は微笑んだ。その表情には、芸術を守る者の諦めと愛情が、穏やかに混ざっていた。
西野は展示室の中央で足を止め、「無限の窓」を再び見上げた。
鏡とレンズが織りなす奥行き。光がわずかに揺れ、像が崩れかけてはまた姿を結ぶ。
「どう感じられますか?」
「…言葉にしづらいです。私は弁理士で、普段は発明を文章にして特許にします」西野は光を見つめている。
「でもこれは……言葉にしようとすると逃げていくような。精密なのに、人の手の温度を感じるような、懐かしさがある」
「それこそが、作家の狙いかもしれません」
詩織は静かに答えた。
「カントは、崇高とは私たちの認識能力を超えたものと出会ったときの感覚だと言いました。怖さと美しさが共存するような、測り得ぬものの前に立つとき、人は立ち尽くします」
西野は少し黙ってから、「少し、一人で見てもいいですか」と言った。
詩織は頷いて展示室を後にした。
庭に出ると、縁側で囲碁を打つ山岸重雄の姿があった。風に揺れる竹の葉の音。冬の冷たい空気が、研ぎ澄まされたように静かだった。
「また来てくれたんだね、あの方」
山岸が気づいたように言った。
「ええ。だけど……伝えるって、難しいですね」
詩織は隣に座った。「理解してもらいたい。でも、説明しすぎると作品が小さくなってしまう気がして」
「詩織さん」山岸は盤面の間に生まれた空間を指した。
「石の数は数えられる。でも石が作る可能性は、誰にも測れない。芸術も、人も、人生も、きっと同じだよ。測れないものの中に、価値がある」
午後になっても、西野は展示室にいた。角度を変え、距離を変え、ときにしゃがみこんで光を確かめる。
それは、彼なりに何かを受け入れようとしているように見えた。
黄昏が訪れた。
夕日がレンズを通り、幻想的な光の模様が壁に投げかけられる。
「まだいらしたんですね」
詩織の声に、西野は振り返った。
「夕日で、まるで違う作品に見えますね」
「ええ。見る人も、光も、時間も変わりますから。同じ作品を、二度と同じようには見られない」
少しの沈黙のあと、西野はぽつりと尋ねた。
「村上さんは、なぜこの仕事を?」
「十二歳のとき、誰にも見向きされないものに、価値を見つけてくれた人がいたんです」詩織は言った。
「それ以来、理解されないものにも意味があると、信じていたくて」
西野はしばらく何かを考えていた。
やがて、小さなパンフレットをバッグから取り出しかけ、またしまった。
詩織はちらりと見えた表紙に気づいた。
美術大学の社会人入試案内だった。
「美術を学ばれるんですか?」
「……いや。私なんかが、今さら。美術を理解してきませんでしたし」
「だからこそ、です」
詩織の言葉に、西野は目を見開いた。
外に出ると、空気が濡れていた。いつの間にか、雨が降っていた。
エントランスの前で、山岸が傘を片手に空を見上げていた。
「帰りかい?ずいぶん長居したね」
「はい。……測れるものに囲まれて生きてきたので、今日は何か新鮮でした」西野が答える。
「言葉にしなくていいよ」山岸は笑った。
「感じたことが、いつか形になる」
そう言って、山岸は西野に傘を差し出した。
「どうせ、また来るんだろ?」
西野は深く頭を下げ、傘を差して歩き出した。
詩織と山岸はその後ろ姿をしばらく見つめていた。
「また来ますかね、あの方」詩織は呟いた。
「来るさ」山岸は静かに答えた。
「本当に何かを感じた人は、測り得ぬものに、引き寄せられるものだから」
西野が駅に着く頃、雨は雪へと変わっていた。
彼は傘をたたみ、空を見上げた。
「理解できないから、理解しようとするんだ」
