【短編小説】漫画家失格
僕は、漫画家失格です。
かつて、僕は天才だと思っていました。美大時代、教授たちは僕の絵を「次世代の巨匠」と呼びました。巨匠なら、稼ぐべきだ。そう思った僕は漫画家を目指しました。二十三歳で少年誌に連載が決まったとき、僕は確信していたのです。自分は選ばれた人間なのだと。
しかし現実は残酷でした。三ヶ月で打ち切り。読者アンケートは最下位。編集者の冷たい視線。僕の天才性は、ただの思い上がりだったのです。
それから十年。僕はルポ漫画家として細々と生計を立てています。変わった人を取材して、短い漫画にまとめる。そんな仕事です。漫画家として、これほど情けない仕事があるでしょうか。真の漫画家は、何もないところから物語を生み出すものです。現実に寄りかかって絵を描くなど、漫画家失格の極みです。
今日も僕は、みじめな取材に向かいます。ウェブメディアからの依頼で、原稿料は雀の涙。「六十年間、カプセルホテルに住み続ける老婆」を描けというのです。どうせまた、社会から逸脱した哀れな老人の話でしょう。
新宿のカプセルホテル「ポッド」。管理人は苦笑いを浮かべました。
「雪乃さん?ああ、あの人ね。でも取材は絶対に断ってるよ。もう何十人も諦めて帰ったからね」
僕は雪乃という女性の部屋の前に立ちました。
「こんにちは、記者の財前康平といいます」
僕は、漫画家と名乗ることさえできませんでした。すると、中から凛とした声が聞こえました。
「取材でしたらお断りします。帰ってください」
「少しだけでも」
「私の生き方を『社会の失格者』として消費したいだけでしょう。お帰りください」
僕は三日間通いました。四日目、雪乃さんがロビーで古い本を読んでいるのを見つけました。ディオゲネスの伝記でした。
「…古代の哲学者ですね」
雪乃さんは初めて僕を見上げました。透明な瞳をしていました。
「あなた、知ってるの?」
「大学で読みました。樽に住んで、すべての社会的価値を拒否した人」
「あなたも『失格者』なのね」
その言葉に、僕は動揺しました。
「僕も…そうです。漫画家として期待されたのに、結局こんな仕事しかできない」
雪乃さんは小さく微笑みました。
「私も昔、『才能を社会に役立てよ』『美しさを活用せよ』と言われ続けて疲れました。でも、この狭い空間で別の価値を見つけたの」
「別の価値?」僕は問いました。
「まずは、あなたの漫画を見せてちょうだい」
僕は雪乃さんに招かれ、近くのレンタル倉庫に向かいました。小さな倉庫の中には、段ボール箱が整然と並んでいました。
「これは何ですか?」
「二〇五二年からの記録です」
箱を開けると、新聞の切り抜き、手書きのメモ、地域誌の記事が丁寧にファイルされていました。
「一人一人の小さな実践の記録。誰も注目しないけれど、確実に世界を変えている人たちの物語」
「なぜこんなものを…?」
雪乃さんの目に、遠い記憶の光が宿りました。
「昔、城ノ内修平という学者がいました。彼は『歴史の終わり』を撤回し、『新しい歴史の始まり』を発見した。その証拠がこれなの」
僕は圧倒されました。ひとつひとつは小さな記事ですが、全体を見ると確かに何かが浮かび上がってくるのです。諦めずに続ける人々の線。新しいつながりを作る人々の軌跡。
「私はもう歳です。この記録を託す人を探していました」
「僕なんかに?」
「あなたは『漫画家失格』と言うけれど、きっと物語を伝える力を持っている」
僕の心に、久しぶりに温かいものが流れました。
「でも僕は天才じゃない。期待された漫画家じゃない」
「『天才じゃない人』の積み重ねが歴史を作るのよ」
雪乃さんは僕に鍵を手渡しました。
「橘記念アーカイブという場所があります。橘陽菜さんという司書の方に、まず相談してちょうだい。それから、あなたなりの方法で物語にして」
僕は深く頭を下げました。
「僕は漫画家として失格でした。でも今度は、失格者として描きます」
翌日、僕は橘記念アーカイブを訪れました。橘さんは優しく微笑んでくれました。
「ああ、雪乃さんの。お待ちしていました」
橘さんは少し変わった人でした。
資料から過去の記憶が視えるというのです。
「少し視えづらくなってきたんだけどね」橘さんはそう言って笑いました。
僕は新しい作品のタイトルを決めました。「今日、歴史が終わった」。
天才ではない僕だから描ける物語がありました。
失格者だから見える風景がありました。
期待されなかった僕だから、期待されない人々の声を聞くことができたのです。
雪の降る夜、僕は机に向かいました。
ペンを握る手に、かつてない確信がありました。
僕は、漫画家失格でした。
そして、それこそが僕の資格だったのです。
